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熱を上げる

 ビアンカは、ガロとシオンの部屋の鍵を閉めると、同じ階にある脱衣所のロッカーの鍵を開けた。

 俺たちは、互いに顔を合わせることを許されていたが、相変わらず管理されていた。

 誰かが雑務をこなす間、他の二人は外に出ることを許されなかった。雑務の時間も、それ以外の時間もいつも近くにビアンカかライアンの匂いがしていて、落ち着かない。

 

 俺はふらふらとロッカーに近寄ると、その扉を開け、ブラシを取り出した。その様子を、少し離れたところで背中を壁に預けたビアンカが、じっと見ている。

 今日は、俺が風呂掃除をする日だった。

 もう何度目になるかわからない。風呂掃除の手順はすっかり頭に入っていた。

 

 脱衣所の先にある浴室の床にお湯を撒くと、むわっとした湿気が立ち込め、壁に備え付けられた鏡が白く濁った。

 その白濁の向こう側で、顔色の悪い男がこちらを睨みつけている。白い髪はぼさぼさに絡み合い、同じ色の耳が無表情に佇んでいる。茶色の目はどこか焦点があっていない。

 

 気分が悪かった。

 何もかも、気に食わない。

 結局ハルは一人で魔石掘りに行き、帰ってこない。

 いくら、「ハルは元気にしてるってビアンカさんが言ってたよ」とシオンに言われたところで、それがなんだ、としか思えなかった。

 

 俺は、何も考えたくなくて、ゴシゴシと力任せにブラシを動かした。

 そのブラシの柄がコツンと何かに当たる感覚が掌に伝わった。

 あれ、と思った時には、ガシャン! と音を立てて、何かが足元に散らばっていた。

 ぼんやりとした頭でそれを眺める。床でギラギラと反射する光が眩しくて、頭痛がする。

 霞がかった世界の中で一人、何秒か何分か何時間か佇立していたが、その世界は唐突に終わりを迎えた。

 ビアンカの足音が耳に届いた瞬間、急激にはっきりとした感情が戻ってきた。

 全身から血の気が引く音が聞こえた――俺は、鏡を割り壊したのだ、とそこでようやく気がついた。

 

「ごめんなさい!」

 

 俺は、その場にしゃがみこんでいた。抗いようもない、体に染みついた習慣だった。

 抱えた頭の上で、ビアンカが、はあ、と息をつくのが聞こえる。

 

「ユーリ、危ないから、一旦外に出ましょう。破片を踏まないように、気を付けて」

 

 俺は、萎えた脚にどうにか力を入れ立ち上がり、おぼつかない足取りで浴室を出た。

 脱衣所にビアンカが立っている。怖くてその目が見られず、俯いていた。

 その視界の中で、ビアンカの右手がふっと持ち上がったのを確認すると、無意識にびくりと体がすくんだ。

 右手が、動きを止める。

 

「ユーリ。ちょっとおでこを触るわよ」

 

 そう言うと、再びゆっくりと右手が動き出し、俺の額にそうっと触れた。

 

「……熱があるわね。一階で休みましょう」

 

 そういうとビアンカは右手をおろし、廊下へと出た。

 俺は棒のように突っ立っていた。ビアンカが立ち止まって振り返るような気配がした。

 しばらく無音の時間が過ぎたが、彼女はこちらに取って返すと、「手、触るわよ」と言って、そっと俺の左手を引いた。ビアンカの手は想像していたよりも、ずっと小さくて柔らかで、人の手でないような気すらした。

 俺はぼんやりとしたまま、ビアンカに導かれるまま歩いていた。

 階段を下りて、どこかの部屋に入れられるまで、まるで新雪の上を歩いてるような、ふわふわとした心地がしていた。

 そうして辿り着いた部屋は、知らない場所だった。

 

「なに……するんだ……」

「何もしない。何もせずに寝るのよ。ほら、そこのベッドに寝てちょうだい」

 

 ビアンカは、白いベッドを指さした。

 俺はビアンカに連れられ、よたよたとそのベッドに向かう。

 ビアンカは俺の手を離すと、窓辺へと向かい、その窓を小さく開いた。

 俺は、刈りたての草の香りがするそよ風を感じながら、ビアンカに指示されるがまま、体をベッドに横たえた。

 

「それじゃあ、私は隣の部屋にいるから、ゆっくり寝てちょうだい。熱が下がらないようなら、薬を用意するから」

 

 ビアンカは踵を返した。

 まさか、それだけ……?

 俺は、朦朧としながら、ビアンカを呼び止めていた。

 

「本当に、それだけ……?」

 

 ビアンカが振り返る。

 

「そうよ。何も心配しなくて良いから、ちゃんと休むのよ」

「わかった。……じゃあ、」

 

 部屋を出ようとしたビアンカを再び呼び止めると、彼女は肩をすくめこちらへと戻ってきた。

 枕元に立って、俺の顔を覗き込む。

 

「なあに?」

「さっき、なんで、おでこに手を当てたんだ?」

「ああ……あれは熱を測る時に、そうするのよ」

「人間は、手で熱を測れるのか?」

「さあ……あなたたちと変わらないと思うけど。なんとなく熱いことがわかるくらいね」

「人間はみんなそうするのか?」

「どうかしら……昔母がそうしてくれたのを思い出して、やってみたけど。考えてみれば、自分でやるのは初めてだったかもね」

「母……」

「そう、私のお母さん。もう死んじゃったけど」

「そう……」

「聞きたいことが解決したなら、もう休んでちょうだい」

「……もう一回やってくれたら、寝る……」

 

 俺がぼんやりとそう言うと、ビアンカは柔らかい溜息をついて、右腕を上げた。

 その手首には、今も痛々しく、俺がつけた傷痕が残っている。

 その手はゆっくりと俺に近付くと、俺の額に張り付いた。ひんやりとした手は、とても心地が良かった。

 ――ビアンカは怒っていない。俺が怪我をさせても、物を壊しても、怒らない。

 重たくなった瞼が、すっと閉じた。

 

「おやすみなさい、ユーリ」

 

 ビアンカがそう言うのが聞こえた。

 自分の中で、何かがぽこぽこと沸き上がるのを感じた。

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