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煤けた洞(1)

2024/4/13 加筆修正しました。

 ビアンカに起こされた後、すぐに着替えて商館を出た。

 ビアンカはどこか落ち着かない様子で車の横に立っていたが、俺の姿を認めると、さっと後部座席に乗り込んだ。

 俺もそれを追うように車に乗り、ビアンカの向かいに腰を下ろす。

 車のドアが閉じると、ビアンカはすぐさま運転手に出発の合図を出した。

 

 車は緩やかに動き始め、どんどんと速度を増していく。いつもよりもかなり速いスピードで進んでいるように感じた。

 それはきっと、錯覚ではない。どうも、尋常ではない事態が起こっているようだった。

 

「ハル、夜中に悪いわね……」

 

 ふいに、ビアンカが口を開いた。

 夜目の利く目をそちらに向けてみれば、彼女に化粧気がなく、髪も整えていないことに気が付いた。

 そのことでビアンカの美しさが損なわれているようにも感じなかったが、いつもよりもどこか幼く、そして疲れているように見えた。

 

「それは構わないが……一体何があったんだ?」

 

 そう尋ねると、ビアンカは眉根にぎゅっと皺を寄せた。

 

「鉱山から火事の連絡が入ったの」

「火事って……」

 

 ガン、と頭を殴られたような衝撃があった。

 それは既に、遠い国のお伽話のような響きを持った言葉となっていた、はずなのに。

 

「それ以上は何もわからないわ。火事のベルが鳴ったから、何かがあったことは確かだけど、本当に火事なのかもわからない」

 

 ベル――鉱山近くに設えられた小屋の中、消火剤の山の隣で赤々と存在感を主張していたボタンが、脳裏に蘇った。

 その隣で、ルドが説明している。

 このボタンは、屋敷のベルと連動している。赤は火災を知らせるボタン、青が落盤を知らせるボタン。間違えて押したりすんなよ。でも万が一押しちまった時は、隣の取り消しボタンを押せ。じゃないと、ビアンカ嬢が確認しにここまで来ちまうからな。

 ――今、まさにその状況が起きているのだろう。

 火災のベルが鳴ったから、これからビアンカは、その状況を確認しに行く。だが、ビアンカの言葉には、何か含みがあった。

 

「でも、採掘場の事故のほとんどが火災なんだろう……?」

 

 そう教えてくれたのは、他ならぬビアンカだった。

 

「そうよ。でも、無人の鉱山で火事が起こるなんて……多分、クシカでもそんなことは起こっていないはずよ」

 

 俺には、わからなかった。

 クシカは昼も夜も鉱山が稼働している。無人の時間帯がなかったから、判断のしようもない。

 だけど、ビアンカは確信しているように見えた。

 

「何が起こっているかわからないけど、なんだか嫌な予感がする。最近色々あったから……。だから、鉱山に着いたら、ハルはガロとシオンのことを探して、助けてあげてほしい」

「……わかった」

 

 握った拳の中で、嫌な汗が滲み出すのを感じる。

 ビアンカは曖昧に言葉を濁したが、その言葉が何を指しているのか、何を懸念しているのかは明白だった。

 あのおかしな子爵がやってきたのは、つい先日のことだ。その男は、獣人のことをあげつらいやたらと騒ぎ立てていた。

 あれで、あの男の溜飲が下がったとは思えない。そうでなくても、俺たちのことを疎ましく思う奴らは、きっと沢山いる。

 ガロとシオンが、心配だ。

 

 だが、それと同時に、またか――と思わずにはいられなかった。

 俺たちのような獣人が傍にいるせいで、ビアンカはまた傷ついているのだ。

 

 ビアンカは、俯いて黙り込み、瞬きだけを繰り返している。

 表に出すまいとしているようだが、内心では動揺しているのだろう。

 俺はビアンカにかける言葉を持っていなかった。他に、ビアンカのためにできることもなかった。

 夜のしじまの中、車の走る音だけが鳴り響いていた。

 そうして、重くて長い沈黙が流れた後、ふと、耳と鼻が鉱山の騒がしさを捕らえた。

 

「ビアンカ……焦げた臭いがする……」

 

 言うや否や、ビアンカははっと顔を上げ、窓の外へと目を向けた。

 車は大分鉱山に近付いていたが、そこに炎や煙は見えない。

 心の中で、不安と安堵がないまぜになった。何かが燃えた事実があり、それは多分、もう消火された。

 ちらりとビアンカの横顔を窺う。そこにはっきりとした感情は表れていない。だが、彼女の心情は、俺よりもよっぽど複雑に絡み合っているのだろう。

 

