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薬の値段(1)

 先触れがあった。相手は私より遥かに身分の高い伯爵だった。断る方法など皆無だった。

 ヘレンキース伯爵は今、キーリー男爵家の屋敷の応接間で、私の向かいに座っている。

 私たちの間には、ローテーブルが一つ。その上に紅茶が注がれたティーカップが二つ並んでいる。

 それを運んできた侍女は、既にここにはいない。

 彼が人払いを望んだため、今この部屋にいるのは、私とヘレンキース伯爵だけだった。

 ヘレンキース伯爵は、いつものように穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

「先日の素朴なドレスもお似合いでしたが、今日の装いも華やかで素敵ですね」

「それはどうもありがとうございます。それで、本日はどういったご用件でしょう」

 

 私は、不機嫌な気持ちを隠そうともせず、言った。

 今更取り繕ったところで、仕方がないだろう。

 

「……あなたが怒るのもごもっともですね。本日は謝罪のために伺いました」

「謝罪、ですか。何に対してでしょう」

「ハイム子爵に獣人を連れて来るよう教唆したことに対して、ですね」

「……」

「もっともハイム子爵への指示は、火災が起きる以前に撤回しておりますが。とはいえ、その時のいざこざが原因で、子爵はあなたに私怨を抱き、鉱山への放火に及んだのでしょう。私の不徳の致すところです。ですが、今後は子爵があなたに手出しすることは絶対にないと、お約束いたします」

 

 世間では、ついにキーリー男爵の鉱山で不祥事が起きたと面白おかしく騒ぎ立てられているというのに、ヘレンキース伯爵は、事の全てを正しく把握しているようだった。

 こちらからは、何一つ説明はしていない。

 つまりは、彼が懇意にしているらしいハイム子爵から直接聞いたのだろう。

 

「随分と明け透けにお話しされるのですね」

「ええ、あなたには包み隠さず、全てお話しようと思ったのです。……私の気持ちを信じていただけないようでしたら、もう一つ証明いたしましょうか」

 

 そう言うとヘレンキース伯爵は、テーブルの上で、ティーカップに添えられていた私の右手を掴んだ。

 

「右手をお借りできますか。危ないので、カップは離した方が良いでしょう。

 

 一体これで何を証明するつもりなのだろうか。

 渋々カップを放すと、ヘレンキース伯爵は私の右手を自分の方へと引き寄せた。

 それから、その甲――ではなく、中指に嵌められた指輪にキスを落とした。

 

「――っ」

 

 その瞬間、暖かだった指輪が一気に熱を帯びた。

 熱さに耐えかねて思い切り手を引けば、大した抵抗もなく、ヘレンキース伯爵の手からするりと抜けた。

 チリチリとした不快感を主張する右手指を、思わず左手で握りしめる。

 

「すみません、力を込め過ぎました」

「……いえ」

 

 そう答えながらも、ヘレンキース伯爵のことをぎろりと睨みつける。

 ヘレンキース伯爵は少しも動じた様子がなく、平然としていた。

 

「でも驚かないということは、やはり気付いていたのですね。先日、屋敷の前でその指輪を見た時は驚きました。その指輪で魔力持ちをあぶり出し、摘発でもしているのかと」

「これは――」

「ええ、今ならわかります。鉱山や魔石の近くに、魔力を持つものを近付けたくないのでしょう? 何故だかわかりませんが、あなたは魔石の発火と魔力の関係をよくご存知のようだ。私のように、その血を受け継いでいないにもかかわらず」

 

 ヘレンキース伯爵の顔は微笑みを湛えている。でも、目には強い光があった。

 私はさすがに気後れし、慎重に口を開いた。

 

「……私にそのようなことまで明かされて、一体何が目的なのでしょうか」

 

 このような話をされるとは、全く思っていなかった。

 魔力持ちは、獣人と同じく迫害されてきた存在だ。獣人と違い見た目でわからないからこそ、その存在が明るみに出た時には、苛烈に排除されてきたと聞く。

 魔力を持つ血筋は排斥され、今となっては、自覚なくその力を有する者がわずかにいるのみ。そして、そういった力が今尚存在することに気付いている者も、ほとんどいない。そう思っていた。

