背反と固守(2)
2023/9/2 加筆修正しました。
ビアンカが若い男に迫られている場面に居合わせた時、それを止めようとする人なんて、そうそういないだろう。きっと彼女の噂を知るほとんどの人が、「また遊んでいるな」としか思わないのだと思う。
でも、俺には到底そうとは思えなかった。彼女が、怖がって震えているような気がしてならない。
俺は、とにかく早くビアンカの元へ行きたくて、全力で走った。
姿を見ればきっと安心できる。そう思っていた。
なのに、宿舎の傍でようやくビアンカの姿を視界に捉えた時、安心感などかけらも感じられず、頭の中は尋常でない熱に支配された。
男の背中の向こう側で、ビアンカが宿舎の外壁に押し付けられている。
男の背中が邪魔で、ビアンカの姿はほとんど見えない。
はっきりと見えるのは、高い位置で男の左手に抑え込まれた、彼女の細い両手首くらいだった。
それだけで、十分だった。
頭が沸騰し、真っ白になる。
男の背中に大股で近付く。
左手を男に向かって伸ばす。
男の肩の筋肉や神経を引きちぎるために、爪を立てる。
狙いを定めた男の左肩の向こうに、ビアンカの顔が見える。
視界の隅で、ビアンカの眉間に刻まれた気丈な皺がたちまち消え、ふっと眉尻が下がった。
ぴたりと俺の手が止まった。
ビアンカのそれは、安心した表情なのだろうか。それとも不安な表情なのだろうか。
しばらくぶりに、思考が戻ってきた気がした。
霞が消えた視界の中で、ビアンカの視線の先を追うように、男の首が振り返った。
男の顔には、品のないにやにやとした笑みが浮かんでいる。
振り向く男の頬は、中途半端な位置で固まったままの俺の鋭い爪をかすめかけたが、男はその直前で「ひっ」と声を上げて、身を退いた。
その動きと共に、男に捕らえられたままのビアンカもよろめく。
思考が戻って尚、この男の腕を引きちぎりたいという思いは消えないし、強くなる一方だった。
それでも俺は、自分の意志で左手を引き下げて、固く握りしめた。
「ビアンカを放して、さっさと仕事に戻れ」
絞り出したような低い声だった。
男は、怯えたような表情を浮かべ、ようやくビアンカから手を放した。
ビアンカの両腕がだらりと落ち、それと同時に、男はあたふたともつれるような動きで足を動かす。
俺は、鉱山の方へと去っていくその無様な足音を聞きながら、ビアンカの元へと近寄った。
ビアンカは壁に寄り掛かり、力なく俯いている。
「大丈夫か?」
おずおずと尋ねると、ビアンカはわずかに顔を上げて、「ええ……」と答えた。
ビアンカはもはや俺を睨んでなどいなかったが、俺の顔を見ていない。
視線は俺の首元あたりでゆらゆらと揺れている。
大丈夫なはずがなかった。
俺は手袋を外し、ズボンのポケットにぞんざいに突っ込むと、掌の汗をズボンで拭った。
それから思い切って、ビアンカを抱え上げ、横抱きにする。
ビアンカは「え」と小さく声を上げて、ようやく俺の顔を見た。
「その……歩けないように見えたから、医務室に連れて行く」
ビアンカは怪我などしていない。
ただ、青ざめている、というだけだったが、それでもこのまま歩かせたくなかった。
ビアンカは今にも倒れそうに見えたし、そうでなくても、こんな状態のビアンカを衆目に晒したくない。
「そうね……ありがとう」
ビアンカは、か細い声で応えた。
それから、そういう小動物か何かみたいに、俺のシャツの肩口に両手でしがみつくとそこに顔を埋めた。
「ありがとうハル、今回ばかりはあなたに助けられたわ……」
ビアンカが俺の胸元に顔を押し付けながら、俺にしか聞こえないような小さな声で呟いた。
その仕草と言葉に、どうしてかわからないけど、なんとなく焦ったような、そんな不思議な気持ちになった。
心臓が早鐘を打って、それに従うかのように、言葉が早口になっていく。
「あ、あんな奴、話なんて聞かずに投げ飛ばさないと駄目だ」
「そうね……ハルのこと……、いえ、考え事をしていたら、あっという間に退路を塞がれていて」
「そもそも、あんな変な奴まで拾ってきたら駄目だ」
「そうね……」
ビアンカは俺の腕の中で小さくなって、俺の言うことに、こくこくと頷いていた。
それを見ているうちに、尚更落ち着かない気持ちになり、変な汗が出てくる。
それで、今度はまた別の不安が沸き上がってくるのを感じた。
俺は今、汗だくなのだ。仕事中も汗だくだったし、ここに走って来る間にも大量の汗をかいたし、今も汗をかいている。
「あの……ビアンカ、汗臭くないのか」
おずおずと尋ねると、ビアンカは小さな声で「汗臭い……」と答えた。
「……すまない」
一層汗が噴き出したような気がした。
俺は、どうにか別の抱き方ができないものかとおろおろしていたが、ビアンカは「臭い」といいつつも俺のシャツから顔を離す気配がなかった。
「汗かきすぎだから、ハルも終業までの一時間、私と一緒に医務室で休むべきだと思う」
ビアンカがまた、小さな声で呟いた。
「……わかった、そうする」
そう答えた後、ビアンカが安心したように、ふーっと吐息をついたのを胸元に感じた。




