望まぬ見送り(2)
「……なんで行かせたんだ。本当にビアンカが行かないといけなかったのか?」
不格好な革に覆われたビアンカの背中がどんどん離れて行くのを見つめながら、言った。
恨みがましい声だった。
実際、何もかもが恨めしい。
火事が起きたことも、俺が物を知らない獣人であることも、恨めしい。
そして、お門違いだとわかっていても、目の前の男のことを恨まずにはいられなかった。
この男は俺とは違い、ビアンカと知識を共有していて、状況を意のままに操れるような知恵と地位がある人間だというのに、みすみすビアンカを行かせたのだ。
「行かないといけない、なんてことはない。でも、ビアンカが行くと決めたんだ。それで私は、ビアンカにも伝えた通り、彼女のことを信じることにしたから行かせた」
ヘレンキース伯爵は、平然とした声で答えた。
窓の向こうでは、ビアンカが金髪の女性に「私が行きます」と声を掛けている。
「それでも、あんたなら、ビアンカを止められただろう。ビアンカと結婚したいと言う癖に、ビアンカが危険な目に遭っても構わないって言うのか?」
苛々とした声で詰め寄ると、ヘレンキース伯爵は、ふっ、と鼻で嗤った。
「危険な目、ね。いや、私とて、ビアンカには危険な目に遭ってほしくないさ。でも君は、この社会で何が本当に危険かを……いや、それだけじゃなく、ビアンカのことも全くわかっていないんだろうな。だから、あんな稚拙な言葉でしかビアンカを引き留められなかったんだろう? いや、そもそも引き留めること自体が、彼女の意に沿わないな。やはり、彼女のことを何もわかっていないんだろう」
「……俺は、別に、ビアンカの意に沿うことをしたかったわけじゃない。俺はただ――」
「彼女の安全を思って引き留めた?」
ヘレンキース伯爵が俺の言葉を先読みしたように口を出した。
「……そうだ」
「じゃあなんで、もっと必死に止めなかった? 君こそ、その気になれば、力尽くで止められただろう。それともビアンカに嫌われることが怖かった? ビアンカが怪我することより?」
ヘレンキース伯爵は、畳みかけるように詰め寄ってきた。
ビアンカは、いよいよ建物へと向かい始めている。
「それは……違う」
嫌われるよりも、ビアンカが怪我をする方が嫌に決まっている。
でも、ビアンカが悲しむことだって、嫌だった。
俺が力尽くで止めることができなかったのは、ヘレンキース伯爵の言う通り、俺が何もわかってなくて、ビアンカが何にどれほど苦しむのか、推し量ることができなかったからだ。
俺が言葉に詰まると、ヘレンキース伯爵は何か思いついたとばかりに、わざとらしく「ああ、」と声を上げた。
「ビアンカが、知人を亡くしたら悲しむと思った?」
「……そうだ」と、苦々しく吐き捨てる。
「ビアンカは優しくて、人を放っておけないから?」
嘲るような気色を孕んだ言葉に、腹立たしさと口惜しさを感じる。
それでも俺は相変わらず、「ああ、そうだ」と馬鹿みたいな返事しか返せなかった。
それを聞いたヘレンキース伯爵も嘲りの態度を崩さず、再び鼻で嗤った。
「そうか。でも、君は知らないようだが、ビアンカは別にそれほど優しい人間じゃないよ」
ビアンカの姿がすっかり消えてしまった外景から目を引き離し、馬車の中へと視線を移すと、ヘレンキース伯爵はいつものように不快な笑みを浮かべていた。
組んだ脚の上で、両手の指を絡ませて、こちらを見ている。
「……何が言いたい?」
「ビアンカは君が思っているよりも、現実的だし利益主義だ。言っておくが、彼女が君たちを買ったことにしたって、別に優しさからそうしたわけではない」
「はあ? あんたに何が――」
「わかるさ。私は君たちよりもビアンカのことを良く知っているからね。彼女がどうやって生きてきたか、何を目標としているか、私は知っている」
