大切な存在
ビアンカが開けたドアの向こうで、茶色の耳がぴょこんと立つのを見た時、どっと肩の力が抜けた。
「ハル!」と嬉しそうな声を上げ、こちらに駆け寄るシオンは、端的に言うと、元気そうだった。
「じゃあ、私は外にいるから。終わったら出てきて」
ビアンカは、俺とシオンだけを部屋の中に残し、扉を閉じた。
静まり返った扉を暫し見つめた後、視線を部屋の内側へと戻す。
シオンの部屋は、俺の部屋と同じ造りをしていた。
見覚えのあるデザインの布団が目に入ると、苦い思いが沸き上がる。
シオンに何と声をかけようかと思案しているうち、シオンの方が先に、「ねえハル、」と話し始めた。
「ビアンカさん、良い人で良かったね」
「え……」
シオンの思いがけない言葉に、一瞬、返す言葉を失った。
シオンは、無邪気に笑っている。
「……なんで、そう思うんだ?」
「だって、ごはんも出してくれたし、手当もしてくれたし、ハルも連れてきてくれたし。あのライアンって人とか、他の人とは全然違うでしょ?」
「そうかもしれないが……」
「あと、僕に笑いかけてくれる人、久しぶりに見たよ!」
「……? ビアンカは、笑うのか?」
「? 笑うよ?」
なんだかざわざわとした気持ちになる。
シオンは人間の汚い部分をあまり知らない。その純粋さゆえ、きっとシオンは、にこにこと近付く人間に簡単に騙されてしまうだろう。
だが、ビアンカが騙す側の人間なのか、段々とわからなくなってきていた。
彼女は単純に、シオンを気に入っているのだろうか。
俺たちの中で一番人間に好まれるのは、シオンだろう、とは思う。
シオンの両親は人間だった。ただ、どこかで獣人の血が混ざっていたせいで、獣の耳としっぽを持った子供が生まれてしまった。
他の三人は獣人の胎から生まれたが、シオンの容姿とそこまで大差があるわけではない。四人とも、耳としっぽ以外はほとんど人間と同じに見える。
――が、もしかしたら、人間にはそうは見えないのかもしれない。
そう考えると、シオンの爪や歯はなんとなく柔らかに見えるし、くりくりとした目やふわふわの茶髪も、獣人らしくないように思えてきた。
そういった風貌が彼女のお気に召したのだろうか。
あるいは、その人懐こさだろうか。十五年近く、人間と共に生家で暮らしてきたシオンには、俺たちには到底持ちえないような気質があった。
「ハルには笑わないの?……あ、そっか。ハル、投げられてたもんね。でもあれは、ハルが脅かしたからだと思うよ」
そう言うと、シオンの耳は、ぺたんと力をなくした。
脅かしたんじゃない、殺すことさえ厭わなかった、と知ったら、シオンは俺を軽蔑するだろうか。
「ビアンカさん、僕たちにすごく優しくしてくれたのに、ハルが脅すから……」
シオンが繰り返すように言った言葉を聞き、思わず耳がぴくりと動いた。
「優しかったのか……?」
「優しかったよ。僕が怖がっているのに気が付いてた。獣人はすぐ殺される、ってはっきり言わずにわざと難しい言葉で回りくどく説明してた。多分、僕が子供だから、僕を怖がらせないように」
「……そうなのか?」
「そうだよ。……本当は僕が一番、色んな言葉を知ってるのにね」
シオンが、へへ、と力なく笑うのを、情けない顔で見つめることしかできなかった。
「ハルが僕たちを守ろうとしてくれたことはわかるよ。でも、僕は大丈夫だし、ガロもユーリも、多分大丈夫だよ。だから、ビアンカさんを殴ったりしないで欲しい……」
シオンは、上目遣いでこちらをうかがってきた。
八の字に下がった眉の下で、青みを帯びた瞳が揺れていた。
俺は、ふう、と息をついた。
「……殴らないよ。お前がそんな風だから、ビアンカもお前のことが気に入ったのかもな」
「そんな風? うーん、でも、なんで僕に優しくしてくれるのか聞いた時は、自分の大切な人のことを思い出す、って言ってたよ」
シオンは首を傾げて答えた。
大切な人――それは、なんとなく、ビアンカには似つかわしくない言葉のように聞こえた。
もちろんビアンカのことなど何一つ知らない。それでも、俺の中でビアンカの人物像がどんどん霞んでいく気がした。
そんな俺をよそに、シオンは「そうだ」と何かを思いついた声を出した。
「ねえ、ハル。ガロとユーリには会った?」
「いや、まだだ」
「じゃあ、会ってきてくれない? ハルの顔を見たら、みんな安心すると思うから」
「どうだろう。ビアンカが許すとも思えないが……」
「ハルがちゃんと謝ってお願いしたら大丈夫だよ」
「お願い、ね……」
俺が苦々しく呟くと、一度は元気を取り戻していたシオンの耳が、またぺたりとつぶれた。
「……ハル……人間だって、獣人が怖いんだよ。ビアンカさんだってきっと、四人の獣人には勝てないってわかっているから、僕たちをばらばらの部屋に入れるしかないんだよ……。ハルが怖くないってわかったら、多分、許してくれるから……」
シオンが正しいのかは、よくわからなかった。
でも、シオンは馬鹿じゃない。シオンはシオンなりの考えで、俺が「お願い」なんてしたくないことを承知の上で、こう言っているのだ。
それを無下にもできず、「わかった、やってみる」と答えた。
正直、全く自信はない。
でも、シオンはほっとした顔をした。
「ありがとう、ハル。じゃあさ、一緒に、クッキー食べよう」
「クッキー?」
「うん、ビアンカさんにもらったの。食べたら元気になるよ。食べたら、ビアンカさんに謝りに行ってね」
「クッキー……」
シオンは、ベッド横の小さな机に置かれた缶を手に取ると、蓋を開けた。
甘ったるい匂いが部屋に広がる。
シオンは中から一つ取り出し、「はい」と、俺に手渡した。
それからもう一つ出し、自分の口の中に入れた。それを見て、俺も同じように口に放り込む。
サクサクという音がし、甘い芳香が口の中に広がった。
「これは……」
「あ! 一枚しかあげないからね! もっとほしいならビアンカさんにお願いしてね!」
「……」
「ほら、食べたら、行ってきて」
「あ、おい!」
シオンは、俺にクッキーを取られると思ったのか、自ら部屋のドアを開けると、早々に俺を廊下へと押し出した。
仕方なく、向かいの壁を見つめながら、口の中の残り香を堪能する。
そうした後に、ふと横を見ると、廊下の壁にもたれかかりニコニコと笑うビアンカと目が合った。