息苦しさからの解放(2)
「ハル、ありがとう。自分で手当てできるから。もう、戻って良いわよ」
医務室のベッドの縁にビアンカを下ろすと、彼女は存外にしっかりとした口調でそう言った。
表情も気丈だった。
でも、そう装っているのかもしれない、と思うと、一人にすることができそうになかった。
「俺が手当てする」
「でも私……自分でできるわ」
「駄目だ。手首にも痣ができている。動かせば痛むだろ」
それは俺がここに留まるための言い訳ではあったが、事実でもあった。
ビアンカは、首以外にも怪我をしている。
床に押し付けられていた左頬は赤くなっているし、手首には掴まれたような痕があった。
もしかしたら、ドレスに隠れている場所にも、同じような怪我を負っているかもしれない。
「これくらい大丈夫よ。自分でできるわ」
ビアンカは頑なで、あくまで俺に手当をさせる気はないようだった。
「……俺の手当が嫌なら、ガロかライアンを連れて来る」
そう口にしながら、自分の不甲斐無さを感じ、ぐっと拳を握った。
だが、ビアンカは焦ったようにかぶりを振った。
「そうじゃない、違うの。だから、前にも言ったじゃない。一人で考えたい時もあるの」
ビアンカは顔を歪ませて、軽く俯いた。
その顔を見て、俺は思い至った。
もしかしてビアンカは、泣きそうなのだろうか。泣き顔を見られたくなくて俺を追い出そうとしているのだろうか。
でも、そうであれば尚更、一人にしたくなかった。
俺はビアンカの隣、拳二つ分空けたあたりに腰かけた。
そのまま、しっぽをビアンカの顔に押し付けると、ビアンカは驚いたように「わっ」と声を上げた。
「俺は、ビアンカの顔を見ないから……」
「な、なに……」
ビアンカの声がくぐもって聞こえる。
「だから、俺はビアンカが泣いたとしても、泣き顔を見たりはしない、って言ったんだ」
ビアンカは、すぐには返事をしなかった。
ほんの数秒、沈黙が落ちた。
「ハル、私、ユーリに噛まれたくらいで泣いたりしないわよ」
ぽつりとビアンカが言った。
顔が隠れているので、表情がわからない。
でも、静かな声だった。
「本当か? ビアンカは、泣いたって怒ったって良いんだ。ビアンカは何も悪くないのに、ビアンカが我慢して、傷ついていないふりをする必要なんてないから」
俺がそう言った後、ビアンカがため息をついたのをしっぽで感じた。
「ハル……ハルは、私に優しすぎる」
「駄目なのか?」
「駄目よ……私、この家の主なのに、ハルに優しくされると、子供の頃に戻った気持ちになっちゃう。母に甘えて泣きついてた頃の弱い私に、ね」
ビアンカの声は、話すほどに、か細くなっているようだった。
「別に、俺はそれで良いと思う。俺の前でくらい、弱くなったって良い。それに、ビアンカが苦しい時は、俺がちゃんとビアンカを守るから」
「……本当にそう思う?」
「本当だ。さっきも……何故か、ビアンカが俺の名を呼ぶ声だけ鮮明に聞こえたんだ。呼ばれたら、絶対に助けに行くから」
ビアンカは、しばらく黙った。
それから、「……ハルはやっぱり変ね」と言って、俺のしっぽを両手でぎゅっと抱きしめた。
「じゃあやっぱり、ハルに手当してほしい」
しっぽの向こうで、ビアンカの一層くぐもった声が聞こえた。
表情もわからないし、声音だって正確には聞き取れない。
でもその言葉には、確かに甘えが含まれていて、俺はどうしようもなく堪らない気持ちになった。
ビアンカが受け入れてくれたことが嬉しくて、可愛らしくて、とにかく、ビアンカの腕の中のしっぽが揺れぬよう、必死に神経を集中しなければならなかった。
「わかった。じゃあ、救急箱を取りに行くから……」
「うん」
「……その、一旦、しっぽを放してもらえるか」
「……やだ」
「やだって……それじゃ手当ができないぞ」
「もうちょっと待って。今、顔を見られたくないの。……感動の涙を流しているから」
ビアンカは、俺のしっぽを離すまいと、ぎゅっと顔に引き寄せたようだった。
ビアンカは嘘をついている。
しっぽは確かに彼女の顔の熱を感じているが、そこは乾いたままで涙の気配はしない。
でも俺は、それに気付かないふりをした。
ビアンカは、十年か、あるいは二十年か、きっと長いこと人に甘えることなく生きてきたのだろう。
今ビアンカが俺に甘えてくれているというのなら、もう少しの間それを受け止めたい。
ビアンカの気持ちが落ち着いて、それから俺の気持ちも落ち着いたら、傷が悪くならないように丁寧に手当をしよう。




