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望まぬ見送り(1)

「ビアンカ嬢には説明するまでもないでしょうが……東第四発電所には二十分もかからず到着するでしょう」

 

 疾走する馬車の中、ヘレンキース伯爵は薄い微笑を浮かべて、そう言った。

 

「ええ、そうですね」

 

 ビアンカが相槌を打つ。

 きっと二人とも、この発電所には何度も足を運んだことがあるのだろう。

 二人には、勝手知ったる乗り物で慣れた道を進んでいるという、余裕があった。

 

「それで、その革が例の外套ですか?」

 

 ヘレンキース伯爵が、革の塊を横目に見やり、尋ねた。

 やたらと柔らかい四人乗りの座席の一角、ヘレンキース伯爵の隣、且つ俺の正面にあたる場所に、革の塊がうずたかい山を作っている。

 

「ええ、そうです」

「何着あるのですか?」

「今のところ、ここにある二着のみです」

「そうですか。まさか、こんなに早く持ち出されることになるなんて、誰も予想してなかったことでしょうね」

「ええ、本当に」

「ですが、それがここにあるだけで、心強いものですね。東第四発電所にも消火剤の備えくらいはありますが、何せ、知識と経験がまるで足りません。魔石に精通したあなたがその外套を持って現れれば、きっと発電所の職員も幾分安心できることでしょう」

「ええ、そうであれば良いのですが」

 

 俺の中では、今も、切迫した不安が渦巻いていた。

 でも、二人の言葉には、そういうものは見られない。

 その代わり、なんとなく上滑りしたような会話だと思った。

 ヘレンキース伯爵は沈黙を埋めるように、意味があるのかないのかわからない話をしていて、ビアンカはそれに曖昧な返事を返していた。

 俺は、何も言わなかった。

 二人も、俺に話を振ったりはしなかった。

 二人は気付いていないのだろう。こうしている間にも俺の耳には、ざわめきが届き始めていた。

 誰も彼もが思い思いに不安や不満を口にする中で、一際甲高い声が耳についた。

 俺はそれを、意図的に無視した。

 馬車が到着する前に、この金切り声が止んでほしい。

 そう願っていたが、その声が鳴り止まぬうちに馬車は目的地に到着し、終にはビアンカの耳にも届くこととなった。

 

「行かせて下さい! 早くしないと、アビーが死んでしまいます!」

 

 完全に止まった馬車の窓の向こうで、女性が金髪を振り乱し叫んでいる。

 これだけ近付いてしまえば、たとえ馬車の窓越しだとしても、人間の聴力だとしても、はっきりと聞こえてしまうだろう。

 いや、聞こえなかったとしても、視覚的にも状況は明らかだった。

 建物へ向かおうと暴れる女がいて、二人の男がそれを制止している。

 その奥には、燻ったような煙を上げる建物があって、その出入り口から内側に向かって消火剤らしきものを振りまく男の姿もある。少し離れた場所で、どうしたものか、と無駄な議論をしている者たちもいた。

 だが、建物の中に入ろうとする者は誰一人としていない。

 誰も彼もが、気まずげな表情、あるいは、まるで真剣に対応しているかのような表情を浮かべるばかりだった。

 それはきっと、至極一般的な反応なのだと思う。

 おそらくは、彼らもあの炎が容易に人体に引火することを知っていて、そしてそれを恐れているのだろう。

 

 俺は、馬車の中へと視線を移した。

 ヘレンキース伯爵は、窓の外を見まわしながら、「なかなか悩ましい状況ですね……」と呟いている。

 ビアンカも同じような仕草をしながら、「ええ……私がアビーを探しに行きます」と言った。

 その言葉で、ぐっと胸が重くなる。

 

「ビアンカ、それだけはやめてくれ……」

 

 だから、来させたくなかったのだ。

 こうなってしまえば、ビアンカの意志は固い。きっと俺には覆せない。

 そうわかっていても、それでも懇願せずにいられなかった。

 

「悪いけど、私は行くわ。ここで議論するよりも、火の勢いが落ち着いているうちに事態を収拾すべきだもの」

 

 言いながら、ビアンカは革の塊を引き寄せて、袖に腕を通し始めた。

 

「なら、俺が行く」

 

 自分でも情けなくなるくらい、余裕のない声だった。

 ビアンカは一時手の動きを止めて、顔を上げた。

 

「気持ちはありがたいけど、それは無理よ。あなたが行ったら、パニックになりかねないわ」

 

 そう言うビアンカの表情は、「ハルがついて来なくても発電所には行く」と言った時の頑なな表情とは全く違った。

 ビアンカの眉尻は、わずかに下がっている。困ったような表情を浮かべて、俺の言うことをいちいち受け止めて、謝ったり礼を述べたりしている。それが余計に俺を苦しめた。

 ビアンカは、俺が何を心配しているかわかっていて、それに共感している。その上で俺の意見は受け入れられないと言っているのだ。

 ビアンカは、再び外套に目を落とすと、狭い馬車の中だというのに、器用にそれを着込み始めた。

 

「一般論として、あなたが行くのが最善なのでしょう。ですが、念のためお伺いしたいのですが、あそこで叫んでいる彼女は行かせるべきではないと考えているということですよね?」

 

 しばらく黙って様子を見ているだけだったヘレンキース伯爵が、口を開いた。

 ヘレンキース伯爵は、視線で金髪の女性を示しているようだった。

 

「ええ、残念ながら、彼女は……。私は、彼女と挨拶を交わしたことがあります」

 

 ビアンカは、手を止めずに答えた。

 

「その時あなたは、指輪をつけていた、と?」

「ええ、そうです。彼女は絶対に中にいれてはいけません」

「そうですか……。では、私は止めません。あなたが勝算なく行動に移す人ではないと知っていますから。私は、あなたを信じて待つことにします」

 

 その言葉で、ヘレンキース伯爵が言いくるめてくれるのでは、という愚かで甘い期待もついえた。

 ビアンカは、平坦な声で「ありがとうございます」と言いながら、今や、足首の辺りにある最後のボタンを留めている。

 それが終わると身を起こし、もう一着の外套を掴み取って自身の左前腕にかけた。

 

「では、行って参ります」

 

 ビアンカは革を纏ってきっと暑いはずなのに、それでも涼しい顔をしている。

 その顔は一時俺の視界から消え、馬車から降りた後に、再びこちら側へと向けられた。

 ビアンカは俺と目が合うと、ぎこちない笑顔のようなものを浮かべた。俺の情けない表情に苦笑したようにも見えた。

 

「待って下さい、ビアンカ嬢」

 

 ビアンカが自ら馬車のドアを閉める直前、ヘレンキース伯爵が声を掛けた。

 ビアンカは手を止めて、ふっと視線を上げる。その顔からは、既に笑顔の欠片も消えていた。

 

「その指輪は、私が預かりましょう。大丈夫だとは思いますが、それが発熱して火傷を負うようなことがあってはいけませんから」

 

 ビアンカは、「ああ……そうですね」と言って右手を持ち上げると、その中指に輝く指輪を外し、ヘレンキース伯爵の手に預けた。

※読者の皆様は、火事現場に入ってはいけません。但し、異世界転生した場合は、その限りではないかもしれません。

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