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どちらか一人

「ビアンカ……」


 呟いた言葉は、誰に聞こえるでもなく、白い部屋の壁に虚しく吸われていった。

 俺には明らかに不相応な、立派な病院の一室だった。

 俺は昨日、ヘレンキース伯爵にここに連れて来られた。

 当然、ビアンカに会わせるために連れて来てくれたのだろうと思っていた。

 なのに、そうではなかった。

 ヘレンキース伯爵は早々に姿を消し、残された俺は、医者らしき人間達から手当を受けた。

 その医者達に「ビアンカはどうなった」と聞いても、彼らは顔を引き攣らせるばかりで何も答えない。

 それが、獣人と話したくない、という意思表示なら構わない。でもビアンカはここにいないのか、それとも気軽に口に出さないくらいビアンカの状態が悪い、ということだったら――。

 考えれば考える程、胸が苦しい。両腕の火傷の痛みに意識を集中して、恐怖を紛らわし、そうしてなんとか一夜を明かすことができたが、先の見えない中で、これ以上どう過ごせば良いかわからない。

 

 白いベッドの端で、ただ、俯いて座っていた。

 ツルツルとした白い床に落ちた、自分の影を見ていた。

 長い時間が経ち、その影が濃く短くなった頃、部屋のドアが開いた。

 

「やあ、具合はどうかな」

 

 ヘレンキース伯爵だった。

 口の端は持ち上がっている。感情は、読み取れない。

 俺は、ほとんど無意識のうちに立ち上がっていた。

 

「ビアンカは、無事なのか」

「……見た方が早いだろう。ビアンカは隣の部屋にいる」

 

 ヘレンキース伯爵は表情を崩すことなく、答える。

 

「隣……?」

「気が付かなかったとしても、無理はない。ビアンカはここへ来てから一言も声を発していないから」

 

 心臓が、どくどくと嫌な音を立てている。

 

「こっちだ」

 

 ヘレンキース伯爵はそう言うと、踵を返して、部屋を出た。その後を追って、俺も部屋を出る。

 薄暗くて長い廊下には、等間隔にドアが並んでいた。

 ヘレンキース伯爵はそのドアの一つに歩み寄ると、何の躊躇も見せず、ノックもせずにドアを開けた。

 ふわりと、花の香りとビアンカの匂いが漂ってきて、また心臓が一つ跳ねる。

 

「ビアンカ……!」

 

 窓際に鎮座した白いベッドの上、人型に盛り上がった白い布団から、白い顔と黒髪だけが覗いている。

 走り寄って見れば、それがビアンカであることが、はっきりとわかった。

 ビアンカは、昨日最後に見た時と同じく、傷一つないきれいな顔をしていて、そしてどこか苦し気に息をしている。

 

「ビアンカ……?」

 

 近くで声を掛けても、ビアンカはぴくりとも動かない。

 ビアンカはいつも眠りが浅いのに、今日に限っては全く起きる気配もない。

 

「どうして……起きないんだ……」

 

 掠れた声が出た。

 俺は昨日、確かに、ビアンカを助け出した。

 建物の中で見つけたビアンカは、咳こそしていたが火傷一つなくて、俺の名前を呟いた後、安心したように眠りについた。

 すごく心配だった。でも、怪我などどこにも見当たらなくて、疲れて眠ったように見えた。

 俺はビアンカをヘレンキース伯爵に託し、消火のために建物に戻った。

 その後病院に連れて行かれ、きっとビアンカの笑顔が見られるだろうと思っていたのに、ずっと不安の檻に閉じ込められ――どうして、こうなっている? 俺はまた間違えたのか? 何故、ビアンカは目を覚まさない?

 

「君には見えないだろうが、ビアンカはひどく怪我を負っている」

 

 後ろで、ヘレンキース伯爵が答えるように言った。

 

「怪我……? そんなはずは……」

「いや、ビアンカは、肺に火傷を負っている。アビーに聞いたところ、ビアンカは彼女を庇って随分と煙を吸ったらしい」

「肺……でも病院でなら、治せるんだろ?」

「病院だって、全てを治せるわけではない」

「そんな……」

「だが、幸いにも、私には治せる」

 

 そう言うとヘレンキース伯爵は、俺の隣までやってきて、こちらに視線を向けた。

 その手には、小さな小瓶が握られている。

 

「君は、この薬に見覚えがあるだろう?」

「……ああ」

 

 それは、ガロの耳を治した薬と、同じ瓶に見えた。

 

「その薬で、ビアンカが治るのか?」

「ああ、そうだ」

「じゃあ――」

「だけど、一つ問題がある。ビアンカには意識がない。つまり、ガロのように自力で飲むことができないということだ。だが、口移しでなら飲ませてあげられるだろう。当然、この場にいる、私か君のどちらかが実行することになるわけだが、君は何か意見があるか?」

 

 その微笑は、いつにも増して不可解な何かを孕んでいた。

 俺は、ビアンカにとって一番良い方法であれば、なんでも良い。まずはビアンカの体が癒えて欲しい。それから――。

 

「はあ、なんですぐ答えないかな」

 

 俺が答えるより前に、ヘレンキース伯爵がため息をついた。

 

「君は相当にビアンカのことが好きなんだろうと思ったけど、俺の勘違いだったのかな?」

「……勘違いじゃない。だから俺は、ビアンカが助かるなら、それで良い」

「……ハル。君は見れば見る程、意気地なしだな」

 

 ヘレンキース伯爵は、飽きれたような顔をした。

 

「……なんでそうなるんだ」

「彼女と唇を合わせるのが怖いんだろう」

「別に、怖くはない」

「下手なキスをして嫌われるのが怖いのか? それとも獣人だから嫌がられるとでも思ってる?」

「俺は別に……」

「それとも別の理由があるのかな?」

 

 確かに、怖くない――というのは、半分は嘘だった。

 俺はもう二度と、ビアンカを嫌な気持ちにさせたくなかった。

 頭の片隅に、苦い記憶が浮かび上がりかける。その時、隣から再び、はあ、とわざとらしい溜息が聞こえた。

 

「君は本当に馬鹿なんだな。というよりも、人間の感情というものがまるでわからないらしい」

「……どういう意味だ」

「教えてやる義理はない。とにかく、危険を顧みずビアンカを助けに行ったのは君だろう。最後まで君が助け通せば良い。もちろん、君がどうしても嫌だと言うなら、私がやる」

「嫌じゃない」

 

 答えると、ヘレンキース伯爵はつまらなそうな顔をして、小瓶を持った腕を俺の方に突き出した。

 それを片手で受け取る。

 

「上半身をゆっくりと起こしてやってくれ。飲ませる時も、ゆっくりだ。私はその間、隣の部屋で待っている。愛しい人と他の男のキスシーンなんて見たくないからな」

「愛しい人……?」

「言っておくが、私は君やビアンカが思う以上にビアンカを愛しているし、心底結婚したいと思っている。今後も君に譲るつもりなど毛頭ない。だが、寝ている時に唇を奪いたくないから、この場は君は君に任せる、というだけだ」

「……」

 

 ヘレンキース伯爵は、また、よくわからないことを言っていた。

 

「心配しなくても、君が寝ているビアンカの唇を奪ったとしても、彼女が君を嫌うことはない。彼女はそれほど優しい人間ではないのに、君たちには優しいだろ?」

 

 ヘレンキース伯爵はにやりと笑うと、部屋を後にした。

※意識のない人に水を飲ませるのはやめましょう。気管に入ると危険です。

 但し、ある種の魔法がかけられた水の場合は、その限りではありません。

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