一番好きなしっぽの話
最終話以降の話。
何もない、ただ木と草の匂いがするだけの山の中腹で、二人並んで座っている。
ビアンカの大好きな、食休み、というやつだ。大樹の幹に背を預け、正午の空を眺めているだけだというのに、ビアンカが隣にいるというだけで、幸せで胸がいっぱいになる。
ビアンカが隣にいるなら、どこにいたって何をしていたって、幸せだ。だから、街で、キラキラと目を輝かせているビアンカを見る時だって、もちろん幸せだ。
けれども問題は、それを見る男どもの目なのだ。あるいは、俺の過ぎた嫉妬心が問題、と言い換えることもできる。
とにかく、幸せであることに変わりはないけれど、今みたいに心穏やかでいられることはまずない。
今だけの、二人きりの世界。ビアンカは一切の警戒心を解いて、とろんとした目でどこかを見ている。俺の肩に預けられていた重さが、幾分増しているように感じる。多分、もうすぐ眠りに落ちるのだろう。
しかし――
「ニャア」
それが聞こえた途端、ビアンカの目がぱちりと開いた。濡羽色が俺の肩から離れ、きょろきょろと左右に動く。
……はあ。
内心でため息を吐いた。
「猫なら、そこだ」
一本の木の根本を指差す。
すると、俺の言葉が聞こえたかのように、幹の陰からするりと焦茶の半身が現れた。
「わあ! 本当だ!」
ビアンカが歓喜の声を上げる。
猫がまた、ニャア、と鳴いた。
「この柄、知ってる、キジトラよね? わ! 近付いてきた!」
ビアンカの視線が、忙しなく俺と猫の間を行ったり来たりしている。
ひょっとして俺は今、質問されたのだろうか。でも、猫の柄なんて、俺が知るはずもない。人間は、知っていることが普通なのだろうか。そうであって欲しい、と思う。でないと、ビアンカが猫に格別の興味を持っている、ということになってしまう。
猫はビアンカの方へと、ゆっくりと近付いている。気位が高そうな、どこか癇に障る歩き方だ。ビアンカはそれを、身を乗り出して凝視している。
猫が足を止めた。細いしっぽがふにゃふにゃと動く。
妙な違和感を感じた。なんだ? と俺も前のめりになった途端――
ボフン!
「わっ……!」
「な……!?」
猫が姿を消し、代わりに人型の青年が現れた。ビアンカの顔の、文字通り目と鼻の先で、にんまりと笑っている。
慌ててビアンカの身体を引き上げ、立ち上がらせて距離を取った。背中が冷たい木の幹にぶち当たる。
「にゃー。驚いた?」
男は、現れた時の姿勢のまま――深く屈んだ腿の上に片肘をつき、その先にある掌の上に自らの片頬を乗せている――上目遣いでビアンカを見ていた。頭の上では、既視感のある茶色い耳が揺れている。
「え、ね、ねこが……。え、獣人って……?」
ビアンカが混乱した様子で、俺を見上げた。
獣人は獣が変身した姿なのか、と聞きたいのだろうか――もちろん、答えは否だった。
ならば、こいつは何なのか――それは、俺にも全くわからなかった。
「お前、何なんだ……?」
「あはは、猫だよ」
男はいとも簡単に答えながら、立ち上がった。どさくさに紛れて、ぐにゃぐにゃのしっぽが、ビアンカの手を撫ぜる。ビアンカが、あ、と小さく声を上げた。
「おい、お前!」
「サービス、サービス♪ だって、ずっと触りたそうにしてるんだもん、ビアンカちゃん」
「はあ!?」
「あれ、違った? ビアンカちゃん」
「違う!」
間髪入れずに答えると、男は、はーっとわざとらしくため息をついた。
「君さあ……、はあ、これだから犬は嫌なんだよなあ」
「なら、どっか行けよ」
「ふーん、でも、いいのかなあ、僕たちがしっぽ触らせることなんて、なかなかないよ? 滅多にない機会だと思うけど、ねえ?」
縞の浮いたしっぽが、誘うようにふよふよと動く。
――ああ、駄目だ、これ以上こいつをビアンカの側に寄らせてはいけない。両腕と尻尾で強くビアンカを抱き寄せ――
「わあ!」
ビアンカの叫び声で、目がさめた。
何かが切り替わるような感覚があったが、でも、ビアンカはちゃんと俺の腕の中にいる。良かった。
ただ、見える背景は寸秒前より大きく下にずれているようだった。空が、遠く見える。
「な……え? ハ、ハル……? ちょっと、苦しい……」
慌てて腕を解く。ビアンカは、地面に座っていた。うとうとしていたその場所から、少しも動いた形跡はない。
……俺は、夢を見ていたのだろうか? 俺が? こんな外で?
