男爵と狂犬(2)
呆然としているうちに、ライアンの手で、見たこともない頑丈な紐で縛り上げられ、「地下室」へと運び込まれた。
折檻されるのだろう――そう思った。
だが、ライアンは、無言で俺を床に転がし、重厚な扉を閉じると、そのまま帰ってこなかった。
光の入らない、真っ暗な部屋だった。首を回しあたりを見渡すが、目が暗闇に慣れて尚、何も見えない。その狭い部屋は、がらんどうだった。
どうしようもなかった。縛めから抜け出そうともがいても、ただ、手足が、しっぽが、ギリギリと痛むだけ。例え抜け出せたとしても、目の前の重々しいドアは一分の隙も無く部屋にはまり込んでおり、力に任せて開けられるとも思えなかった。
真っ暗な部屋の中で、時間の経過と共に、何かに心が蝕まれるのを感じた。
あいつらは今頃、どんな扱いを受けているだろうか。俺のせいでひどい扱いを受けているかもしれない。
冷たい床に獣の耳をつけても、誰の声も聞こえない。
嗅ぎ取れるのは、微かな腐敗臭だけで、人の気配を感じ取ることもできない――。
どれほどの時間が経っただろう。
ガチャリ、という音と共に細く光が差し込み、眼前に二つの影が落ちた。
何か食べ物の良い匂い――と共にそれに混じる微かな血の匂いを嗅ぎ取り、警戒心を強める。
「ライアン、明かりを点けてちょうだい」
「承知いたしました」
部屋がぱっと明るくなり、スープのようなものを持つ女と、腰に剣をさした男の姿が明らかになった。
「……あいつらを、どこにやったんだ」
急激に明度を増した視界に顔をしかめながら、唸る。
ビアンカとライアンは、冷えた目でこちらを見下ろしていた。
「心配しなくても、手当して、休ませているわ」
「信じられると思うか? お前から、新しい血の匂いがする……」
「血の匂い……?」
ビアンカが訝し気な顔で、繰り返した。
「ビアンカ様の血では?」
ライアンがぼそりと言うと、ビアンカは「ああ、そうね」と頷いた。
「見ての通り、腕を怪我したの。あなたの仲間の血じゃないから、安心して」
ビアンカは、右手首の内側を示した。そこには確かに、布が当てられ、血が滲んでいる。
「それで? あなたの気持ちは変わらないかしら? 私の仕事を手伝う気にはなれない?」
ビアンカは、怪我についてはそれ以上語らず、質問に転じた。
彼女の声には、うんざりしたような気色があった。
「さっきの説明で伝わらなかったみたいだから、はっきり言わせてもらうけど。あなたたちはこの家の外に出たら、確実に殺されるわよ。この国はそういうところなの」
「わかった、なんでもやる」
脅迫的な言葉が途切れるや否や、俺がそう答えると、ビアンカはどこか釈然としない顔で「……そう」と呟いた。
それ以外に、一体どんな答えを期待していたというのか。
退路を断たれ、仲間まで人質に取られた俺が、断れるはずもない。それとも、泣いて喜ぶか、あるいは許しを請うとでも思っていたのか。
「あなたの名前は?」
「……ハル」
「そう、ハルね。灰メッシュの人がガロで、茶髪の子がシオン、白い髪の人がユーリで、あなたがハル。合ってる?」
「……」
ビアンカの言ったことは合っていた――だが、あいつらは、自分で名前を教えたのだろうか。
俺が黙っていると、ビアンカは軽い溜息をついた。
「まあいいわ。お粥を持ってきたから食べてちょうだい。ライアン、紐をほどいてあげて」
「ビアンカ様、それは……」
「大丈夫よ、このドアはさすがに、彼でも破れないだろうから」
「……承知いたしました」
ライアンは、渋々といった体で、俺の体に巻かれた紐をほどき始めた。
「今日はこの部屋で寝てちょうだい。あなたの部屋の鍵は、頑丈なものに付け替える必要がありそうだから」
そう言い残すと、二人は地下室を後にした。