孤城の訪問者
「ヘレンキース伯爵がいらしています」と、マリーに告げられた時、心にざわりとしたものが這い上がるのを感じた。
先日ハイム子爵が訪問してきたばかりだというのに、今度はヘレンキース伯爵が来たというのか。
ヘレンキース伯爵のことは、パーティで何度か見かけたことがある。
地位と美貌と財力を兼ね備えていて、多分、人を治める能力も高い。多くの未婚の令嬢が彼に恋慕しているように見えた。
でも、私はどうも好きになれなかった。
ヘレンキース伯爵は完璧過ぎるのだ。貼り付けたような笑みの裏に、何か別の顔があるとしか思えなかった。
それは、ただの勘――女の勘とか商人の勘とか、そういう曖昧なものだった。
今の状況で、ヘレンキース伯爵の訪問の知らせを好意的に受け取ることは、とてもできそうになかった。
彼は一体、何の用事があってここまで来たのだろうか。
「どういたしましょうか。身支度をなさいますか」
マリーが困ったような顔で尋ねた。
きちんとしたドレスを着て、屋敷に招き入れるべきなのだろう、とは思う。
この地域で最も権威のあるヘレンキース伯爵の不興を買うことは、得策ではない。
でも幸か不幸か、彼は先触れなしにやってきた。
先に礼を欠いたのは伯爵の方だ。それは少なからず、こちらが礼を尽くさないことの言い訳になりそうだった。
「いいえ、このまま門のところで応対するわ」
「門で……外で、ですか?」
マリーは目を丸くして尋ねた。
「だって、屋敷に入れるわけにはいかないもの。居留守が使える相手でもなさそうだし、挨拶だけしてくるわ」
私はペンを置き、書きかけの書類を書斎机の引き出しに仕舞うと立ち上がった。
念のため、自分のドレスを見下ろす。
動きやすい服ではあるが、商人として応対するには十分、と言える位にはしっかりと仕立てられていて、汚れもない。このままで問題ないだろう。
「じゃあ、行ってくるわ」
「はい、行ってらっしゃいませ……」
不安そうなマリーを残して、ヘレンキース伯爵のもとへと向かった。
私が門から外へと出ると、ヘレンキース伯爵は高級そうな馬車からゆったりと降りてきて、上品な笑みを浮かべながら「こんにちは、キーリー男爵」と言った。
常識外れなことをしている自覚はあったが、ヘレンキース伯爵は気に障ったような素振りは見せなかった。
「こんにちは、ヘレンキース伯爵様。こんなところでのお出迎えとなり、申し訳ございません」
「いいえ、突然来た私の落ち度ということは、重々承知していますよ。ただ、たまたま近くに来ていたので、寄らせていただいたのです」
「……そうでしたか」
意図の汲み取れない言葉に、曖昧な返事を返すと、ヘレンキース伯爵は深緑の瞳を細めて、にこりと微笑んだ。
「あなたに関する、面白い噂を聞いたので」
「……噂、ですか」
「ハイム子爵を、いとも簡単に追い返したそうですね」
「……」
穏やかな口調とは裏腹に、棘を孕んだ言い回しだった。
「私はとても感心しました。でも、賢いやり方ではなかったですね」
「……どういう意味です?」
「あなたも貴族の端くれならば、もっと先を見越すべきです。あなたは彼の要求通り、大人しく全ての獣人を手放すべきでした。ハイム子爵が取るに足りない男だとしても、その後ろにどんな人間がいるか、あなたには想像もつかなかったのでしょう?」
ヘレンキース伯爵は、相変わらず笑みを浮かべていたが、その目には冷ややかな光を湛えていた。
気を抜くと後ずさりしてしまいそうな、威圧感があった。
「……誰であろうと、関係ありません。大切な従業員を手放す程、私は馬鹿じゃありません」
それでも私は、退くわけにはいかなかった。
動揺を隠すように睨み返すと、ヘレンキース伯爵はちょっと目を見開いた後、わざとらしく悩むような仕草をした。
「うーん、普通の貴族は、どうにかして私に取り入ろうとするものなんですけどね。獣人と伯爵、天秤にかけるまでもないと思いますが」
「伯爵様こそ、それほど価値がないと思うものに、何故そんなに執着するのですか?」
「執着? まさか。ただ、放逐したいだけです」
「伯爵様のおっしゃる放逐とは何です?」
「放逐は放逐ですよ。この国から出て行ってもらうのです。あなたのような有名な貴族が、獣人のように力ある者を使役していることは、どうにも目に余りますから」
どうも真意が読み取れなかった。
わざわざ自ら屋敷に足を運んできて、ハイム子爵を焚きつけたのは自分であると暗に示し、獣人を差し出せと私を脅している。
それが、獣人を疎ましく思い追い出そうとしている風であれば少しは納得がいったのだが、そういう雰囲気にも見えない。ただの私の印象に過ぎないが、ヘレンキース伯爵の言葉には、獣人への憎しみは込められていないような気がした。
どちらかというと、私が獣人を囲っていることが気に食わないようだった。彼らは、見ようによっては私の武力と捉えることができるのかもしれない。
私が逡巡していると、ヘレンキース伯爵は、今度は何故かくすくすと笑いだした。
「あなたは不思議な人ですね、獣人のこととなると、途端に表情がコロコロと変わる」
「……伯爵様程ではないかと思います」
ヘレンキース伯爵の情緒の揺らぎに、やや引きながら答えた。
いつもの貼り付けたような笑みも気味が悪かったが、突然声を上げて笑われるのも、同じくらい不気味さを感じた。
「そうですね、私はいつも涼しい顔をしている悪名高い女性会いに来たつもりだったのですが、思いがけないものを目にして、つい嬉しくなってしまったようです」
ヘレンキース伯爵は、にこりと人好きのしそうな笑顔を浮かべた。
「これ以上居座っても、仕方がなさそうです。今日のところはこれで失礼致します。今度は、先触れを出してから来ますね」
そう言うと、私の右手を恭しくとった。
私の右手が高く持ち上がった時、ヘレンキース伯爵は一瞬ぴたりと動きを止め表情を消した。
しかし、次の瞬間には何ごともなかったかのように笑顔を浮かべ、私の手の甲にキスを落とした。
そうしてヘレンキース伯爵は、嵐のように去っていった。
一体、何だったのだろう。
うまくやり過ごせたのか、自分でも良くわからなかった。
できればもう来ないでほしい。
私は、手の甲をドレスの裾でごしごしと拭くと、ため息をついた。