「悪い、大丈夫か?」
混乱しながらも、ビアンカに尋ねた。
ビアンカが、ぽやんとした顔で俺を見上げる。寝ぼけた俺が、寝ているビアンカを起こしてしまったのだろうか。つくづく不甲斐ないし申し訳ない。
「うん、大丈夫。ハル、私を守ろうとしてくれたんで……あれ、違う、それは夢、だったのよね……」
ビアンカが小首を傾げる。
「……夢?」
「うん、どこからが夢だったのかな……。ハル、猫なんて来てないよね?」
「猫……」
……まさか、ただの偶然の一致だろう。そうは思ってみても、俺が見た夢も、どこから始まっていたのかわからない。猫は、現実にいたのだろうか……?
「ええと、そもそも、なんで私はハルに抱きしめられていたの?」
答えない俺に戸惑ったように、ビアンカが別の質問を投げかけてきた。
「それは……夢を、見ていたんだ」
「夢? ハルが? ここで寝たの?」
幸い、咎めているという口調ではなかった。ただ、不審そうだった。
「ああ……。で、猫が、猫の獣人になって、ビアンカにちょっかいをかけてきた」
「…………それは、変な夢ね。私、今、起きてるわよね?」
ビアンカが、自分の右頬をつねりながら、難しい顔をしている。
「……ビアンカはどんな夢を見ていたんだ?」
「うーん。猫の獣人がね、しっぽを触らせてくれたの。で、ビアンカちゃん、もっとしっぽ触っても良いよ、って言ったの」
「……それ、本当か?」
「もちろん、本当。それで私……。……それで、私、どうしたと思う?」
「どうって……」
いつの間にか、俺を見上げるビアンカの顔には、期待に満ちた笑みのようなものが浮かんでいた。
ありえない話だと思うけれど、もしそれがありえると言うのなら――
「……そこで目が覚めたんじゃないか……?」
そう、答えた。
ビアンカは、この答えにどんな反応を示すのだろうか。事が事だけに、思わずつぶさに観察してしまう。
「うーん、やっぱりそうなるのか、面白いけどつまんない……」
ビアンカは、口の中でそう呟いていた。
眉根に皺を寄せて、また首を傾げている。
どうやら俺の答えは、ビアンカの期待していたものとは違ったらしい。
と、いうことだけはわかったが、それ以外のことはまるでわからなかった。俺の答えが正しかったのか間違っていたのかも、教えてもらえなかった。ひょっとしてビアンカは、夢の続きを見たのだろうか。だとしたらビアンカは、その後どうしたというのだろう。もしかして、ビアンカは――
「まあ、いっか」
その声と、同時にしっぽが引き寄せられる感覚で、はっと我に返った。
ビアンカが、俺のしっぽを胸に抱いている。
まあいっか、とは、つまりどういうことだろう。このしっぽで我慢するか、という意味なのだろうか。
いい加減尋ねてみようかとも思ったが、それよりも先にビアンカが口を開いたので、その言葉も飲み込んだ。
「ハルの言う通りだった」
赤い唇が、そう言って、楽し気な弧を描いた。
「俺の……?」
「そう。ハル、前に、猫のしっぽは良くない! 俺のしっぽの方が良い! って言ってたでしょ? 夢かもしれないけど、やっぱりハルのしっぽの方が良かった。やっぱり、これくらいふさふさがないと駄目。私の顔より大きくないと、困るし」
ぱふ、と音がして、ビアンカの声がくぐもり始めた。
「ハルのが一番。一番好き」
「……そうか」
思わず、ため息のような気の抜けた返事が出た。
良かった。心底安心した。向こうのしっぽの方が良いと言われても、俺にはどうしようもないから。
嫌な緊張が抜けてほっと一息ついてしまうと、それ以上、言葉が続かなかった。
ビアンカも静かになってしまって、今は、呼気が聞こえるだけだった。
「ビアンカ……寝たのか?」
「…………寝てない。ハル」
「なんだ?」
「ハル。ハルのが、ハルが、一番好き」
「ああ。……え?」
「オヤスミ」
ビアンカは、一際力強く俺のしっぽを抱きしめた後、取って付けたように寝息を立て始めた。
「え、ああ、オヤスミ……」
一拍遅れて、俺の黒灰色が揺れる。
慌ててすぐに動きを止めたけれど、そこに埋まった愛らしい頭頂部が、ふふ、とくすぐったそうに笑うのが聞こえた。
それからまた、規則正しい寝息が聞こえ始める。
どこか遠くで、小さな足音が遠ざかっていくのが聞こえた気がした。
二人きりでもそうでなくても、夢でも現実でも、俺はやっぱり幸せなのだろうと思った。
ボツ理由:ファンタジーが過ぎたから。あと、私の猫への造詣が浅浅だったから。
番外編、これにて完となります!
ありがとうございました!




