主の抱える憂鬱
「ビアンカ様」
小刻みに揺れる馬車の中で主に声を掛けると、彼女は「何」と言ってうろんな視線を寄越した。
「逆さまです」
そう指摘すると、事も無げに「わざとよ」と返した。
「車の中で真面目に書類なんて読んでたら、酔っちゃうもの」
減らず口とは裏腹に、その手はしっかりと書類を上下反転させて持ち直している。
こうして憎まれ口を叩かれるのは久々な気がするし、護衛として外出に同行するのはもっと久しぶりだった。
それもこれも、ヘレンキース伯爵のおかげだ。
ヘレンキース伯爵の威光の恩恵を受けて、ハルたちの監督業務から解放された。
だが、当の主はというと、そのヘレンキース伯爵のせいでどこか浮かない表情をしているようだった。
「望んで会うわけでもない高貴な人に会うために、買いたくもない上等なドレスを買わないといけないなんて……」
向かいからぼやく声が聞こえる。
久しぶりに街へ向かっているというのに、若い貴族令嬢が見せるような、煌びやかなものに対するときめきのようなものは一切見えない。
それはビアンカが若くない――というわけではなく、性分によるものだろう。
「貴族って本当にお金がかかって困るわ……」
――あるいは懐事情によるものなのだろうか。
財政が一番の悩みだというならば、すぐそこに解決の糸口はある。
それは、詰まるところ、ヘレンキース伯爵と結婚することだったが、彼女にはその気はかけらもないらしい。
ヘレンキース伯爵に対してだけではない。
もう長いことビアンカに仕えているが、ビアンカからは絶対に結婚しない、という頑な意思を感じる。
だが俺は、ビアンカにどんなに小言を言ったとしても、早く結婚すべき、とだけは口にしない。
何故ならビアンカも、俺にどれだけ憎まれ口を叩こうとも、その言葉だけは口にしないからだ。
お互いに、その言葉がどれほど人を気鬱にさせるか、良く知っているのだろう。
ビアンカはしばらく顔の前で書類を掲げ持っていたが、そのうちその手を膝の上に落とし、窓の外に目をやった。
ぼんやりとした目で、行き交う人を眺めているようである。
「何か気になるものでも?」
そう問うと、ビアンカは、視線はそのままに眩しそうに目を細めた。
「なんだか私以外の人が、全員幸せそうに見える」
まるで不幸の淵にいるかのような話っぷりだった。
「まさか」
「うそうそ、冗談よ」
そう言ってビアンカはひらひらと片手を振った。
まさか、たかがドレスを買いに行くだけで不幸を感じる程、敏感な女性ではあるまい。
だとしたら、何故こうも曇りがちな表情をしているのだろうか。
首を捻ってみても、思い当たる節が多すぎて、俺にはわかりそうもなかった。
100話目を(ビアンカたちが)笑って迎えられますように