 ビアンカはそれからずっと、何も見えない夜空をずっと睨んでいた。

 夜目の利かない目で何かを探しているようにも見えたし、見えない何かを見ているようにも見えた。

 

 やがて車は鉱山の前に到着し、止まった。

 車のドアが開くと、焦げ臭さが一層強くなり、鼻を突く。

 遠目には火事の痕跡は認められなかったが、鉱山の前には深夜にもかかわらずルドがいた。

 ルドは、右手に懐中電灯、左手に縄のようなものを持っている。その姿が、ここで何かが起こったことを象徴していた。

 ルドはずかずかと歩いていたが、車に気が付くと、足を止めた。

 

「ルド!」

 

 ビアンカが、車を飛び出てルドに駆け寄っていく。俺も、その背中を追って車を出た。

 ルドは、普段とさほど変わらない表情で、俺たちの到着を待っていた。

 

「ビアンカ嬢、早かったな……。鉱山で火が上がったんだ。ガロがすぐに気付いて消してくれたんだが、ちょっと火傷を負っちまった。腕にほんの少しだ。大したことはなさそうだったが、今は医務室に寝かせているよ」

 

 ビアンカは軽く息を吸った後、「そう……」と吐き出した。

 ほとんどため息のような、相槌だった。そこにはやはり、俺以上に複雑な気持ちが込められてるのだろう。

 火事は鎮火された。ガロは軽傷だ。だけどきっと、ビアンカの不安は少しも晴れていない。

 

「ちょうど入り口に縄を張ろうとしていたところなんだが……その前に中を確認していくか?」

 

 ルドが顎で鉱山を指し示した。

 

「ええ、そうするわ。ハル、先に医務室に行っててちょうだ――」

「駄目だ」

 

 ビアンカが言い終わる前に、その声を遮った。

 ビアンカの目がわずかに見開かれる。

 

「ハル、車の中で言ったでしょう」

 

 ああ、と頷く。確かに言った。でも、その時とは状況が変わったのだ。

 今は、ガロ達よりもビアンカの方がよっぽど心配だった。

 

「だけど、鉱山は危険だ。嫌な臭いがする。ビアンカが行くなら、俺もついて行く」

「でも……」

 

 ビアンカは何か言い返そうとしていたが、今度はルドが「ビアンカ嬢」と言ってそれを遮った。

 

「ビアンカ嬢、ハルも連れて行ってくれ。ガロなら、シオンがついているから大丈夫だ。シオンだって、立派に鉱夫として働いている男だ」

 

 ビアンカは束の間逡巡していたが、重々しく口を開き、「そう……そうね、そうするわ」と返した。

 

「よし、じゃあ、行くか」

 

 ルドが頷き、先頭に立って歩き出す。俺とビアンカがそれに続いた。

 鉱山の入り口にはドアのようなものはない。近付くほどに、嫌な臭いが強くなった。

 でもそれは、記憶の中にある、故郷の魔石鉱山近くで嗅いだ焦げ臭さとは異なるものだった。

 それが魔石の質の違いによるものなのか、それとも肉体が焼ける臭いが混じり込んでいないためなのか、俺にはわからなかった。

 ただ、危険を感じる臭いであることは間違いなかった。

 

「ビアンカ、これ以上入ったら駄目だ」

 

 鉱山の入り口でそう告げると、ビアンカは戸惑ったようにこちらを見上げ、「そう……?」と言った。

 頷いて返すと、ビアンカは俺から視線を外し、ルドの方へと向き直った。

 

「じゃあ、ルド、灯りはつけられる?」

「それが、坑道の灯りは火事でいかれちまったみたいだ。これでどうにかしてくれ」

 

 そう言うと、ルドはビアンカに懐中電灯を渡した。

 

「そう……わかったわ」

 

 ビアンカは懐中電灯のつまみをいじり、光を強くすると、坑道の奥へと向けた。

 光はしばらく坑道の中を彷徨った後、入口からほんの数メートルの所で止まった。

 そこには、明らかに何かが燃えた痕跡があった。

 壁も天井も煤けている。ただ、床だけは一面真っ白だった。おそらくこれが、消火剤なのだろう。

 

「ありえない……」

 

 ビアンカが苦々しく呟いた。

 それから数秒の間坑道を睨みつけ黙り込んでいたが、脱力したように懐中電灯を下ろすと、ルドへと向き直った。

 

「よくわかったわ。調査のための専門家を手配するから、それまでは誰も入れないようにして。仕事も休みよ」

「ああ、わかった」

「ガロとシオンも連れて帰るわ。当分は屋敷で屋敷で過ごしてもらうから。あとは、追って連絡するわ」

「ああ、そうしてくれ」

 

 ビアンカは、足早に宿舎へと向かった。

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