長い夜
2023/9/1 加筆修正しました。
第二鉱山の詰所とやらに着くと、片腕が欠けた男が出てきた。
「あ、ウォルター」
ビアンカが親し気に声をかける。
だが、その男はビアンカの姿を見るなり「風呂の準備をします」と呟くように言って、踵を返した。
多分この男が鉱山管理人というやつで、きっと真っ当な感性を持っている人間なのだろう。
村を出てからそれなりの時間が経ったと思うが、ビアンカは未だにずぶ濡れに近い状態にある。
前髪などは乾ききっているが、ドレスは濡れた濃い色を呈しているし、肌はどことなく血の気が薄い。
体が冷えているのは一目瞭然で、俺としても、早く体を温めて欲しいと思っていた。
「ああ、じゃあ、先にハルの泊る部屋を紹介するわね」
ただ、当の本人はあまり気にしていないようで、平然と歩き出した。
それは、至極ビアンカらしい反応と言える。
俺はなんとなく釈然としない気持ちを抱えながらも、大人しくビアンカの後について行った。
ビアンカは廊下をつかつかと進み、そうして案内された部屋は、いかにも女性向けに用意されたような部屋だった。
特に布団は、一見落ち着いた色合に見えるが、確実に花柄だった。
「うーん、ガロもそんな顔をしていたわね」
ビアンカは、俺の顔を見上げながら言った。
「ああ、ガロもこの部屋に泊ったのか……。ビアンカはどこで寝るんだ?」
「私は書斎よ」
「書斎っていうのは、寝られるところなのか?」
「そうよ」
「そうか……」
実のところ、「書斎」というものは聞いたことはあるけれど、見たことはない。
どういう場所なのだろう。
これまで見てきたビアンカの管理する部屋は、俺の傭兵時代の常識じゃ計り知れないようなものばかりだった。
どの部屋も、あちこちにベッドやソファや色々知らないものが設えられているのだ。
書斎と言うのも、きっと便利で快適な場所なのだろう。
「じゃあ、後で食事を用意するから各々で摂って、お風呂に入って、就寝ね。明日の昼頃車が迎えに来る予定だから、それまでは寝てても良いし、好きに休んでて」
「わかった」
「ああ、でもその前に革を運んでおいてくれる? そうね……とりあえず、あそこの医務室に運んでもらえると助かるわ」
ビアンカは振り返って、入り口に近い場所にあるドアを指さした。
「ああ、わかった」
俺は首肯する。
それからは、ビアンカの言う通りに過ごした。
革を運んで、食事を摂って、シャワーを浴びた。
許可されていない場所に入ったりはしない。でも、通り道なら良いだろう、と、移動中はじろじろと検分した。
そうしてわかったことは――いや、建物から入る前からわかっていたことではあるのだが、この詰所は全体的に狭い。
商館のぎゅっと詰まった狭苦しさとはまた違う、こぢんまりとした狭さだった。
医務室は商館や宿舎のものよりも一回り小さく、ベッドはない。風呂やトイレもちょっと狭い。
代わりに、奥まった場所に、調理場のようなものが見えた。
それから、ビアンカの過ごす書斎は、俺の部屋の隣のようだった。
さすがに開けるわけにはいかないので、ドアを見ながら想像してみる。おそらく、俺が泊る部屋と同じくらいの大きさなのではないかと思う。
万が一ビアンカに危険が迫ったとしても、このドアを開ければすぐにビアンカが見つけられるはずだ。
俺は納得し、自分の部屋に戻った。
部屋には本棚が合って、沢山の本が並んでいる。
これは、ウォルターの本だろうか。それともビアンカの本だろうか。
ビアンカの本だとしたら、ビアンカは一体どんな本を読むのだろう。
気になっては見ても、俺はまだ満足に文字が読めなかった。
いつかまたここに来る時までに、ちゃんと読み書きできるようになっておこう。
そう決心し、花柄の布団に潜った。
布団にくるまり、目を瞑る。
何度か寝返りをした後で、自分の目が冴えていて、とてもすぐに眠れそうにはないことに気が付いた。
思えば、今日はなんだか色々なことがあった気がする。
そもそも、こんなにも長い時間ビアンカと一緒にいるのは、初めてだった。
ほとんどの時間は、眠るビアンカの顔を見ているだけだったが、それだけでも嬉しかった。
無防備な姿を見ていると、俺に少しでも気を許してくれているのかと思えて、嬉しかった。
それに、ビアンカのあどけない寝顔は、可愛いかった。
いつまでも見ていられるような気がした。
でも、起きた後の少しとぼけた感じも、それはそれで可愛らしいから、困る。
それから、ビアンカの腰にしっぽをまわした時、「嫌じゃない」と言われた。
前に手を握った時は、すごく嫌がられた気がする。
もう触っても構わないのだろうか。それとも、しっぽと手では、嫌悪感が違うのだろうか。
そうやって、布団の中でいつまでもビアンカのことを考えていると、今度は、当のビアンカと男の会話が聞こえてきた。
この詰所は、壁が薄い。
薄いと言うより、普通と言うべきか。とにかく、商館のように分厚い壁ではない。
だから、二人の会話はよく聞こえた。
二人は難しい話をしていた。革に関する何かしらの話をしていたようだった。
それを聞くともなしに聞いていると、今度は俺のわかる話に話題が移った。
「ねえ、ウォルターはここの仕事を辞めたいと思うことはないの?」
「……ないです」
「例えばその……キヨに行きたいとか、そう思うことはないの? 獣人や魔力持ちからしたら、キヨは安全な国でしょう?」
「思いませんね」
「そう……ハルも、キヨには行きたくないって言うのよね」
「ハル、というのは、今日一緒に来た彼ですよね」
「ええ、そうよ。そういえば、ばたばたしてて、ちゃんと紹介できていなかったわね」
「……私は単純にビアンカさんと一緒にいたいだけですが、多分彼も似たような気持ちだと思いますよ」
「…………」
「……どうかしましたか」
「……いや、随分と嬉しいことを言ってくれるから、驚いちゃって」
「嬉しい……ですか」
「ええ。……だって、私もウォルターやハルと一緒にいたいもの……」
その温かな声を聞いて、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。
力を込めて堪えないと、何かが溢れてしまいそうな心地だった。
ビアンカが、そんな風に言ってくれることが、本当に嬉しくて仕方がない。
同時に、俺みたいな獣人にそんなことが言えてしまう優しさに、心惹かれずにいられない。
――俺は、ビアンカとずっと一緒にいたい。
でも、ビアンカの傍で、彼女のことを守れればそれで充分だ。
自分の立場をわきまえず、それ以上求めたりはしない――。
益々眠れなくなった頭の中で、ずっとその言葉を繰り返していた。




