長い旅路(2)
2023/8/31 加筆修正しました。
小さな宿屋の一室で契約書にサインをした後、一息つく間もなく、マーサ達と共に宿を出た。
空は、宿に着いた時よりも暗く感じる。
日の傾きと、雲の多さのせいだろう。
雲は強い風に吹かれて、かなりの速度で流れていた。
「降りそうっすねえ」
マーサの部下の一人が、空を仰ぎ見て呟いた。
私としては、できれば雨に降られるのは避けたいところだった。
この後も車は、慣れていない道を走るのだ。
明るいうちに、天候が荒れることなく、目的地にたどり着くことが望ましい。
だけどその願いも虚しく、私たちが宿を出て五分くらいで、ぽつぽつと雨が降り出してきた。
ぽつぽつと言えども、大粒の雨だった。
「ああ、これは強くなるね。ビアンカ、もっと速足でも大丈夫そうか?」
マーサの言葉に、私は「ええ」と返す。
私たちは歩調を速めた。
それから間もなく、マーサが言う通り雨脚は強くなった。
強い風と共に、横から雨が叩きつけてくる。
靴は歩きやすいものを選んでいたが、よそ行きのドレスが風に靡いてどうにも動きづらかった。
しかもこのドレスが、どんどん雨を吸って肌に張り付いてくる。
ちらりと周りの様子を伺うと、しかし、大きくて重量のある革を担いだ男衆たちは、全く意に介した様子もなかった。
さすが、マーサの部下は鍛えられている。
それとも、こういう天候に慣れているのだろうか。
「ああ、あの車かな」
しばらくして、マーサが車を視線で示しながら言った。
「ええ」
目的地が見えると、マーサ達は自然と、より一層急ぎ足になったようだった。
私もなんとかその歩調に合わせて進む。
そうしてどうにかこうにか車に着いた頃には、私はそれなりに疲れていた。
それを押し隠し、「革は荷台に運んでくれる?」と言うと、男衆たちは揃って「はい!」と元気に返事をした。
本当に元気だった。
彼らは微塵の疲労も感じていないようで、意気揚々と次々に革を積み入れていく。
私とマーサだけが何もせず突っ立っていた。
私はその作業をぼんやりと眺めていた。当然マーサも同じものを見ているのだろう、と思っていたけど、マーサはふいに「ははあ」と意味ありげな声を出した。
見れば、マーサの方は窓ごしに車の中に視線を向けている。
マーサが何を見たのかは一目瞭然だった。
でもマーサは、それ以上は何も言わなかった。
それからすぐに、「詰み終わりました!」という元気な声が聞こえた。
「ありがとう」と、彼らに声をかける。
それから、マーサに向き直った。
「ありがとう、マーサ。助かったわ。次は屋敷で、ゆっくり会えることを楽しみにしているわ」
「ああ、こちらこそありがとう。また革を入荷したら連絡するよ」
あっさりとした別れだった。
本当はマーサと話したいことが、沢山ある。
でも残念ながら、今はそんな時間はなかった。
私は忙しなく車に乗り込んで、置物みたいに静かなハルの正面に座った。
運転手に合図を出す。
車が発進し、窓越しに見えるマーサ達の姿はどんどん小さくなっていった。
私がそれを眺めている間、ハルはなんとなく居心地悪そうに縮こまっていた。
マーサ達の姿が見えなくなって、車内に視線を戻すと、ハルはようやく緊張を解いたようにおずおずと口を開いた。
「ビアンカ、ずぶ濡れだけど、大丈夫なのか?」
「ええ、大丈夫よ。これから向かう第二鉱山はそんなに遠くないし、着いたら着替えるわ」
「そうか……? あと、俺の姿を見られた気がするけど、大丈夫だろうか……」
ハルはどこか沈んだ声で尋ねてきた。
「全然大丈夫よ。あの人たちどこから来たと思う?」
「…………どこなんだ?」
「キヨよ。知っているでしょ、キヨ」
「ああ……」
この村に着いてから、ハルの眉尻はずっと下がりっぱなしだった。
でも、私が「キヨ」という国名を口にした時、それは一層顕著になったように感じた。
「噂通り、ハルを見ても、全然驚いていなかったわね」
「……そうだな」
「じゃあ、やっぱりハルたちは、キヨに行こうとしていたのよね」
ハルたちは、クシカとキヨに挟まれたこの国で猟師に捕まった。
その上ハルは、キヨでの獣人の扱いを知っている。
ならば、ハルたちはキヨを目指していた、と考えるのが自然だった。
「……そうだな」
「……私は、ハルたちには結構働いてもらったし、ハルたちが望むなら、さっきの人たちに口利きすることもできる」
私は、前々から考えていたことを口に出した。
キヨは他国よりも技術発展が遅れているものの、差別意識は各段に低い。
獣人や魔力持ちにとっては、より安全な国と言えた。
「ビアンカが、それを望んでいるのか?」
しかし私の思惑とは裏腹に、ハルは顔を歪めてそう言った。
「え?」
「獣人がいると、面倒が増えるからか? それとも、俺が余計なことばかりしたからか?」
「全然違うわよ! ただ――」
ハルは、何か大きく勘違いをしているようだった。
私はそれを訂正しようと口を開いた。
「ただ……へくしょん!」
なのに、口から出てきたのは大きなくしゃみだった。
「あ、ごめんなさい……」
羞恥が勝り、声がしぼむ。
「……ビアンカ、寒いのか?」
対するハルの声も、なんとなくしぼんでしまったようだった。
「大丈夫よ」
たしかに、くしゃみは出た。
濡れた衣服も着実に体温を奪ってはいる。でも、凍えるような寒さではない。
痩せ我慢ではなく、本当に「大丈夫」なのだけど、ハルは怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「……やっぱり寒そうだ」
ハルはそう言って、おもむろに立ち上がると、私の隣へと座り直した。
その眉尻は、これ以上ないくらい下がり切っている。
私がその眉に注視していると、今度は腰に暖かいものを感じた。
それは、ふさふさとしていて――ハルのしっぽだった。
「嫌かもしれないけど、我慢してくれ」
ハルは、俯き気味にそう言った。
「嫌じゃないよ……ありがとう」
そう返すと、ハルは、はたと顔を上げた。
「……嫌じゃないのか?」
ハルは、やっぱり何か勘違いしているようだった。
「嫌じゃない。言っておくけど、獣人がいて面倒だなんて思ってないわよ。別に、ハルたちが行きたくないならそれで良いの」
「行きたくない。俺は、俺たちは、ビアンカのところにいたい」
私がきっぱりと言うと、ハルも同じようにはっきりとした口調で返した。
それを聞いた時、なんだか色んなことがわからなくなってきた。
私は一体どんな答えを望んでいたのだろう。
キヨに行きたいと言われれば、安心して送り出せたはずだ。それは間違いなかった。
けれど、それとは正反対のハルの言葉を聞いて、私は安心してしまった。
この国は、ハルたちにとって住みづらい場所なのに。
「そう、ならいいわ……」
私はどうにも複雑な気分になって、窓の外に視線を逃がした。
雨はいつの間にか止んでいて、美しい夕映えが見えた。




