踏み込めない場所
自室で悶々としている時、急にビアンカが訪ねてきたものだから、思わず驚いて立ち上がってしまった。
もうしばらくは、ビアンカに会えないだろうと思い込んでいた。
現に、ビアンカは今も少し、痛みを伴いそうなにおいを纏っている。
「ビアンカ、体調は、もう大丈夫なのか……?」
「ええ、もう、すっかり」
ビアンカは、いつも通りの表情を浮かべて答えた。
それは、特段嬉しそうでもないが、辛そうにも見えない表情だった。
きっと、腹痛は良くなったのだろう。俺の心配事の一つは解消したようだった。
「なら、良かった……」
それから、変な間が空いた。
日にちを跨いでも尚、居心地の悪い気まずさが尾を引いている。
ビアンカは、まだ怒っているのだろうか。表情からは、読み取れない。
「……」
「……」
「ごめん」
「ごめんなさい」
何を言うべきか迷った末、意を決して口を開くと、期せずしてビアンカと言葉が被ってしまった。
ビアンカがわずかに目を見開く。
「なんで、ハルが謝るの?」
「いや、ビアンカこそ……」
絶対的に、謝るべきは俺なのだ。今ならわかる。
俺はあの日、ビアンカに月のものがきていると察してはいけなかったのだ。普通の人間の男は、きっと察するべくもないんだろう。そういう世界で生きてきた人間の女性が、獣の男に突然それを指摘されたら、不快に感じるに違いない。
だけど俺は、ビアンカの侍女の謝罪を耳にした時に初めて、そのことに思い至ったのだ。あの時ドア越しに聞こえた侍女の声は切迫していて、俺がどれほど失敗したかを物語っていた。
それに気付くまでは、俺は愚かにも、自分が真っ当な考えを口にしているつもりでいたのだ。なけなしの想像力を働かせて、こういう時は男に構われるよりも、女性に世話されたいのだろう、と潔く身を退いたつもりだった。でも、想像力の足りない俺はそれを口にして、ビアンカを傷つけた。
そもそも、自分が女だったら今日も傍にいられた、なんて発言は、俺のエゴでしかなかったのだ。
俺は本当に、ビアンカのことも、ビアンカの生きる世界のことも何もわかっていない馬鹿で、いつも失敗ばかりで――そういう自己嫌悪とか心苦しさとかを全てをひっくるめた「ごめん」だった。
ビアンカには、非なんてない。
だけど、ビアンカは言葉を続けた。
「だって、せっかくきてもらったのに、追い出すようなことをしてしまったから……」
「それは、違う。それは、俺が……その、とにかく、俺はビアンカに謝られることはされてない」
俺は中身の薄い言葉を口にしてから、首をぶんぶんと横に振った。
それ以外、どうすれば良いかわからなかった。
俺は血のにおいに気付いてしまうし、ビアンカも俺が気付いていることに気付いているし、だからと言って、気付いてしまった俺が悪い、と明言するのも絶対に違う気がする。
何を言っても間違いな気がして、口を閉ざしたまま、ビアンカを窺い見た。
ビアンカも、困ったような顔をしていた。
「そんなことはないと思うけど……。あの日の私、お腹が痛くてイライラしてて、嫌な言い方しちゃったもの。普段はあんまりそうならないんだけど、時々酷くて、自分にもどうにもならなくて――」
「ああ、わかってる」
ビアンカの声がなんとなく苦しそうな気色を帯びていて、俺は思わず口を挟んでしまった。
ビアンカが、ぴくっと反応するので、急いでかぶりを振る。
「いや、ビアンカが悪くないってわかってるから」
「……そう。ハルの周りにもそういう女性がいたってこと?」
「えっと……、そうだな、獣人の女性にも、そういう人は割といた」
そう返すと、ビアンカは何か思案するような顔になった。
この答えで良かったのだろうか、と何となく不安になる。この話題で、俺はどこまで踏み込んで良いのかわからない。
ハラハラしながらビアンカを見つめていると、ふと目があった。
ビアンカは「ああ、えっと……」と言いながら、視線を彷徨わせた。
「獣人と文化が違うことは、なんとなく想像がつくわ。でも、人間はそういうのをあんまり公にしないから……だから、今後も何も言わずにそっとしておいてくれるとありがたいわ。もちろん、他の人間の女性に対してもね」
「ああ、わかった……」
ビアンカは、俺がここで生きるために必要なことを教えてくれているんだと思う。
でも、俺はこの先ビアンカの言葉に従うことができるだろうか。
他の女性はさておき、ビアンカが強い血のにおいを漂わせ脂汗を浮かべているのを目の当たりにしてしまったら、何も言わずに立ち去れる自信があまりない。
どうにかしてもっと信用されて、もっと心を許してもらえるようになったら、いつでも一緒にいられるようになるだろうか。
「それで、今日は鉱山の再開について伝えに来たんだけど」
――そうだ。ただでさえ、一緒にいられる時間は限られてくるのだ。
来週から再開することになって、と話を続けるビアンカの声に耳を傾けながら、内心ではやるせないため息をついた。




