音に聞く佳人(2)
「ユーリ、大丈夫か。顔色が悪いぞ。気分が悪いなら、先に休んでおけ」
「……ああ、そうする……」
ハルが声をかけると、ユーリは震える声で答えた。多分、あの貴族の悪意に当てられたのだろう。
門が開くと、ユーリはよろよろとした歩調で、商館へと向かっていった。
「ユーリ、大丈夫かしら……」
ビアンカがひとりごちた。
「……ビアンカは、大丈夫か?」
ハルはそれには答えず、逆に、ビアンカに尋ねた。恐る恐るといった口調だった。
「うーん、そうね……。まあ、今回のことは想定の範囲内ではあるけど……念のためしばらくは色々と気をつけた方が良さそうね」
その微妙にずれた会話を聞いて、二人の仲がすっかり元に戻ったことを悟った。
ハルは自覚があるのかないのかよくわからないが、ビアンカのことを妙に大切にしている。何故そんな風に扱うのか、なんとなく理解はしているが、それでも俺にはよくわからない。ビアンカは独り立ちした大人の女性だ。
例えドレスにワインをかけられようと、頭にかすり傷をこしらえようと、彼女は一人で対処できるはずだ。
そういう人に「大丈夫か」と声をかけたところで、ハルが思うような答えは返ってこないだろう。
今日もハルは、釈然としない顔で帰って来るんだろうな、と思った。
だが、ハルは言葉を続けた。
「そうじゃなくて、嫌な気持ちとか、怖い気持ちにならなかったか?」
「……」
ハルは、いつもと様子が違うようだった。
ビアンカも驚いているのだろうか、しばらく沈黙が落ちた。
「……大丈夫よ。私は子爵のことをそれなりに知っているから。さすがに門番やあなたたちがいる前でおかしなことをする程無謀な人じゃないわ。……さ、中に入りましょう」
ビアンカは静かな声で答えた。
それに対してハルは、「そうか……」とだけ返した。
二人分の足音と、それに続く車の音、それから門が閉じる音がする。
「じゃあ、悪いけど、魔石の運搬よろしくね」
「ああ、わかった」
二人の足音は別れた。
しかし、屋敷へと向かうビアンカの足は少し進んだ後ぴたりと止まり、車へと向かうハルを呼び止めた。
「ハル、ありがとうね」
「……ああ」
二人の足音は離れて行った。
これで、会話はひとまずの終わりを迎えたようだった。
気付けばすっかり、聞き入ってしまっていた。
これじゃあ、盗み聞きと思われても仕方ない。
普段は人一倍聴覚が優れた耳を閉ざし、何も聞くまいとしているはずなのに、何故だかビアンカの声だけはすんなりと耳に入ってきてしまう。
探りを入れたいわけでもないし、ましてやビアンカのことを知りたいわけでもない。
ただ、ビアンカの話す言葉は、妙に耳障りが良かった。
声を荒げた時でさえ、全く不快な音がないことが不思議だった。
ビアンカが俺の耳が届かない屋敷の奥深くへと引っ込んだ後、しばらくガシャガシャとした作業音が続いていた。
それが済むと、今度は階段を上がる足音が聞こえた。
次いでゴンゴン、と固いノック音がし、ハルが部屋のドアから顔を覗かせた。
「ガロ、今いいか?」
「ああ」
ベッドに腰かけたまま返事をすると、ハルは部屋に入り、俺の足元の床にドカッと腰を下ろした。
そのハルを見下ろし、なるほどこんな表情をしていたのか、と思う。
それは、なんとも複雑な表情だった。口元は緩んでるのに、眉間には皺が寄っている。
耳としっぽはしんと静まり返っているが、顔にはとても平静とは思えない心情がありありと浮かんでいた。
「まず、ビアンカはもう怒っていないみたいだった」
ハルは、やたらと重々しい口調でそう告げた。
それは、この二週間、ハルの頭を悩ませ続けていた問題だった。
「……そうか」
俺が答えると、ハルはひとつ頷き、「それから……」と続けながら、眉間の皺を一層深くした。
「気を付けて欲しい奴がいる。今週から鉱山に入ってきた若い男と、あとハイム子爵とかいう貴族の男だ。俺がいない時にそいつらとビアンカの間に何かあったら、教えてくれないか」
「ああ、わかった」
簡潔に承諾の旨を伝えると、ハルはほんの少し安堵の表情を見せ「ありがとう」と言った。
ハルに対して、なんとなく後ろめたい気持ちがないわけではない。
それでも、最初からビアンカは怒ってなどいなかった、とか、その子爵のことは知っている、とか、そんなことは絶対に口にしない。
ハルの部屋の物音も、庭の声も全て聞こえているだなんて、ハルにも知られたくない。
でも、ハルが望むなら、できる限りのことをしよう。偶然を装って、庭に出て、ビアンカを守るくらいのことなら、できるはずだ。
今度こそ、ハルの望む通りに、ビアンカのことを守ろう。




