ある男の言葉(3)
人の起きる気配を感じ、「やっと起きたか……」と勝手な不満を独りごちる。
いい加減、一人で考えることに疲れて果てていた。
他のことを考えようとしても、知らない男に微笑むビアンカの幻影がちらついて、どうしてもそちらに意識が持っていかれてしまう。
それでも、もうほんの僅かに残された忍耐力を使って耐えた。
起きた人物――ウォルターが身支度をして部屋を出て、調理場に辿り着くのを待つ。
それを耳で確認した後、さっと着替えを済ませ、ウォルターのもとへと駆けつけた。
「おはよう、ウォルター」
「……おはようございます」
調理場に立つウォルターは、俺を一瞥しただけで、背を向けた。
包丁を手に、食材の下ごしらえをしている最中のようだった。
「ウォルター、話があるんだが……」
その背に向かって話を切り出すと、「朝食の準備をしながらで良ければ」と返ってきた。
「ああ、構わない。その、ウォルターは……本名……というか、フルネームはなんと言うんだ?」
「……ただのウォルターです。ファミリーネームは捨てましたし、ミドルネームもありません」
「そうか。……じゃあ、マルセルって、誰だか知ってるか?」
「マルセル……? ありふれた男性名ですね。私の知り合いにはおりませんが……」
「そうか……」
しょぼくれた声で返した後、それ以上何を言えば良いかわからなくなった。
本当は、都合の良い返事が欲しかった。
例えば、手紙の差出人が実はウォルターで、「もう少ししたら屋敷で働く予定なのです」と説明されるとか、あるいは「マルセルは一方的にビアンカに付きまとっているだけの男です」だとか。
ウォルターの手元で、ジュウッと小気味の良い音が響く。
しばらくの間、かちゃかちゃと調理器具がぶつかり合う音がした後、ウォルターが無機質な声で「お力になれずすみません」と言った。
「いや、いいんだ。昨日相談に乗ってもらっただけでも、本当に助かった」
「それならば、良いのですが」
沈黙を埋めるように、再びかちゃかちゃという音が鳴る。
それからまた、ジュウッという音。
「……ハルさん、私からも一つお願いをして良いですか」
背を向けたまま、ウォルターが口を開いた。
「ああ、なんだ?」
「……私があなたの相談に乗ったのは、あなたがビアンカさんを心の底から大切にしていると思ったからです。こう言っては何ですが、あなたのためというよりは、ビアンカさんのためでした」
「……ああ」
「ビアンカさんには幸せになって欲しいのです。ハルさん、勝手で人任せな願いではあるのですが、どんな形であれ、これからもビアンカさんを支え続けて下さいませんか」
それは、重く心にのしかかる言葉だった。
ウォルターはままならない世の中を、ビアンカの生きる世界を、良く知っている。
俺に対して薄っぺらい励ましの言葉なんて口にしない。
だけど、ビアンカのことをすごく大切にしている。
こういう男だからこそ、俺はさしたる根拠もなく、ウォルターは信用できる男だ、と感じたのだろう。
「……ああ、わかった。約束する」
「……ありがとうございます」
それから間もなくして、ウォルターは調理台に並べた食器の上に、フライパンや鍋の中身を落とした。
「どうぞ」
しばらく振りに振り返ったウォルターが、皿とスープカップが乗ったトレーを俺に差し出す。
ありがとう、と言ってトレーに手を伸ばすと、ふいにウォルターが「……ビアンカさんは、」と話し始めた。
「具材を卵でくるんだオムレツが好きなのだそうです。不器用な自分じゃ絶対に作れないから、とおっしゃっていました。あと、サンドイッチも好まれます。食べやすいから好きとのことです。ご存知かもしれませんが、あまり絢爛なものは好まれないようです」
「……そうか」
「先程は勝手なことを申しましたが、私は、ハルさんはビアンカさんに必要な方だと思っています。ですから、もし機会があれば、胃袋を掴んでみて――いえ、料理でビアンカさんを喜ばせてみるのはいかがでしょう。必要であれば、レシピもお渡ししますから」
それだけ言うと、ウォルターはトレーから手を離した。
くっと、俺の両手にかかる重みが増す。
俺が何か言葉を返そうとした時、ウォルターは既にこちらに背を向け、別のトレーに食器を並べていた。
「ああ、ありがとう」
礼だけ述べて、俺はその場を後にした。