 それがどうやら、ヘレンキース伯爵の話しぶりによれば、私の認識は誤っていたらしい。

 ヘレンキース伯爵家か、または母君の家かはわからないが、その家系には魔力とそれに関する知識が脈々と受け継がれているようだった。

 事実、ヘレンキース伯爵は、魔力が各段に高く、しかも良くコントロールできているように見える。

 魔石を封じた指輪が高熱を帯びる程の魔力を持っているにもかかわらず、普段はそれをおくびにも出さずほんの僅かに魔力を漂わせているだけだった。

 

 ヘレンキース伯爵の話は、私にとって相当興味深いものだった。

 でも同時に、これ以上聞くべきではないと思った。

 変に伯爵家の弱みなど握りたくない。世の中知らない方が平和に生きられることも沢山ある。

 私からすれば、ヘレンキース伯爵に魔力があろうとなかろうと、私の鉱山に近付かない限りはどうでも良い。だが、世間はそうはいかないだろう。

 

「あなたに信用していただいて、謝罪を受け入れてもらいたいだけです」

「信用、ですか」

「ええ。私は今日、お詫びのしるしとして薬を持って参りました。あなたが大切にしている獣人の耳を癒す薬です。万能薬とでも言いましょうか。でも何も言わずにこれを渡したところで、あなたは絶対にこれを使ったりはしないでしょう? 万能薬など、今の医科学にはそぐわない代物ですし、そもそもあなたが私に疑心を抱いていることはわかり切っていますから」

 

 ヘレンキース伯爵は、ガロの状態もよく承知しているようだった。

 大方、あのヤブ医者が漏らしたのだろう。でも、今はそんなことはどうでも良かった。

 

「……その薬の対価として、私に何を要求するつもりですか?」

「何も。これは本当に、私の謝罪の気持ちです。こんな言い訳をしても仕方のないことですが、私は獣人を傷つけるつもりなど全くありませんでした。あなたが獣人をいいように使っていると聞いて、彼らを解放したいと思っただけです。もっとも、そんな噂に惑わされて獣人に怪我を負わせた私こそが愚か者だったのですが」

 

 私は閉口した。

 高位貴族が、力ない男爵の許しなど得る必要がない。どう考えたって別の目的があるはずだった。

 それが悪意あるものであれば、もっと強気に対処もできたのだが、今となっては判然としない。

 ヘレンキース伯爵が、魔力持ちと同じく危うい立場にある獣人に同情を示すのも、わかるような気がしてしまう。

 その言葉をどこまで信じて良いのか、わからなかった。

 

 私が黙っていると、ヘレンキース伯爵はおもむろに、ジャケットの内ポケットから小瓶を取り出した。

 それは、私の小指くらいの長さのガラス瓶で、中で透明な液体が揺れていた。

 

「中身はただの蒸留水です。化学的には、ですね。もし私を信用していただけるのであれば、怪我を負った獣人をここに連れてきていただけませんか。飲むも飲まないもあなた達の自由です。ですが、この場で飲んでいただけないのであれば、これは持って帰ります。あなたにはわかっていただけると思いますが、これが誰かの手に渡れば、私もただでは済まないでしょうから」

「……近くで見てもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞ。手に取って確認して下さい」

 

 ヘレンキース伯爵は私の要求に応えると、何の躊躇もなく私に小瓶を手渡した。

 右手で握りしめれば指輪がじわじわと暖かくなり、手の中の物が魔力を帯びたものであることを感じた。

 ヘレンキース伯爵の真の狙いがどうであれ、この薬に関しては本当に万能薬なのだろう、と思った。

 いずれにせよ、ガロの耳は魔法でも使わなければ、この先ずっと治ることがないのだ。

 

「……わかりました。彼を呼びましょう。飲むか飲まないかは、本人に決めてもらいましょう」

 

 私は、ドアの外に控えていた使用人に、「ライアンに、ガロとハルをここに連れてくるよう伝えてちょうだい」と指示を出した。

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