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不安を消し去るために

「ビアンカ、髪を切って欲しい」

 

 背後からユーリに声を掛けられた。

 ようやくヘレンキース伯爵が帰ってくれた、と一息ついたところだった。

 

「髪って……」

 

 疲労を感じながら振り向くと、ユーリのヘーゼル色の目と目が合った。

 その言葉が何かの言い訳だということは、わかっていた。器用なユーリは、散髪に私の手など必要としない。

 こういうことは、これまでもよくあった。

 でも、硬い表情でじっとこちらを見つめているユーリには、いつもの、いかにも甘えたがっているような雰囲気がなかった。

 耳としっぽも静まり返り、振りまくような愛嬌は身を潜めている。

 かといって、拗ねている時とも様子が違うようだった。

 

「ユーリ。ビアンカも忙しいんだ、髪くらい自分で切れ」

 

 ハルが顔をしかめながら言った。

 でも、それでユーリの気持ちが収まるはずもなかった。

 

「ビアンカ、切ってくれ」

 

 ユーリはハルを無視して、尚も私に訴えかけてくる。

 何か、焦燥感のような必死さを感じた。

 ユーリにそんな顔をされれば、どうしたって心配になってしまう。

 ユーリは時々、ひどく危うげだった。

 

「……わかった。ただし、襟足だけね」

 

 そう返すと、ユーリの顔からはほんの少し、力が抜けたようだった。

 

「それでいい。じゃあ、部屋に来てくれ」

 

 ユーリはそう言うと、すたすたと商館へと歩いて行った。

 その背中を、ガロは無表情で、シオンは不安げに見送っていた。もちろん私もユーリの背中を見ていた。

 その中で、ハルだけが私の方を見ていたようだった。

 

「ビアンカ、ユーリは少し……」

 

 ハルが何かを言いかけたので、私はハルの方に顔を向けた。

 ハルは真剣な目で私の顔を見ていて、何か大切なことを話そうとしているのだとわかった。

 でも、何を話そうとしたのか、その先の言葉は聞くことができなかった。

 ユーリがこちらを振り返り、「ビアンカ、早く!」と声を掛けると、ハルは口を閉じてしまった。

 ハルは言葉を続ける代わりに、顔をしかめ、かぶりを振った。

 それから、「いや、なんでもない。俺も部屋に戻るから」と言った。

 ハルもきっと、ユーリが心配なのだろう。ハルの様子から、そういう感情が見て取れた。

 私はハルに頷いて「わかったわ」と返すと、ユーリの後を追った。

 

 ユーリは待ちきれない、とでも言うかのように、どんどん先へと歩いていく。

 走って追えれば良かったが、今日の私は、そうするには向かないドレスを身に着けていた。

 

 私がユーリの部屋に着いた時、ユーリは既に部屋に入っていて、ただ突っ立ってこちらを見ていた。

 ユーリが部屋に入ってから三十秒程は経っていたのではないかと思うが、何かを準備した形跡がない。

 先程まで手にしていたグローブとボールは、サイドテーブルの上に置かれていたが、それだけだった。

 

「ユーリ、はさみはどこ?」

 

 私は部屋のドアを閉めながら、ユーリに尋ねた。

 しかし、ユーリはそれには答えなかった。

 

「ビアンカ、あいつと結婚するのか?」

 

 ユーリが、固い声で言った。

 ――やっぱりか。

 ユーリはヘレンキース伯爵の言葉を真に受けて、いつ自分が居場所を失うことになるのかと、不安に駆られているのだろう。

 

「あいつって、ヘレンキース伯爵のことよね。結婚なんて、しないわよ」

「じゃあなんで、屋敷に入れるんだ」

 

 ユーリは納得できない様子で、唸るように返してきた。

 

「あのね、あの人は仕事の話をしに来たのよ。鉱山に不審者が入らないように、近くに警備の兵を配置してくれることになったの」

「そんなの、いらない」

「いらなくはないでしょう」

「ビアンカは、騙されているんだ」

「……ユーリ。私は騙されていないし、絶対にユーリを傷つけるようなことはさせないから」

 

 ユーリは、頑なだった。

 とにかく、ユーリの不安を解かないことには、まともに話を聞いてくれそうにもなかった。

 

「だめだ……」

 

 ユーリが小さく呟いた。

 その声には、尚も不安が滲んでいる。

 私は再び、ユーリを宥めようとした。ユーリが心配するようなことは起こらないと、伝えたかった。

 しかし、私がそれを口にするよりも早く、ユーリがすごい力で私の左の上腕を掴んできた。

 

「ちょっと……!」

 

 私は咄嗟に、ユーリの小指をだけを引っ張り、その手を引きはがした。

 それから、何が起こったかわからなかった。

 気付いたら目の前に床があって、背中を抑えつける強い力を感じた。

 

「ビアンカは、騙されているんだ。ビアンカはすぐ騙されるから、あいつと結婚させられてしまう」

 

 ユーリの切羽詰まったような声が上から降ってきた。

 抑える力はどんどん強くなっていく。

 息がうまく吸えない。あちこちが鈍く痛む。

 何故――。

 考えようとした。でも、無理だった。

 首に鋭い痛みを感じた時、ギリギリ保っていた何かが、限界を迎えた。

 

「ハル……!」

 

 私は無意識のうちに叫んでいた。

 

 ――バタン! と、後ろで音がした。

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