憂鬱な雨をはじく傘
もはや自室と呼べるくらいに馴染んだ、その狭い部屋で腕立て伏せをしていると、ゴンゴンゴン、と固いノックの後、乱暴にドアが開かれた。
「ライアン」
ハルがずかずかと部屋に入って来る。
一体何事かと身を起こし立ち上がると、ハルは出し抜けに、「傘はないか」と言った。
「は? 傘?」
なんで今、そんな代物が必要だと言うのか。
まさか、庭を散策するわけでもあるまい。
「ああ、ビアンカを屋敷に返したいけど、雨が降ってる」
「そんなに振ってるのか?」
「いや、小雨だけど、ビアンカが熱を出したら困るだろ」
何を大げさな、と思ったが、ハルの目は真剣そのものだった。
「はあ……傘はここにはない。でも、一階に置いてあるはずだ」
「そうか。一階のどこだ?」
「物置だが……俺が取りに行く」
俺は机から鍵を取り出すと、ハルを避けて、部屋を出た。
当然ハルも、それについてくる。
一体何が彼をそうさせたのか、ハルは鬱陶しい程の使命感を滲ませているように見えた。
「ハル。言っておくが」
階段を下りながら、背後のハルに話しかけた。
「なんだ」
「ビアンカ様は、そこまで軟弱じゃない」
「軟弱とは思っていない」
「だとしても、心配と過保護は違う」
なんといっても、俺が少し心配するだけでも煩がるのだ。
ハルのビアンカへの忠誠心は買っているが、過保護に扱われることはビアンカの本望ではないだろう。
「カホゴ? 俺は、ビアンカを守ろうとしているだけだ」
ハルに伝わるはずもないか……。
ため息をつきながら、最後の一段を下りた。
物を知らないハルだって、ビアンカに煙たがられれば、嫌でも俺の言葉の意味を知ることになるだろう。
俺からはもう何も言うまい、と思いながら、階段下の収納部屋の鍵穴に鍵を回し入れ、戸を引き開けた。
――ドカドカドカ。
開けるや否や、その振動でか、部屋に設えられた棚から、物が雪崩れ落ちた。
「大丈夫か」
横からハルが顔を出す。
「ああ」
我ながら、ひどく疲れた声が出た。
俺はガラクタの中から、濃紺の傘を引っこ抜き、ハルに押し付けた。
「これでいいだろ。これを持って、早く行け」
そう言うと、ハルは嬉しそうに「ああ、助かる」と言った。
とんだ忠犬だった。
俺は収納部屋の中へ踏み入り、ドアを閉めた。
なんでこんな状態になっているのだろうか。そう考えてから、思い出した。
ハルたちを収監する際に、危険物となり得るものをかき集めて、ここの棚に無理やり押し込んだのだ。
俺が知る限り、それ以来この部屋は開かずの部屋になっていた。
俺が片付ける他ないか……と、ため息をついてしゃがみこむ。
落ちた箱に手を伸ばしかけたところで――背後から声が聞こえた。
ドア一枚隔てたところで、ハルとビアンカが何か話している。
――どうにも気になって、むずむずとした心地になった。
ビアンカはハルを疎ましがって、遠ざけたりしないだろうか……。
それこそ行き過ぎた心配かもしれないが、ほんの少しだけ様子を見れば、俺も安心して片付けに取り組めるかもしれない。
俺はその声が遠ざかった後、そっと二人の後を追い、商館のドアを細く開けて覗いた。
雨が、ぱらぱらと降っている。
その下で、ハルがビアンカに傘をさしている。
ハルの体のほとんどは、雨に曝されている。
でもただ一つ、しっぽだけは、傘の下で――というよりビアンカの腕の中で守られている。
ビアンカは、悪戯っぽく微笑んでいる。
ハルは、眉尻を下げながらも口元は笑っている。
――良いことだと思う。
ハルがビアンカをきちんと守っていて、ビアンカもそれを受け入れているのだから。
ビアンカが俺の心配を煩わしがる、という背景さえなければ、俺だって諸手を挙げて喜んだはずだとも。
俺は何とも釈然としない気持ちで、収納部屋へと戻り、ぐちゃぐちゃの床を見てため息をついた。




