月がきれいで(2)
中庭に着くと、ビアンカは、そこに設えられた高級感のある長椅子には目もくれず、花壇に囲まれた芝生の上に足を投げ出して座り込んだ。
「ビアンカ! 椅子なら、そこにある!」
慌ててそう声を掛ける俺に、ビアンカは不満気な目を向けてきた。
「それは、貴族が座る椅子よ。私は今、ただの入院患者で、芝生に座りたい気分なの」
「病人なら尚更、冷たい地べたに座ったりしたら駄目だ」
「でも私、知っての通り、健康だもの」
ビアンカは、やっぱり頑なだった。
今のビアンカは健康だ。それは間違いなくて、反論の余地もない。
一瞬迷ったものの、結局説得は諦めた。俺はどうしたって最終的には、ビアンカの望み通りにしたい、という考えに行きついてしまう。
それに、もしそれで体が冷えたとしても、俺のしっぽで温めてあげれば良い。
俺は一つ息をつくと、ビアンカの左隣に腰を下ろし、胡坐を組んだ。
ビアンカはこちらを見て満足そうに頷いた。それから、中途半端に欠けた月が浮かんだ空を仰ぎ見た。
「ふふ、月がきれいに見えるわね」
ビアンカは楽し気に呟いていたが、勢いよく上体を反らしたためか、ビアンカの上着のポケットからは、何かがコロコロと零れ落ちていた。
「ビアンカ、何か落ちたぞ」
「あれ」
ビアンカは右手でその丸いものを拾い上げながら、思い出したように左手で上着のポケットを探り、何かを取り出した。
「はい」
ビアンカは、左の掌を俺の方に差し出してきた。
そこには、煌びやかな包み紙に包まれた丸い菓子が乗っていた。
キャンディーのようにも見えるが、ウイスキーボンボンの匂いだった。
「月を見ながら、ハルと一緒に食べたいと思って」
「……いいのか、俺が食べて……」
「もちろん」
戸惑う俺に、ビアンカは明るく返した。
この菓子は、ビアンカの好物で、すごく美味しいと言っていて、ビアンカにとっても高級な物のようだった。
ビアンカの為に用意された物で、俺なんかが易々と口にして良い物ではないはずなのに、ビアンカはなんの躊躇いもなく、俺に、食べて良い、一緒に食べたい、と言う。
それだけで、胸がじんわりと温かくなって、なんとも言えない気持ちになる。
「じゃあ、もらう……」
俺は、勧められるがまま、手を伸ばした。その手は、差し向けられた左手を素通りし、彼女の反対の手にぶつかった。
軽く握られていた右手に手を差し込み菓子を奪い取りながら、ビアンカの表情を覗い見る。
ビアンカは、「こっちを食べれば良いのに」と言いながらも、嫌がっているような様子はない。
ビアンカは上機嫌なままで、それが本当に心にぐっと来て、目が離せなくなった。
自分がどんな顔をしているのか、よくわからない。でも、ビアンカは俺を見て小首を傾げた後、左手の上にあった菓子の包み紙を開き、口に含んだ。
リスのように頬を膨らませて、俺の手の中の菓子を指さしている。
どうやら、俺に食べ方の手本を示してくれたようだ、と気が付いた。
「あ、ああ」
はっとして、促されるまま菓子を取り出し、口に放り込んだ。
甘ったるい球体に歯を立てれば、中からどろりと独特の芳香がする液体が出てくる。
「変な味、って顔ね」
先にそれを飲み下したビアンカが、俺の顔を見てくすくすと笑っていた。
確かに、変な味だ。美味くも不味くもない。
だけど、そんなことはどうでも良かった。
「ビアンカ、本当に酔ってないんだよな?」
「ええ」
楽しそうなビアンカを見ているうち、熱に浮かされたような気持ちになっていた。
「じゃあ俺、ビアンカに謝りたいことがある」
ビアンカは、「謝りたいこと?」と復唱しながら、尚も微笑みを浮かべていた。
ビアンカは多分、酔っている。
酔っていて、だから、俺が触れることも、全部許してくれているように見えた。
今謝るなんて卑怯だ、と自分でもわかっている。それでも、今を逃したら、永遠にその機会を逃してしまうような気がした。
「俺、会ったばかりの頃、ビアンカにひどいことをした。なのに、俺は自分のことしか考えていなくて、謝れなかった……今までずっと……」
「別に、ひどいことなんてされた覚えないわよ」
「嘘だ。ビアンカは、嫌がっていた。それなのに、俺……」
喉が張り付いて苦しい。
一旦唾を飲み込み、呼吸を整えた。
「薬を飲ませる時、俺が、口移しで飲ませたんだ。本当に、ごめん……」
「……なんで謝るの? 私のこと助けてくれたんでしょ?」
「そう、だけど。でも、ビアンカに嫌われるのが怖くて、ずっと言い出せずにいた」
「じゃあ、それで私がハルのことを嫌いになることは絶対にないから、何も問題ないわね」
「でも、嫌だっただろう」
「全然?」
「ビアンカはいつも、口ではそう言う。でも、俺は気付いているから……。ビアンカが目を覚まして、俺が抱きしめてしまった時だって、ビアンカは、俺のこと、嫌がってただろ?」
自分で口にしながら、だんだんと悲しくなってきて、声は尻すぼみになっていった。
「まさか」
「でも、ビアンカは、俺の背中を叩いていただろ……」
「え?」
ビアンカは呆けた声を出した後、みるみる表情が変わっていき、「あれは、違うわよ!」と焦ったように言った。
「さすった方が良かったのかしら? とにかく、あれは人間の愛情表現というか……つまり、嫌がっていたわけではないから!」
「……そうなのか?」
「そうよ。ハルにされて嫌なことなんて、一つもないもの」
「……それはさすがに、言い過ぎだと思う」
小さな声で返すと、ビアンカは「うーん」と言って、思案するような素振りを見せた。
「でもハルは、本当に嫌になるようなようなひどいことは、絶対にしてこないもの」
ビアンカが、にこりと微笑んだ。
一気に鼓動が早くなって、意識が遠のく。
俺は、彼女の顔に浮かんだ赤くて美しい三日月を眺めながら、うわごとを紡ぐように、口を開いていた。
「……じゃあ、例えば今、俺が抱きしめてキスしても嫌じゃないって、そう言えるのか?」
「そうよ」
形の良い唇から出た、たった三文字が、甘美な誘惑のように聞こえる。
心臓が、バクバクとうるさい。
「ビアンカ、やっぱり酔ってる」
俺はいたたまれなくなって、ビアンカから目を逸らした。
視界の隅で、ビアンカがこてんと、小首を傾げるのが見える。
「でも、ハル……」
ビアンカがそう言いながら、膝に置いていた俺の右手にそっと手を添えた。
その手が温かくて、はっとして再びビアンカの顔を覗き込んでしまう。
「私、本当に酔っていないのよ」
ビアンカは俺の視線を受け止めると、とっておきの秘密を打ち明けるみたいに、そう言った。
月明かりに照らされたビアンカの顔は美しくて、その頬は薄っすらと赤く染まっている。
ほら、やっぱり酔ってるじゃないか。
でも、俺も、酔っているのかもしれない。
気付いたらビアンカを抱きしめていて、ビアンカは俺の耳元で、ふふ、と笑っていた。
第一章完。
ここまで読んでいただき、深謝です!
ビアンカは沢山怪我を負ってしまったので、ちょっとお休みさせます。
ありがたいことに、ブックマーク登録などしていただいているので、続きを書けるように頑張りたいと思いますm(_ _)m




