切なき悲声
「有毒ガスによる中毒でしょう。耳はこのまま治らない可能性が高いでしょうね。治療法もありません」
私が一通り経緯と症状を説明した後、医者はガロを一瞥しただけでろくな診察もせず、そう言った。
まるでガロを人の言葉がわからない犬か何かと思っているかのように、ガロの目の前で何の躊躇も遠慮も見せずに言った。
医者は、声の低い男だった。当然、ガロの耳にも届いているだろう。
大金を払ってようやく見つけた医者だというのに、ただ絶望的な言葉を告げただけで、その医者は仕事を終えた。
いかにも早く部屋を出たい、といった様子で「では、私はこれで失礼します」と言った。
こんな医者を招き入れたくはなかった。でも他に、獣人を診てくれる医者などいなかったのだ。
私は、商館の出口まで医者を送り、そこから使用人へと引き継いだ。
努めて平然とした顔で「ありがとうございました」と謝意を述べたが、内心は悔しい気持ちでいっぱいだった。
医者は、門に向かいすたすたと歩いていく。
それを見送った後、再び商館へと戻った。ガロの元へ行こうと思った。
でも、その前に、何かが限界を迎えてしまった。
ガロに何と声をかけよう、と考えた途端、目から涙が溢れてしまった。
私は咄嗟に、応接間へと駆けこんだ。
涙がぽろぽろとこぼれる。
悔しかった。ヤブ医者だと、こき下ろしたかった。
でもそれはできなかった。
あの医者は、態度こそ悪かったが、嘘を述べたわけではないのだろう。
全て、私の甘さが招いた結果だ。
私や獣人を疎ましく思う者が沢山いることなどわかっていた。
わかっていたのに、貴族の私財を侵す犯罪をする者などいない、わざわざ危険な魔石鉱山に近付く者などいない、と思い油断していた。
鉱山は、警備も防災も不十分だった。
その結果があの火災だ。あれは、明らかに放火だった。
魔石はひとりでに燃え上がるわけではない。何らかのエネルギーを得て初めて発火するものだ。
そもそも、あんな鉱山の入り口に魔石などない。
もっと言えば、魔石鉱山の火災により、中毒症状が出た者の報告は聞いたことがない。
悪意を持って、何かしらを燃やしたのだろう。
涙は後から後から流れ落ちてきた。堰を切ったようだった。自分の意思でどうにかなるものでもなかった。
なのに、背後で、カチャリ、と控えめな音がしたのを聞いた時、一気に背筋が寒くなり、あっけなく涙は止まった。
――誰かが応接間のドアを開けたのだ。
その人物は、静かだった。だから、先客に遠慮して退室してくれるだろうと思った。
でも、そうはならなかった。その人はドアを閉めると、私の前へと回り込んだ。
私を見下ろす金の眼と視線が合った。
見られた――と思い、頭が真っ白になった。
「……どうして、泣いているんだ?」
数秒の間の後、ハルが尋ねた。
その声で、はっと意識を取り戻し、顔を背けた。
「別に……何でもないわ」
「……俺たちの、せいか?」
「違うわ、ちょっと自分に腹を立ててただけよ」
「……」
しん、と沈黙が落ちた。
「考え事をしたいから、出て行ってくれると助かるんだけど」
存外に冷たい声が出てしまった。でも、ハルは出て行かなかった。
「……ガロのことを言っているのなら、ビアンカは何も悪くないから」
ハルは、私の心を見透かしたかのようにそう言った。
「……まさか、あれは私のせいよ」
「誰もそんなこと思っていない。ガロも思っていない。ガロは、危険だと知りながら、自分の意思で火を消しに行ったんだ」
「思っていなくたって、事実――」
「ビアンカは悪くない!」
ハルが叫ぶように言った。驚いて顔を上げると、再びハルと目が合った。
ハルは、はっとしたように顔を歪め、「悪い、大声出して……」と言った。
「でも、本当なんだ。本当に、ビアンカは悪くない」
ハルは、私の両手を取って、ぎゅっと握り込んだ。
そうされて初めて、自分の両手が固く拳を握っていたことに気が付いた。
それをほどくと、掌がハルの大きな手に包み込まれた。
私の手は冷え切っていた。ハルの手は、とても温かった。
「俺たちが疎まれることに、ビアンカが心を痛める必要なんてないから……」
ハルは私のことを真っすぐに見つめていた。
眉尻は、すっかり下がってしまっている。
どうしてそんなに心配そうな顔で、私に声を掛けてくれるのだろう。
私をそんな風に扱う人なんて、誰一人いなかったはずなのに。
「だから、そんな風に一人で泣かないでほしい……」
私はハルのことをぼんやりと見つめていた。
でも、その言葉を聞いた時、自分が涙でぐちゃぐちゃの顔をしていて、しかもハルと両手を繋いでいることを思い出した。
一気に羞恥心が湧き上がり、先程までとは別の意味で、平常心ではいられなくなった。
「わ、わかった! わかったから! 一旦、出て行ってくれる!?」
私が上擦る声で言うと、ハルが悲し気に顔を曇らせた。
「だから、その、泣き顔を見られるのは恥ずかしいの!」
多分今の私は、目を腫らし、顔を赤くしているのだろうと思う。鏡を見なくてもわかる。顔に火照った感覚がある。
成人してから、こんな顔を他の人に見られたことはない。恥ずかしかった。
ぐいぐいと両手を引くと、ハルは、はっとしたような顔をして、ぱっと手を放した。
「わ、悪い。出て行く。でも、本当にビアンカは悪くないから」
「わかったから!」
ハルは、わたわたと部屋を出て行った。
私はドレスの袖で、ごしごしと涙跡を拭う。
涙は完全に引っ込んでいた。
不思議な気持ちだった。
ハルに「ビアンカは悪くない」と言われたところで、「はい、そうですか」なんて思えない。
でも、どうしてだろう。明らかに、心が軽くなっているのを感じた。
顔の熱が引いたら部屋を出て、前へ進もう、と思えた。




