ある男の言葉(2)
花柄の布団の中で、いつもより早く目が覚めた。
今朝はできるだけ沢山ウォルターと話したい、と思っていたが、それにしても、早く起き過ぎてしまったようだった。建物の中は静まり返っていて、誰も彼もがまだ布団の中にいるように聞こえる。
ウォルターは何時に起きるのだろうか。
その男のことをぼんやりと考えているうち、芋づる式に、昨日の会話が思い起こされる。
そうなると、もう一度目を瞑る気分にもなれなかった。
俺は身を起こし、ゆっくりとその言葉を反芻する。
何もかもが、胸に突き刺さる言葉だった。
俺はいつの間にか、ビアンカを見ようとしてビアンカではないものを見ていた。
ビアンカは「人間の女性」だけど、「人間の女性」がビアンカなわけではない。
そもそも、獣人を疎ましがらない、普通の人間とは違うビアンカに惹かれていたはずなのに。
いくら人間社会を理解したところで、ちゃんとビアンカを見て、ビアンカが好ましいと思うような男にならない限り、ビアンカに近付けるはずがないのだ。
それがどういう男なのか、俺は知らなければならない。
その時、ふと、本棚が目に入った。
かつてここに来た時分の俺は、読み書きができなかった。
でも、今は違う。今なら読めるかもしれない。読めたのなら、ビアンカのことが、もう少し理解できるかもしれない。
そう思ったら居ても立っても居られず、寝床から出て本棚の前に立った。
その本棚は、下半分は木製の扉で完全に目隠しされているが、上半分の木枠以外の部分は無色透明のガラスで覆われていた。
そのガラス越しに、本の背表紙を吟味する。
新しそうな本もあれば、ボロボロにほつれた本もある。大きさも色もまちまちで、表題も様々だった。
鉱山や魔石に関する本が多いのかと思っていたが、そういうわけでもない。あえて言うなら、何々の裁縫とか、何々の歴史、という本が多い気がする。
なんとなく見込みが外れて、気持ちが萎んでいく。どれもこれも、俺の手に負えないような難解なテーマに見えた。
がっくりと肩を落とす。それに倣うようにがくんと落ちた視線の先、一番下の段で、歴史書の間に薄い本が挟まれていることに気が付いた。
ガラス戸に張り付いて、その背表紙に刻まれた小さな文字を読む。
『美しい景色』
――これだ、という気がした。
これを読めば、ビアンカが美しいと思うものがわかる気がする。
再び気力を得た俺は、観音開きのガラス扉を半分開けて、分厚い本にぴたりと挟まれているその本を慎重に取り出した。
その表紙には、草原を背景に一輪の花が描かれていた。
そっと最初のページをめくる。平凡な山が描かれている。
さらにページをめくる。めくれどもめくれども、絵、絵、絵……。文字の無い本だった。
ビアンカはこういう本も読むのか。こういう景色が好きなのだろうか。
何となく胸にほっこりと温かいものが広がる。
最後のページをめくった時、そこから何かがひらりと舞い落ちた。
床に落ちる前に、反射的にそれを掴み取る。
軽く握りつぶしてしまった気がして、慌ててその手を持ち上げて開いた。
その掌に、歪な皺が刻まれた長方形の紙片が乗っている。
それを見て、はっと息が止まった。
『親愛なるビアンカへ
お誕生日おめでとうございます。
お祝いに、こちらの本を贈ります。
屋敷で共に暮らせる日を楽しみにしています。
愛を込めて マルセルより』
一度呼吸を整えてから、もう一度読み直してみる。
でも、内容は、最初に読み取った通りだ。
決定的なことが書かれているわけではないはずなのに、その親し気な文面を見ていると、ざわざわとした気分になる。
穴が開きそうな程見つめた後、その紙片の皺を伸ばすように、元あった場所にぎゅっと挟み込んだ。
それから本を棚に戻し、ガラス扉を閉じる。
見なかったことにしたかった。あるいは、そこら中の戸棚や引き出しをひっくり返し、自分に都合の良い結論を見つけたかった。
だけど、そんなことできるはずもなくて、ベッドに引き返し、突っ伏した。
ビアンカを知って、ビアンカと向き合いたいと思った矢先だというのに、逃げ出したい気分になる。
ひょっとして自分は随分な愚か者に見えているのではないか。
ビアンカが甘えるのは自分だけだなんて、思い上がりも甚だしい男だと思われているのではないか。
本当はビアンカには頼れる男がいて、ただ、今ビアンカの傍にいないというだけなのに。
ほんの少し前まで、近くで守れるだけで良いと、そう思っていたはずなのに、どうして欲をかいてしまったのだろう。
俺は、何もできない獣人なのに――。
そこまで考えてから、頭を振った。
いや、獣人だからじゃない。俺がこんな弱腰な男だから駄目なのだ。
それに俺にはしっぽがある。ビアンカの好きなしっぽだ。何もできないなんてことはないはずだ。
そうしてしばらく、頭の中で自問自答を繰り返していた。




