月がきれいで(1)
日が完全に落ちて何時間か経った頃、隣の部屋のドアが空いて、ビアンカが廊下に出た気配がした。
深夜という程の時間ではないから、ビアンカがまだ起きて何かをしていたとしても、不思議ではない。
とはいえ、部屋の外に用事なんてないはずだ。この暗闇の中、何ができるとも思えない。
不審に思い部屋を出ると、真っ暗な廊下で、壁を伝ってこちら側に歩いて来るビアンカと鉢合わせた。
ビアンカは、一瞬驚いたようにびくりと体を震わせた。
「ビアンカ、何しているんだ?」
声を掛けると、ふっ、とビアンカの吐息が聞こえた気がした。
それから、甘苦い香りがふわりと漂った。
「月がきれいだから、中庭に出てみようと思って」
「病み上がりで、こんな夜に?」
「そう」
「なら、俺も行く」
ビアンカはいつも頑なだ。この申し出は断られるかもしれない。それでも食い下がって、せめて送り迎えくらいはしないといけない、と思った。
なのに、ビアンカはあっさりと、「うん、ハルを呼びに来たの」と返した。
「なら、危ないから、呼びに来るんじゃなくて、俺を呼んでくれ」
「そうね、そうすれば良かった」
なんだろう。何か違和感がある。
ビアンカはこんな風だっただろうか。
内心で首を捻っていると、ビアンカが急に、俺の左腕にぎゅっと抱き着いてきた。
「え」
不意を突かれて、思わず変な声が出た。
ビアンカは上目遣いで、俺の顔を見ている。
「廊下が真っ暗で何も見えなくて、出た瞬間後悔したわ……。ハル、中庭まで案内してくれる?」
「ああ、そうだな……」
俺は、中庭に向けてぎくしゃくと足を踏み出した。
俺のほんのすぐ横で、ビアンカも同じ歩調で歩いている。
寝間着のドレスの上に、毛編みの薄い上着を羽織ったビアンカは、昼間とは全く違う雰囲気を纏っていて、変な感じがした。
「停電が起きて、色々と不便なのに」
歩きながら、ビアンカが話し始めた。
「あと、私、暗いところも苦手で」
「そうなのか」
「そう。病院も好きじゃないし。入院なんてしたくなかったんだけど。でも変ね。入院してから、すごく穏やかな日が続いているし、今日で終わりなんだなーって思うと、寂しい気がしちゃう」
ビアンカは饒舌だった。
昼間ビアンカの部屋で過ごしている時だって、こんな風に話しかけてくることはない。ビアンカはむっつりと黙って、書類か本か、俺のわからないものを眺めていることが多かった。会話が全くないわけではなかったが、少なくとも、ビアンカが自ら自分自身の話をすることは、まずない。
それ以前に、やっぱりちょっと様子がおかしい。
「ビアンカ」
「うん?」
「……酔ってるのか?」
そう聞くと、ビアンカは、ふふ、と笑った。
「ウイスキーボンボンくらいじゃ、酔わないわよ」
「ウイスキーボンボン……」
ヘレンキース伯爵から贈られたその菓子は、どう聞いても酒が入っていそうな名前を附されていて、しかもほのかにアルコールの匂いがしていた。
ちょうど今、ビアンカから香ってくるものと同じ匂いだった。
「ビアンカはその菓子が好きなんだよな」
その菓子を受け取った時のビアンカの嬉しそうな顔を思い出して、なんとなく悔しい気持ちになる。
「うーん、どうかしら。貰ったやつは高級品で、すごく美味しいけど。でも私は、ワイン派だから」
「ワイン? ビアンカは、酒が好きなのか?」
「んー……」
「屋敷の外で飲んだりしていないよな?」
心配だ。
ビアンカは、どう見ても、「ウイスキーボンボンくらい」で酔っている。
酔ったビアンカの愛らしさを目の当たりにしたら、心配せずにいられるはずもない。
「飲むわよ。とっくに成人しているし、パーティに行けば出されるし。でも、二口までって決めてる」
その答えを聞いて、ほっとした。
ビアンカは、他の貴族たちの前で酔った姿を晒していないし、ちゃんと自覚もある。
「なら、良かった」と言うと、ビアンカはむすっとした顔でこちらを見上げた。
「別に、私が酒に弱いからってわけじゃないわよ。パーティーで酔うと、ワインを引っかけてくるこわーい貴族たちと戦えなくなるから、だから飲まないってだけだから」
そう言って、俺の左腕を一層強く抱きしめてきたので、慌てて「わかったわかった」と返した。




