歪な作品
ビアンカがハサミを持って俺の部屋に現れたけど、全然怖くなかった。
むしろ嬉しいと感じる自分に、満足する。
「ユーリ、髪を切った方が良いと思うんだけど……」
ビアンカは、俺の部屋に一歩踏み入れると、若干の遠慮を滲ませながら言った。
彼女は、ハサミの刃を持ち、持ち手の側を俺の方に差し出している。
確かに長いこと切っていない髪は、肩につくくらい伸びきっている。
来週から俺も鉱山に行かないといけないから、その前に自分で身なりを整えろ、ということなのだろう。
「ビアンカに切ってほしい」
彼女に髪を触れられたら、良い気分になれるのではないか、と思ってそう言った。
でも、ビアンカは意外なくらい頑なな声で、「いやよ」とぴしゃりと断った。
「私はあなたの世話係じゃないのよ」
「お、俺は……」
俺は、軽いショックを受けて、言い淀んだ。
この先、何と続けるべきだろう。
ビアンカは俺に優しい。彼女は結局のところ、俺を拒否したりはしない。それを、証明しないと。
「俺は、ハサミが苦手だ……」
言ってしまってから、こんなくだらない言い訳しかできなかった、と情けない気持ちになった。
だが彼女は、俺の言葉とその表情を、都合良く受け取ってくれたようで、幾分困ったような顔をした。
大方、俺の傷痕のどれかが、ハサミによってつけられたものだとでも思ったのだろう。もちろん、それが全くの勘違いというわけでもない。
「なら、ハルに切ってもらうのが良いかしらね……」
彼女が真剣に悩む素振りを見せるので、慌ててかぶりを振る。
「ハルはがさつだから嫌だ!」
「そう? じゃあ、今まで誰が切っていたの?」
「……」
「……まあいいわ、何か別のものを探してくるわ」
「……ビアンカに切ってほしい」
「……」
俺が食い下がると、ビアンカは、はあ、とため息をついた。
「私はハル以上にがさつだと思うわよ」
「ビアンカなら、それでもいい」
ビアンカは腕を組み、しばらく悩む、を通り越して葛藤するような表情で虚空を睨んでいた。
俺に視線を戻すと、再びため息をつき、諦めたように「……後悔しない?」と言った。
嬉しくなって、「しない!」と笑顔で返すと、ビアンカはうなだれるかのように緩慢に頷き、傍らに抱えていた大きな青い布を広げ、部屋の床に敷いた。
「じゃあ……ユーリ、ここに座ってちょうだい」
ビアンカが布の中心を指し示しながら、言った。
俺はそこに、あぐらをかいて、彼女に背を向けるように座った。
すると後ろから、ビアンカの固い声が降ってきた。
「絶対に動かないでね。耳の生えた頭の髪なんて切ったことないし……そうじゃなくても、髪なんてほとんど切ったことがないから」
「わかった」
ふーー、とため息とも深呼吸とも判別できない長い吐息が聞こえた後、ぐい、っと襟足を引かれ、ジョキンとハサミが閉じる音がした。
――想像とちょっと違う。人間は、もうちょっと、髪を梳いたりなんだりしてから切るものなのかと思っていた。
しかし実際には、頭皮も耳も、ビアンカの手のぬくもりを全く感じることができないまま、ただぐいぐいと引っ張る握力を感じるだけだった。
本人が言う通り、繊細な作業は得意ではないのだろう。ジョキジョキと絶え間なく聞こえる潔い音は、ビアンカらしいと言えばビアンカらしかった。
「目を瞑って」
いつの間にか俺の前に回ってきていたビアンカが、真剣な表情でそう言った。
おとなしく瞼を閉じるとビアンカの姿は見えなくなったが、息がかかりそうな程の距離に彼女がいて、俺の前髪に意識を集中していることは感じた。
ジョキン、という音がする。
「よし、終わりね。うーん……」
目を開けると、ビアンカは立ち上がり、なんとも言えない表情で俺を見下ろしていた。
「まあ、あなたは目鼻立ちが良いから、どんな髪型でも映えて見える……わね」
ビアンカは歯切れ悪く、そう結論付けたが、俺としてはどうでも良かった。
「じゃあ、これからもビアンカに切ってもらう」
「いやよ。ユーリ、あとでちゃんと鏡見ておいた方が良いわよ」
「でも……」
ビアンカは、俺の髪を切ったことで、益々頑なになってしまったように見えた。
「ユーリ、私はもう切らない。そうじゃなくたって、この先、ハサミには慣れておくべきよ。私だって、いつまでもここにいるのか、わからないんだから」
それを聞いた瞬間、ざわりと逆毛が立つような感覚がした。
ビアンカは事も無げにそう言ったが、それは俺の心を沈めるには十分な威力を持った言葉だった。
いつまでもここにいるかわからない――そんなこと到底許せるはずがない。
そうだ、ビアンカに恋人が何人いても構わない。でも、結婚だけは、駄目だ。ここを去ることと、俺たちを追い出すことだけは許せない。
そんなことは絶対起こらないように、しないと。




