胸に抱く温かなもの
二日ぶりにビアンカ様の姿を見た時、「ビアンカ様は、相変わらず化粧が下手だな」と思った。
でも彼女が化粧を落とし、風呂から上がった後、より一層顔色が悪くなっているのを見た時に、自分の考えが間違っていたことに気が付いた。
熱を測ってみれば、三十八度を超えていて、私は慌てて彼女の髪を乾かし、ベッドへと押し込んだ。
それが、昨日のことだった。
その時は、一体どうしてそんな平然とした顔をしていられるのだろう、と思った。
でも、今日の彼女には既にそんな余裕は見られず、布団にくるまった状態で苦しそうな表情を浮かべている。
「お水はここに置いてありますからね」
「うん……ありがとう、マリー……」
「他に何か、欲しいものがあったら、おっしゃってくださいね」
「うん……」
「冷たい氷とか、毛布とか……」
「うん……」
かわいそうに、彼女は随分と朦朧としているようだった。
無理もない、体温は四十度を超えているのだ。
「マリー……」
「はい、なんでしょうか、ビアンカ様」
「毛布じゃなくてしっぽが良い……」
「しっぽ……!?」
「そう、ハルのしっぽ……」
「ハル、ですか……。できる限りのことはしてみますが……」
「うん、ありがとう、マリー……」
獣人のしっぽ……。
まさか、刈り取ってこいという意味ではないだろう。
ハル本人を連れてきて欲しいということだろうか。
でも、獣人を屋敷に招き入れる権限は、私にはない。ライアンに相談しなくてはならなかった。
「ビアンカ様、私は商館に行って参りますが、何かあったらベルを鳴らしてくださいね。別の者が参りますから」
「うん……」
私は、執事に席を外す旨を伝えると、屋敷の出口へと向かった。
ドアを開けて外に出る。
すると目の前に、巨躯の獣人が立ち塞がるように現れて、思わず「ひっ」と声が出た。
おそるおそる顔を上げると、その獣人は、金の眼で私のことをじっと見下ろしていた。
その獣人――ガロは、「ビアンカは……」と言った。
「……ビアンカ様は今、寝込んでおられます」
私は掠れ声で返した。
「……それで?」
「そ、それで、とは……」
「商館に行こうとしていたように見えたが」
「ビアンカ様が……ハルのしっぽをご所望なので……」
ガロは、私の答えを聞くと「そうか」とだけ言って、商館へと駆けて行った。
「な、なんだったの……」
私は、震える声で独りごちた。
ここの獣人たちはおとなしいと聞いているが、それでもやはり、近くに来られると平常心ではいられない。
とはいえ、これまで獣人が自ら近付いて来ることなどなかった。
なのに、ガロは何故急に話しかけてきたのだろう。何を思って去って行ったのだろう。
もしかして、ハルを連れて来るつもりだろうか。
でも、ライアンに話を通さないことには、ハルをビアンカ様に会わせることはできない。
商館のライアンの元に行きたいが、今行けば、またガロと鉢合わせするのではないか――。
そう悩んでいるうちに、ライアンがハルを伴って商館から出て来た。
ガロの姿はない。
それは、驚くべき予想外だった。
ガロは私が思っていた以上に、状況を理解していたようだった。
ライアンは私の前まで歩いてくると、口を開いた。
「マリー、ハルの案内を頼んでも大丈夫そうか」
ライアンは、難しそうな顔をしていた。
彼は、全てを承知しているようだった。
「はい、もちろんでございます」
そう返すと、ライアンは「頼んだぞ」と言い残し、商館へと戻って行った。後にはハルだけが残された。
それもまた、意外な展開だった。
ライアンは私のことを信頼しているようだったが、どうやらハルにも一定の信頼を置いているらしい。
ライアンは、元来保守的な人間だったはずだ。
一介の使用人に獣人は任せられない、寝込んでいる主に獣人を近付けたくない、と思いそうなところだった。
ライアンの考えを変えたのは、ビアンカ様なのだろうか。あるいはハル本人なのだろうか。
私は、ハルの方をちらりと見た。
ハルは、ガロと同じ色の眼をしていたが、ガロ程の不気味さは感じない。
彼の顔には、わかりやすく困惑の色が浮かんでいた。
私は意を決し、「では、ご案内します……」と声を掛けた。
ハルは、軽く頷いてついてきた。
部屋に入ると、ビアンカ様は相変わらず布団の中で丸まっていて、苦しそうな表情で目をぎゅっと閉じていた。
どうやら眠っているようだったが、安眠、という風ではない。
それを見たハルは、またしてもわかりやすく、動揺の表情を浮かべた。
彼はいつまで経っても座ることすらもせず、じっと心配そうな顔でビアンカ様を見つめていた。
私はその様子を遠巻きに見ていたが、いつまでもそうしているので、だんだんと警戒している自分が馬鹿らしくなってきた。
そもそもこれは、ビアンカ様の望みなのだ。
主の望みは叶えないといけない。
「あのう……ハルさん、座ってください。ビアンカ様は、ハルさんのしっぽがほしいとおっしゃてました……」
ビアンカ様を起こさないように、小さな声で話しかけた。
「……そうだった。俺の、しっぽ……」
ハルはそう呟くと、枕元の回転丸椅子に腰かけた。
丸椅子から、キイ、と小さく軋む音がする。
すると、おもむろにビアンカ様の瞼が開いた。
「……ハル……?」
「あ、ああ。大丈夫か、ビアンカ」
「うん……」
「……いや、大丈夫なわけないよな。やっぱり、雨に打たれたせいだよな……」
「ううん……でも、ハル……」
「なんだ?」
「寒い……」
「寒いなら、布団を持ってくる」
「ううん……しっぽがいい……」
「……しっぽ……」
「うん……」
ハルは迷っているようだったが、結局、「……わかった」と言った。
丸椅子を回転させ、体の向きを調整すると、ビアンカ様の首元にゆっくりとしっぽを落とした。
「ありがとう……」
ビアンカ様は、ハルのしっぽを引き寄せぎゅっと胸に抱くと、満足したように、すやすやと眠り始めた。
ハルは、全く嫌がる様子も見せず、ビアンカ様の寝顔をいつまでも心配そうな顔で眺めていた。
――本当に、何もかもが予想外だった。
ビアンカ様が、獣人たちと良好な関係を築いていることは知っていた。
獣人は、ビアンカ様の指示に良く従っている、と聞いていた。
力ある獣人を縛りもせず、隷属させられるなんて、すごい主だな、と思った。
でも、そうではなかった。
ハルは、こんなにも愛情深い表情を浮かべている。
彼の気持ちは、主を幸せを願い仕える私と、何ら変わらないんだと知った。




