男女のよくある話
第二章後半以降の話。
純白の平面を汚すかのように、ナメクジの這い跡のような不快な文字が長々と綴られている。
「はあ?」
思わず声が漏れると共に、手にした書状の端がくしゃりと音を立てた。このままぐしゃぐしゃに丸めて、跡形もなくちぎって、踏みつぶしたい。
けれども、残念なことに、そういうわけにもいかなかった。
せめてもの抵抗として、乱暴に折りたたんだ後、書斎机へと放る。紙は滑らかな表面を意外なほど長く走って、断崖に差し掛かったところで武骨な手により拾い上げられた。
「で、どうなさいますか」
ライアンがため息交じりに尋ねる。
忌々しい紙片は、彼の手により、机のど真ん中に戻されていた。
「どうもこうも……あのクソジジイ……」
呟くように吐き捨てると、ライアンがまた一つため息をつくのが聞こえた。
八つ当たりだとわかってはいるが、そのため息ですらも、どうにも癇に障る。
口の悪い女だ、でも咎めたところで変わらない、と思っているに違いない。呆れと諦めとがないまぜになったような、重たいため息だった。
「はあ、もう……後で考える。ちょっと、気分転換してくる」
これ以上ここにいても、良いことにはならなそうだった。
無言のライアンを部屋に置いたまま、乱暴に扉を開ける。
と、そこに、ぬっと巨躯が現れた。
反射的にわずかにのけ反った後、遅れて、心臓がバクバクと波打ち始める。
前者は多分驚きによる生理反応で、後者は――明らかに緊張と動揺によるものだった。眼前にあるのが、古くから付き合いのある使用人であったなら、こうはならなかった。でも、実際にそこにあったのは、よりにもよってハルの体幹だった。
緩慢な動作で視線を持ち上げると、揺れる金の瞳と目が合った。ハルは、いつもの困ったような顔で私を見ていた。
「ビアンカに話があったんだが……後にした方が良いよな?」
その一言で、聞こえていなければ良い、という、私の淡い期待は儚く砕け散った。
一瞬のうちに、頭の中に様々な選択肢が浮かぶ。何事もなかったかのように話を続けるか、どこから聞いていたの? と尋ねるか、あるいは自分の方から笑い飛ばしてしまうか……。
随分前からぐちゃぐちゃになっている私の頭には、荷が勝ち過ぎていた。それでもどうにか選択し、口が動き始める。
「い、いつもはこんなんじゃないんだけど、昔の癖が出ちゃって!」
下手な言い訳が口をついて出て来て、全く笑えなかった。
「な、何がだ……?」
おまけに、案の定、ハルにも引かれた。
「……聞いていたんでしょう?」
あまりに情けなくて、泣きたくなってくる。
「いや、俺は、ほんの少し前に着いたところだから、何も……」
「……なら、どこから聞こえていたの?」
「あのクソジジイ、ってところから――」
「やっぱり聞こえていたんじゃない!」
かーっと頭に血が上る。
ぬか喜びしたせいで下がりかけていた体温が、一気に上がったようだった。頬が、燃えるように熱い。
「ビアンカ、わ、悪い、俺、また変なこと言ったか……?」
「別に! 口の悪い自分が恥ずかしくなっただけ!」
もう、ほとんど捨て鉢のような気分だった。
ハルは何も悪くないとわかっているけれども、自分を止められない。止まったら最後、羞恥で爆発しそうだった。
「……口が悪い? ビアンカの口は悪くないだろ……?」
けれども、不当な扱いを受けたはずの当のハルは、首を捻って、本気で理解できていなさそうな顔をしていた。
「ちょっと、ハル、本気で言ってるの?」
「もちろん、本気だけど……」
「……獣人の女性は、クソジジイ、とか普通に言うの……?」
「え? ああ……クソジジイをクソジジイって呼ぶくらいなら普通に……。口が悪い奴ってのはもっと……いや、ビアンカに聞かせられないくらい、ひどい。獣人じゃなくて、人間だけどな。とにかく、ビアンカの口は悪くなんかないし、全然恥ずかしくない」
「……そ、そうなの?」
「ああ、そうなんだ」
ハルが、自信満々に答える。
ハルがそう言うならそうなのかな、と思い始めたところで、ゴホン、と後ろから咳払いが聞こえた。
どうしてこの男の存在を忘れていたんだろう――。心臓がまた、変な感じにぎゅっと縮こまった。
「ビアンカ様」
その声に観念して振り向くと、ライアンがしかめ面でこちらを見ていた。
「貴族の振る舞いは、また別の話です」
ぐうの音も出ない。でも、今、言わなくても良いのに。
「わかってるわよ……」
「それから、ハルたちが来た日に、ハルの目の前で、奴隷商人のことを狸ジジイと呼んでいました」
「え」
だとしたら、数刻前まで全力で悶えていた自分の間抜けさったらない。
だけど、何故今それを言うのか。それこそ、自業自得というものだろうか。普段私にからかわれ過ぎて鬱憤が溜まっているであろうライアンは、ここぞとばかりに私を責め立ててくる。
「そうだった、かしら……?」
視線をうろうろと泳がせているうち、ハルと目が合った。
「狸ジジイも、口が悪いうちには入らないと思うぞ」
ハルの眼差しは、真剣だった。
そんな風に慰めてくれることが嬉しいはずなのに、後ろにライアンが控えているせいで素直に返事ができない。
「うう……気を付けます……」
やっぱり、これからは口に気をつけよう。
それから、ライアンをいじめすぎるのも、やめよう。
ハルと過ごす平穏な時間を守るためなのだ。私も本気を出さねばなるまい、と決意した。
ボツ理由:拭いきれない蛇足感。




