恋しき悲声
商館の医務室のベッドで、何をするでもなく寝転がっていると、ハルがやって来た。
ノックの音は聞こえなかった。足音も聞こえない。
ただ、匂いでハルが来たのだと気が付いた。
「……のか」
ハルがこちらに近寄りながら何か言ったが、どうにも聞き取れなかった。
俺は上体を起こし、「なんだ」と尋ねた。
ハルはベッド横の椅子に腰を下ろすと、「いや、寝ているのかと思ったんだ」と返した。
「寝てない」
「そうか」
ハルは、特に用があるようでもなく、それきりぼんやりと窓の外を眺めていた。
獣人達は、暇を持て余しているのか、よく医務室へとやって来る。
始めこそ調子を聞かれたりもしていたが、それももうなくなった。腕の火傷はすっかり良くなったというのに、耳は相変わらずだった。
近くで話す男の声なら聞きとれる。
でも、ほんの一枚薄い壁を隔てただけで、何一つ聞こえなくなる。
ビアンカとシオンの声に至っては、どんなに近付いても、聞こえることがなかった。
おかしな気持ちだった。
子供の頃から誰よりも聴力が優れていて、耳が腐り落ちそうな会話が絶え間なく頭に流れ込んできていた。
いっそのこと聞こえなくなれば良い、と思ったことは何度もあった。
それが叶わぬうちは、耳に入って来る声を情報として捉えないように、ただの雑音と思い込むことで凌いでいた。意識的に、無関心な自分を作り上げていった。
それなのに、いざ聞こえなくなると、言い様の無い不快な気持ちに襲われ、一向に消える様子もない。
もう傭兵として戦っているわけでもない。男たちに囲まれて鉱山で働く分には、それほど困らないとも思う。
ビアンカやシオンが俺に伝えたいことがある時は、ハルが代わりに俺に伝えるから、大きな不便もない。
でも、そういうことではなかった。
俺は、ビアンカの声が聞きたくて仕方がないのだ。
ビアンカが、どこか遠くで悩んだり憂いたりしている、その優しい声が聞きたい。
「……お前はやっぱりすごいな」
ふと出し抜けに、ハルが言った。
「あんな鼻の曲がりそうな臭いがする坑道に一人で入るなんてな……」
独り言かのように呟いていたが、そう聞き取れた。
何がすごいものか。
「でも、俺は失敗したんだ」
「そんなことないだろ。ビアンカは、お前が火を消してくれたことに、感謝してたぞ」
「いや、俺は失敗したんだ。……ハル、知ってるか。ビアンカは時々、自分のせいで俺たちを怯えさせたとか、傷つけたとか、怪我させてしまったとか、そんなことを話しているんだぞ……それも苦しそうな声でな」
「え……」
「ユーリが聞いたら喜びそうだけど……お前は違うだろ、ハル」
「……そうだな……」
ビアンカのことだから、きっと、今回のことにも責任を感じているだろう。俺が怪我をしたせいで、一層心を痛めているに違いない。
俺は、ビアンカに傷ついて欲しくはない。
傷ついて欲しくないのに、ビアンカが嘆く声を聞くのが好きで堪らない。今、自分のせいで俺が怪我した、と嘆いているのであれば、その声を聞きたくて仕方がない。
耳が聞こえたって、聞こえなくたって、俺では駄目なのだ。俺にはビアンカを守れない。
でも、ハルは違う。
「ハル、ビアンカを守れよ」
その言葉が口をついて出ていた。
「ああ」
ハルはじっと俺を見つめた後、しっかりと頷いた。