それは、もはや俺の無知を嘲笑うという風ではなく、もっと冷ややかな声音だった。
まるでビアンカを憎んでいるかのようにすら聞こえた。
「……知っているとして、何故ビアンカを悪く言う?」
低い声で尋ねると、ヘレンキース伯爵は「悪く、か」と言って、口の端だけで笑った。
「そう聞こえたのなら、それは、やはり君がビアンカのことをわかっていない、ということだ」
「……じゃあ、そうなのかもな。だけど、わかっているはずのあんたも、ビアンカを思い通りにできないんだろう。だから、そんなに苛々してるんだろ」
ヘレンキース伯爵の様子は、明らかにいつもと違った。
もはや好感度云々などどうでも良くなったかのように、自棄を起こしたかのような態度だった。
とは言え、それを指摘したところで、この男はきっとまた、のらりくらりと躱すだけなのだろう。
そう思っていたが、その様子に反し、ヘレンキース伯爵は一瞬ぴたりと動きを止めた。
それから、自嘲のような笑みを浮かべて「苛々、か……。いや、痛いところを突くね」と言った。
「たしかに、こんなにままならないことは初めてだ。君は今、自分が只人でないことを恨めしく思っているんだろうけど、私も同じ気持ちだよ。私は今日ほど、この身に流れる血を疎ましく感じたことはないな。私か君のどちらかが、彼女の管理下にある普通の人間であったなら、彼女の代わりに仕事ができたし、それが彼女の功績になっただろうにね」
お得意の畳みかけるような口調は鳴りを潜め、途中からはまるで独り言のようだった。
俺は、言葉を返さなかった。返すべき言葉など、どこにも見当たらなかった。
ヘレンキース伯爵も返事など求めていないようだった。組んだ足をもとに戻し、背もたれに背を預けると、それきり、黙り込んだ。
俺は結局何一つ答えを得られなかったが、これ以上何かを聞いても無駄なことだけはわかった。
本当に腹立たしい。この男が根っからの悪人に見えないせいで、尚更腹立たしさを感じる。
俺は、内心でため息をつき、再び窓の外に目を向けた。
炎は見えない。ただ、建物の内部で断続的に何かが燃えているようで、煙は上がり続けている。
魔石掘りの火事の臭いと、木か何かが燃える臭いが混ざっていて、鼻はうまく利かない。
耳も同じだ。人々のざわめきと、パチパチと燃える音のせいで、建物の中の様子が探れない。
視覚がビアンカを捉えるまでは、不安が晴れることなど、ありそうになかった。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
ようやく、建物から人影が出てきた。その人物は、頭の天辺から足首まで、見覚えのある革に包まれている。
「出てきた……」と呟くと、視界の端でヘレンキース伯爵が顔を上げ、窓に寄るのが見えた。
「あれは、ビアンカか……?」
ヘレンキース伯爵が訝し気に尋ねる。
「いや……違う」
ビアンカじゃないことは、最初からわかっていた。あれはアビーとやらなのだろう。
でも、きっとビアンカは、アビーの後ろにいるはずだ。すぐに姿が見えるはずだ。
そう思って心を落ち着かせようとしているのに、五感は確証を捉えることができず、心臓がばくばくと鳴り始めた。
「ビアンカ様と、中で別れてしまって……」
窓の向こう側から嗚咽と共にその声が聞こえた時、もう無理だった。
うるさく鳴り響く鼓動音は幻聴となって、「ハル」と俺を呼ぶビアンカの声に聞こえた。
「ビアンカ……!」
俺は馬車を飛び出していた。
ぎょっとした顔を向ける男の手からバケツを奪い取り、その中身を頭から被った。
泥臭い水だったが、構わなかった。
そのまま無我夢中で、建物の中に飛び込んでいた。




