傷痕と経過(1)
パーティーが終わると、いつも通り、ヘレンキース伯爵家の馬車でキーリーの屋敷へと向かっていた。
ただ、馬車の中の空気は、いつもと随分と違った。
ヘレンキース伯爵が随分としおらしい。
例えば、「私の友人になったおかげで、他の貴族から嫌がらせを受けなくなったでしょう?」などと軽口を叩いてもおかしくない状況だと思うのに、ヘレンキース伯爵はそうしなかった。
表情は穏やかにも見えたが、普段の笑顔とはどこか違う。
「ずっと考えていたのですが」
長い間黙り込んでいたヘレンキース伯爵が、おもむろに口を開いた。
彼の視線は、私の顔よりもわずかに下に向けられているようだった。
「その首のガーゼの下にあるのは、咬傷ですよね」
「こうしょう?」
「つまり、噛み痕です。それに、あちこち内出血している。私には、不思議とわかってしまうのですが」
おそらく、不思議でも何でもなく、それがヘレンキース伯爵の能力なのだろう。
私は魔法には詳しくない。でも、ヘレンキース伯爵が治癒系の力に秀でているということだけは、これまでの諸々から察しがついた。
「……ご想像にお任せします」
「実は怪我については行きの馬車で確認していたのですが、理解が追いつかず、ずっと考えていました。私の友人に乱暴を働いた命知らずな男がいるのか、あるいはあなたがそういう性癖の男と交際しているのだろうかと、考えていました。でも、改めて傷痕を観察してみると、どうやら私の懸念している状況とは違うことに気が付きました。あなたに噛みついた男は、随分と犬歯が鋭いようです」
ヘレンキース伯爵は、私の反応を伺うように、視線を上げた。
「獣人のうちの誰か……いえ、ユーリでしょうね。彼があなたに噛みついたのは、私が彼らを挑発したことも一因でしょう。私の浅慮でした。申し訳ございません」
そう言うと、ヘレンキース伯爵は私から視線を外し、頭を下げた。
「いえ――」
私は、返答に迷った。
怪我を負った経緯をヘレンキース伯爵に知られたところでどうなるわけでもないと思うが、快くさらけ出すような内情でもない。
かといって、これ程的確な「ご想像」を披露されては、誤魔化す隙があるとも思えなかった。
「……頭を上げて下さい。噛まれたことについて謝罪いただく必要はございません。ただ、今後は、質の悪い冗談は控えて下さい」
結局諦めてそう返すと、ヘレンキース伯爵は困ったように微笑んで、「そういたします」と返した。
「――そろそろ屋敷に着きますね」
ヘレンキース伯爵は、徐々に速度を落としていく景色に目を向けた。
「きちんと手当されているようですが、もしも傷が化膿したり、悪化するようでしたら、すぐに私にご連絡を下さいね」
「ええ、お心遣いありがとうございます」
「次にお会いするのは、警備室の視察の日ですね。こちらは予定通り進んでおりますが、詳しいことはまた改めてご連絡致します」
「はい。色々とありがとうございます」
馬車が完全に止まった。
窓越しに、門が開くのを確認する。
「では、今日はこれで――」
失礼します、と言おうとしたところに、ヘレンキース伯爵が「ビアンカ嬢」と声を掛けてきた。
「ユーリはその後、落ち着きましたか? 私とあなたが一緒にいるところを見たら、またあなたに牙を剥くと思いますか?」
ヘレンキース伯爵は、彼にしては珍しい、真剣な表情を浮かべていた。
「いえ、大丈夫でしょう。少なくとも噛みつかれることはないと思います」
あれからユーリとは話していないが、我に返ったユーリは、私に危害を与えたことを後悔しているような素振りを見せていた。
ユーリが不満を持ち続けているとしても、再び力尽くで、ということはないような気がする。
そう考えていると、ヘレンキース伯爵は「ふむ……」と言った。
「実は、門の向こうに、白いしっぽが覗いています」
「え?」
慌てて窓の外を見ると、確かに、しっぽが見えた。
ユーリは、ライアンから自室謹慎を言い渡されているはずだった。
でも、白くてふんわりしているあのしっぽは、どう見たってユーリのものだ。
「私はこのまま帰った方がよろしいですか?」
「ええ、そうしていただけると……」
私はそのしっぽから目を離せないまま、答えた。
「わかりました。あなたに求婚する男としては、ユーリを退けて、あなたを屋敷まで送り届けたいところなのですが。でも良き友人として、あなたとユーリを信じて帰ることに致します」
ヘレンキース伯爵が、ふっと笑うのが聞こえた。




