小間使いの憂鬱
「ビアンカ様……私は小間使いではありません」
地下室を出た後、そうぼやくと、ビアンカに「わかっているわ、ライアン、でもあなたにしか任せられないのよ」と返され、苦い気持ちになる。
「あのような獣人を買ったところで採算が合いませんよ。何より、臭くてたまりません」
「なら、あなたがお風呂に入れてあげてちょうだい」
「いえ、そういうことではなく……」
ビアンカはよくできた人間だった。
強くて、美しくて、才能がある。
才能――とりわけ商才があった。彼女は、「もの」の真価を見極め、誰よりもうまく扱う。それは商品だけでなく、人に対しても発揮されるものだった。身分の貴賤で人を差別するようなことはなく、卑しい身分の者でも、使えると思えば雇い入れた。
それは、彼女の美徳と呼べるだろう。
だが、今回ばかりは話が別だ。
獣人は、人ではない。そんなものを飼っているとなれば彼女のなけなしの品位は失墜するだろうし、働き手として機能するようにも見えなかった。
それでも彼女は、獣人を手放す気はないらしい。
俺は、言葉の裏で、彼らを追い出してほしい、と懇願したが、彼女は俺の真意を汲み取った上で、それを無視しているようだった。
「少なくとも、主人に手を上げた者は罰するべきでは」
ビアンカの右腕にあてられたガーゼの中央で、今も赤黒い血痕が痛々しく主張している。
「いいえ、これは、私が彼らを怯えさせてしまったからよ。……多分、クシカ国から来たんでしょうね。私が甘く見すぎていたわ……。もっと、彼らとの接し方を考えないと、ね」
ビアンカの言わんとしていることは、理解したくはないが、なんとなくわかる。
我々の住むドグマでは、獣人の生きる場所はなく、ほとんど姿を見ることはない。
一方で、クシカでは多数の獣人が奴隷として使役されていると聞く。
あの狼たち――特に、白髪の男、ユーリには、見るに堪えない拷問痕があった。ビアンカがその傷痕に手を伸ばした瞬間、明らかな拒絶と怯えを示し、手をはねのけた。その爪が、ビアンカの手首を抉った。
男は愕然とした表情で、ポタポタと流れる血を見ていた。
ビアンカもまた、呆然とした顔で、その血を眺めていた。
仮に彼らが人間だったら、と想像する。
生きる場所のない人間に手を差し伸べた時、その手を払いのけられたら、どんな気持ちだろう。
彼女が見ていたのは、血と言うよりも、その深い拒絶の痕なのだろうか。
それは、黒髪の男――ハルの敵対心とは全く違う、拒絶だった。
「やっぱりお風呂には入れてあげてちょうだい。体を見られるのを嫌がるかもしれないから、とりあえず、浴室に連れて行ってくれれば、それでいいから」
ビアンカは、なんとなく遠い目をしたまま言った。
「……承知いたしました」
俺は、渋々頷いた。