追憶の赤と嵐を呼ぶ赤
「そろそろ、終わりにしないか」
ガロが前触れなく、そう言った。
「ええ……さっき始めたばかりだよ、ガロ。もう疲れたの?」
シオンが不満げな声を上げると、ガロは「いや、そうじゃないが……」と言った。
ユーリは、右手で投げたボールを左手のグローブで受け止めることを繰り返しながら、黙ってその様子を見ている。
「じゃあ、なんで?」
「……雨が降りそうだ」
「そこまで曇ってないよ」
「でも、グローブは雨に濡らすと良くないと聞いた」
ガロは淡々と、今一つ心に響かない言い訳を並べていた。
理由はよくわからないが、どうやらガロはキャッチボールをやめたくて仕方がないようだった。
「ガロ、先に戻ってていいぞ」
俺は助け船のつもりでそう言ったが、ガロは微妙な顔をして固まった。
それから諦めたように「やっぱりいい」と言った。
ガロの明らかに不審な言動に、他の二人も怪訝な目を向けている。
だが、間もなくガチャリという音が聞こえると、その目は一斉に屋敷へと向けられた。
屋敷のドアが開き、ビアンカとヘレンキース伯爵が外へ出るところだった。
ああ、ヘレンキース伯爵の用が済んで帰るんだな、さっさと帰ってくれ、と思った。
しかし、ヘレンキース伯爵は門へ向かわず、興味津々と言った風でこちらへ寄ってきた。――あろうことか、ユーリの方に。
俺はなんとなく嫌な予感がして、ユーリの傍へと歩み寄った。
ガロとシオンも同じ気持ちになったのか、示し合わせたようにユーリの方へと近付いた。
ビアンカも、心なしか険しい顔をしている。
「四人揃っているのは初めて見たよ。君がユーリだね?」
「……」
話しかけられたユーリは身じろぎもせず押し黙っていた。
ただ、目だけは逸らさずにヘレンキース伯爵をじっと睨んでいた。
「……ヘレンキース伯爵様、用が済んだのでしたら、お帰りいただけますか」
ビアンカは代わりに答えることもせず、ただ、制止するようにそれだけ言った。
ヘレンキース伯爵は、ユーリに視線を留めたまま「ふむ……」と唸る。
それからビアンカに向き直ると、一時鳴りを潜めていた笑みを再び浮かべた。
「その方が良さそうですね。では、私は失礼します。お見送りはここまでで結構です」
そう言うと、ビアンカの右手を取った。易々と。いとも簡単に。
ビアンカはされるがままだった。自身の右手が持ち上げられるのを、無関心そうに見ている。
「あ!」
俺たちの間に穏やかとは言えない空気が流れ始めた時、唐突にシオンが声を上げた。
「あの、ヘレンキース伯爵様、口に赤いのついてますよ?」
シオンは、わざとらしいくらい大きな声で言った。
ヘレンキース伯爵はぴたりと動きを止めると、ビアンカの右手から視線を外し、シオンの方を見た。
確かに口の端に赤いものがついている。しかしその顔には、余裕の笑顔が浮かんでいた。
「ああ、ビアンカ嬢の口紅が移っちゃったかな?」
再び、嫌な空気が流れた。
ビアンカは誰彼構わず交遊するような女性ではない。俺はそれを知っている。
でもそれは、ヘレンキース伯爵と交際しない、という理由にはならなかった。
だからこそ、俺は怯んでしまった。それこそ、ヘレンキース伯爵の思惑通りに。
「変な冗談はやめてください。そろそろ本当に帰っていただけますか」
ビアンカは冷たい声で言い放った。
どうやら、本気で怒っているようだった。
その声で俺は、少し冷静になった。
――そうだ、口紅は、あんな風じゃない。
俺は、思い出した。
俺はこの屋敷に来たばかりの頃、ガロに「唇に赤いものがついている」と指摘されたことがある。
急いで口を拭った手の甲についていた赤――ビアンカの口紅は、こんなにてかてかと光る赤ではなかった。
「イチゴ……だな」
ガロがぼそりと呟いた。
確かに、ヘレンキース伯爵からは果実の甘い匂いが漂っていた。
「どうだろうね? 確かに私はロシアンティーを飲んだけど」
ロシアンティーとは何だろうか。
わからなかったけど、ビアンカが「どう考えても、イチゴジャムでしょう」と飽きれたように言った。
「ふふ、ではまた、パーティーの日にお迎えに上がりますね」
ヘレンキース伯爵は、してやったり、というような笑みを浮かべて去っていた。
かなり癪に障ったが、ユーリにしつこく構ってこなかったこなかったことだけが幸いだった。
そう思った。
だけど、ユーリの姿が視界に入った時、その考えが甘かったことに気付いた。
ユーリには、自分にちょっかいを出されることよりも、もっと許せないことがある。
鈍く光るユーリの目を見て、それを思い出した。
(一応の注釈)
ドグマの「ロシアンティー」は日本の「ロシアンティー」とほぼ同義です。
以下、引用。
「日本では、「ロシアンティー」という表現は、必ずしもロシア式の飲み方を指すわけではなく、ジャム入りの紅茶を指す語として使用される。典型的にはいちごジャムが選ばれるが、必ずこれを使うというわけではない。」(出典:wikipedia)




