息苦しさからの解放(1)
2023/9/2 加筆修正しました。
咄嗟にドアを開けた時、おかしな光景が目に入った。
ビアンカがうつ伏せに倒れていて、ユーリもその上に倒れかかっている。
二人の表情は見えない。ビアンカの顔は向こう側を向いているし、ユーリの俯いた顔は髪に隠れていて窺えない。
わけがわからない。でも、ビアンカが俺に助けを求めたことだけは確かだった。
「ビアンカ! ユーリ!」
反射的に、叫ぶような声が出た。叫びながら、部屋に踏み込んでいた。
何があったんだ。二人は転んだのだろうか。そんなことがあるだろうか。いずれにしても、怪我をしていたら大変だ。とにかく二人を助け起こさないといけない。
頭の中では、ごちゃごちゃと思考が絡まっていた。
だが、その思考は、「グヴゥゥ」という音が頭に届いた瞬間、一気に萎んで別の物に置き換わった。
踏み出しかけた二歩目が空中でぴたりと止まる。
その音が何であるかはっきりと認識すると、宙ぶらりんだった足は重力に従い真下へと落ちた。
――それは、ユーリの威嚇だった。あるいは、警告だろうか。
ひやりとしたものが背中を伝う。
ユーリはゆっくりと顔を上げて俺の方を見た。
白い髪が揺れて、ユーリの顔が白日の下に晒される。それと同時に、ビアンカの細い首筋が俺の視界に飛び込んできた。
そこに深々と刻まれた歯型と赤い斑に、目が釘付けになる。瞬きすらもできなくなるような、異様で痛々しい傷痕だった。
「ユーリ……お前、何してるんだ?」
どくどくと心臓が暴走し、声までもが震えていた。
「知らないのか? 人間はこうやってマーキングするらしいぞ?」
ユーリが蔑むような調子で答える。
「マーキングって……」
「あいつはキスはしても、こういうのはまだしていないみたいだった」
ビアンカの首元から視線を引き剥がし、ユーリに視線を移すと、その目はギラギラと鈍く光っていた。
ユーリはおかしい。そして愚かだ。
ヘレンキース伯爵の戯言を信じて、世間の噂を鵜呑みにして、ビアンカのこと裏切って傷つけている。
ユーリは馬鹿だ。でも、どうしてユーリがこんな風になってしまったのかわかるから、俺は苦しくて仕方がない。
「気が済んだなら、ビアンカを放せ」
俺はぐっと拳を握り、感情を押し殺した。
とにかく、ビアンカを解放しないといけなかった。
ビアンカは、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
ユーリの両手は、ビアンカの体を力いっぱい床に押し付けているようだったし、そうでなくても苦しいに違いなかった。
「……放さない。もっと、全身につけないと」
しかし、ユーリはそう言うと、両腕に一層力を込めた。
ビアンカの口から、声にならない呼気が漏れる。
「ふざけんな。ビアンカが嫌がっているのがわからないのか?」
「ビアンカは、俺を拒否したりしない。俺はただ、結婚させられないようにしているだけだ」
「お前……本気で言っているのか?」
俺の声は怒気を孕み始めていた。
それでも、ユーリに動じる様子はない。
口の端を上げて、「ハルはお利口な犬の振りがうまくなったけど、相変わらず頭の中はお花畑だよな」と言った。
「わかったら、消えてくれ」
ユーリが鼻で嗤った。
「……消えるわけないだろ。ビアンカを放せ」
「……」
低い声で返すと、ユーリは俺を睨むような視線をよこしてきた。
それを正面から睨み返す。
交わす言葉はなくなり、ビアンカの苦し気な呼吸音だけが、耳に響いていた。
でもその音は多分、ユーリには聞こえていない。
「ユーリ、ビアンカが痛がっている」
数秒か数十秒続いたその沈黙は、ガロの声で打ち破られた。
ユーリがびくりと反応し、俺の背後へと視線を移す。
その視線を追い振り返ると、開きっぱなしのドアの向こうで、冷たい目でユーリを見下ろすガロがいた。
「血が出ているな。随分と痛そうだ」
「あ……」と怯えたような声を聞いて視線をユーリに戻すと、ユーリは狼狽えたようにビアンカの首元に視線を落としていた。
ユーリは完全に怯んでいた。
ガロに、ではない。ガロの言葉に、だ。
痛がっている――それは、ユーリには刺さる言葉だろう。
ユーリは痛めつけられることを恐れている。痛みつける人間を嫌悪している。
そして眼前のビアンカは、ユーリに噛まれて血を流している。
ユーリはようやくそのことに気が付いたようだった。
「ビアンカは、うまく呼吸ができていない。早くどいてやれ」
ガロが平静な声でそう言うと、ユーリは焦ったように、ビアンカの上から退いた。
それからガロは、「ハル、治療してやれ」と言った。
「ああ」
頷いて、急いでビアンカに近寄り、膝を折った。
ビアンカの呼吸は、ようやく整い始めているように聞こえる。それでも傷を負ったビアンカの姿は十分痛ましい。
助け起こそうと手を伸ばしたが、それより先に、ビアンカは自力で体を起こした。
ビアンカの濡羽色が、噛み痕を覆い隠す。
「ビアンカ、お、俺……」
横目で見ると、床にぺたりと座り込んだユーリが、何かを言おうとしていた。
ユーリは狼狽した様子で口をぱくぱくしている。
それだけなら無視できた。
でもユーリは、俯いたままのビアンカの、その首に向かって手を伸ばしてきた。
――バシン。
俺はほとんど無意識に、その手を叩き落としていた。
そのまま横抱きにビアンカを持ち上げて、自分の胸に押し付ける。
「お前は、鞭で叩いてきた相手に触られて嬉しかったのか?」
そう言うとユーリは、泣きそうな顔をして、腕を引っ込めた。
俺は内心で舌打ちし、ユーリの顔からさっと顔を背けた。
本当は、ユーリのことはいつだって甘やかして、安心させたかった。きっとビアンカだってそう思っているのだろう。
でも今度ばかりは、簡単に許せるはずもなかった。
俺はそのまま踵を返し、部屋を後にした。




