相談の帰結(1)
屋敷のドアを出て初めて、雨が降っていることに気が付いた。
空は明るいのに、所々に散らばった雲がぱらぱらと雨を落としている。
強い雨ではなかった。
行先は目と鼻の先なのだから、傘は差さなくても問題ないだろう。
そう考えて、私は速足で商館へと向かった。
目的地は、ハルの部屋だった。
庭に姿がなかったから、ハルは十中八九、自室にいるのだろう。
ドアをノックし開ければ、ハルは確かにそこにいて、ベッドの隅に腰かけていた。
「ハル。今、ちょっと良い?」
そう声を掛けると、ハルはぎょっとしたような顔をして立ち上がって、こちらに駆け寄ってきた。
「どうしたんだ、ビアンカ。雨に打たれたのか」
「ああ、そう。通り雨みたい」
「なんで、傘を持ってないんだ」
ハルは私をあちこち見回しながら、焦ったような声を出していた。
「小雨だったし、商館に来るだけだったし。それより、今時間あるなら、下の階で話がしたいんだけど」
「それはもちろん、構わないけど……」
私が廊下へ出ると、ハルもそれに従った。
ただ、どこか不服そうな顔を浮かべている。
私は応接間についてからゆっくり話を、と思ったが、ハルは歩きながらも会話を続けてきた。
「ビアンカ」
「何?」
「傘はさすべきだ。雨に濡れて、また熱を出したら困る」
「それは……。まあ、そうね。気を付けるわ」
小雨くらいで随分と大げさだな、と思いつつも、反抗する言葉は飲み込んだ。
実際私は、少し前に雨に打たれて寝込んでいる。
朦朧としていたので寝込んでいた間の記憶が曖昧だが、熱が下がって目が覚めた時のことはよく覚えている。
私は寝たままハルのしっぽを抱え込んでいて、ハルはちょっと傾いたような変な姿勢で、私を見下ろしていた。すごく、困った表情をしていた。
さぞかしご迷惑をおかけしたのだろう、と反省する気持ちはある。
「それに、傷痕を濡らすのも良くない。そうだ、もしかして、首のガーゼを交換しに来たのか?」
「いえ、ガーゼは侍女が交換してくれるし、自分でも何とでもできるから大丈夫よ」
「そうか……。手首の痣は大丈夫なのか? 腕輪なんかして、大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。だから、そっちじゃなくて、こっちよ」
何の疑いもなく、一直線に医務室へ向かおうとするハルのシャツの裾をひっぱり、押しとどめた。
「応接間で話しましょう。こっちの方が椅子がふかふかだし」
「……そうか、わかった」
ハルの服から手を離し、応接間に入ると、ハルも大人しくそれについてきた。
応接間には、中途半端な明るさが差し込んでいる。
カーテンが、半分開いているためだった。
そこから覗く空は相変わらず暗雲が立ち込めていて、カーテンを全開にしたところで、部屋は薄暗いままだろう。
私は、手早く明かりをつけて、手前のソファに座った。
ハルもそれに倣うように、テーブルを挟んで向かい側のソファに腰をかけた。
「そういうわけで、三つくらい相談があるんだけど」
「ああ」
ハルは、妙に神妙な顔でうなずいた。
「まず、ユーリの様子はどう? 元気にしてる?」
「……ユーリか……」
ハルの表情は、一気に険しくなった。
「ユーリは……問題ない」
「……本当に?」
「ああ」
「……そういう表情には見えないけど」
「いや、本当に、ユーリは元気だ」
ハルはかぶりを振って答えた。
眉間の皺は幾分薄くなったが、それでもまだ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「食事も摂ってるし、ちゃんと寝てる」
「……ならいいんだけど」
明らかに何か隠しているように見えたが、ハルがそう言うなら、健康ではあるのだろう。
それに、どれくらい正確かはわからないけど、ライアンからも問題ない旨の報告は受けている。
きっと、私が干渉する程の問題は起きていないのだろう。
私は気を取り直して、「じゃあ、二つ目」と次の話題に移った。
「色々と問題が片付いたから、近日中に鉱山が再稼働することに決まったの」
「……そうか」
ハルは、眉間の皺はそのままに、頷いた。
「それで、ハルたちもルドも十分慣れただろうから、今後は一週間毎の交代じゃなくて、毎日働いてもらいたいと思っている」
「え…………」
ハルは、愕然とした表情で、私の目を見た。
ぽかんと口を開けたまま、言葉を失っているようにも見える。
あまりの迫真さに、私は若干たじろいだ。
そんなに驚くようなことを言っただろうか……。
「……そんなに嫌なら、理由次第では考え直すけど……」
「いや、嫌というか……。働くのは良いけど、それってつまり、他の人間と同じように、宿舎でずっと過ごすということだろ? 毎日……週末も……」
ハルは、はっと息を吹き返したように話し始めたが、その声は覇気のかけらもなかった。
「そのことなんだけどね……順番に説明すると、まず、シオンは魔石堀りじゃなくて、もっと経理みたいな……書面仕事をやってもらう方が良いのかなって思ってる。本人も、それを望んでいるように見えて……。ハルはどう思う?」
「それは……俺もそれが良いと思う。シオンは力仕事に自信が無いみたいだし、それに、文字もかけるし俺たちの知らないことを色々知ってるはずだから……」
「……やっぱりそうよね」
きっとシオンは、この先成人しても、鍛錬を重ねても、ハルたち程の力は得られない。
それは多分生まれた時から決まっていたもので、どうしようもなかった。
シオン自身もそれをわかっているのだろう。シオンは時々、悲し気な表情で他の獣人を見ていた。
おそらくハルもそのことに気が付いていて、私と同じことを考えている。
シオンがハルたちに負い目を感じずに生きるためには、彼の強みを活かせる場所を見つける必要があった。
「そうなると、まずは屋敷で勉強をしてもらうことになるのよね」
「そうか……」
「そう、それで最初の話に戻るんだけど、ハルたち三人が鉱山で働くとなると、屋敷にシオンが一人になっちゃうじゃない。それがひとつつネックで」
「そうだな……」
ハルは唸るように言った。
それから束の間考える素振りを見せた後、「でも、シオンならきっと大丈夫だ。シオンはそこまで子供じゃないし、ライアンともそれなりにうまくやってる。すぐには慣れないかもしれないけど、俺はシオンなら大丈夫なんじゃないかと思う」と言った。
それは心強い言葉だった。
ハルは仲間のことを良く見ている。
ハルに大丈夫と言われれば、少し肩の荷が下りたような気がした。
「そうよね。でも、ずっと一人じゃ寂しいだろうから、やっぱり週末にはハルたちに帰って来てもらった方が――」
「ああ、それが良いな」
ハルは、かなり食い気味に返事をした。
「……そうよね。とは言っても、毎週全員で帰って来なくても良いと――」
「いや、俺は毎週帰る」
「……それならそれで良いんだけど」
シオンがそんなに心配なのか。
それともやはり、宿舎は息が詰まるのだろうか。
どちらの理由だとしても、かなり納得がいく気はした。




