「恋人」が叱られる話
第二章後半以降の話。
「ふうん……」
顔は不動のまま、深緑の瞳だけが上方へと持ち上がり、次いでじわじわと下がっていく。そのねっとりとした視線は、俺の足元と思しき場所まで落ち切った後、正面へと戻ってきて動きを止めた。入れ替わるようにして今度は、その下にある赤い唇が、嘲りのようなものを浮かべて動き出す。
「あなたが、ビアンカさんの恋人、ねえ」
きょうだいとはこうも似るものなのか、と思う。容姿に関しては言うまでもないが、不躾な視線も、含みのある話し方も、ヘレンキース伯爵のそれとそっくりだった。
その女は、「うーん、駄目」と言って、頭を横に振った。
「私に変なおべっかを使わないことは評価してあげるけど、でもやっぱり、愛する人に、可愛い、の一言も言えない時点で失格」
「……は?」
失格……? わけがわからない。
そもそも、ヘレンキース伯爵の姉とかいう、俺とは何の関係も無さそうな人物に突然呼び出された時点で、意味がわからなかった。行って話を聞けば目的がわかるかと思ったが、そんなこともなく、今尚判然としない。一体俺は、何に付き合わされているのだろう。
俺の反応は至極真っ当だと思ったが、対峙する女は不満そうに顔を歪めた。
「は、じゃないわよ。あなた、恋人に可愛いとか愛してるとか言わない人なんでしょう」
「は? 何を――」
「誤魔化さないで。ビアンカさん本人に聞いたのよ」
――あの時の話か。ビアンカの名前を出された途端、すぐに思い至った。
俺にとっては戒めのような出来事だった。だからこそ、その記憶は今も頭の浅いところでたゆたっている。
あの晩、ヘレンキース家の馬車で帰って来たビアンカは、アルコールの匂いを漂わせる唇を震わせて、「アメリ様は可愛いって言ってくれたのに、なんでハルは怒るの?」と悲しそうに言った。俺のことを、「普段褒めてくれない恋人」と呼んですらいた。きっとその日の昼間に、それまでの俺の失態が、アメリ様――つまり、目の前のこの女に伝わってしまったのだろう。
「……今は、言ってる」
少なからず後ろ暗いところがあるからだろうか、手に変な汗が滲んだ。
「今は? ふーん。じゃあ、何て言っているの?」
「だから、それは、可愛いって言ってる」
「なんだかチープね。そもそも、あなたはビアンカさんのことどう思っているの? どこがどう可愛いの? 私にもわかるように教えて」
「どこがどうって……どこをどう見ても可愛いと思うが」
「どこをどう見ても?」
女は、唇の端を持ち上げて、俺の言葉を繰り返した。
俺の説明の下手さを笑ったのか、あるいは俺の気持ちに疑いを向けているのか、判別がつかなかった。
いずれにせよ、そこに浮かんでいたのは不快感を煽る嘲笑だった。
「ま、たしかに可愛いわよね。あの、オレンジのドレスを着ている姿も良かったわよね?」
「……言っておくが、派手なドレスを着ていなくたって、いつだってビアンカは可愛い。地味な服を着て仕事をしている時だって可愛いし、車の中でうとうとしている姿だって可愛い」
「へえ? そう言えば、お酒に弱いところも可愛いわよねえ、彼女」
お望み通り説明してやったというのに、そのことに対しては何も返さず、代わりに妙な笑みを浮かべて、挑発的な言葉を返してきた。
胸に、もやもやとしたものが立ち込める。
「弱いから何だ。ビアンカが可愛いのは、酔いやすいからじゃない。怒って本音を口にする時とか、俺に甘えて抱き着いてくる時、すごく可愛いんだ」
ビアンカが酒に弱いことは間違いないが、酔って正体を失う程ではない。どんなに酔っていたとしても、この女のように身分の高い人間には、礼儀正しくあろうとしているに違いない。この女は、酔ったビアンカの本当に可愛い姿を知っているはずもない。
「ぷっ」
「……」
今度は何だ、と思っているうちに、女はアハハハと笑いだした。
「何でそんなに必死なの?」
「何でって……」
「ビアンカさんが侮辱されていると思った? ……って感じともちょっと違ったわよねえ? ひょっとして、私に嫉妬していたのかしら?」
「……」
俺が黙っていると、女はまた、クスクスと笑い始めた。
「ごめんなさいね、あなたの可愛い恋人とデートしてしまって」
それから唐突に、「面白いから及第点にしてあげようかしら。ほら、早く、座ってちょうだい」と俺に席を勧め始めた。
意味がわからない。キュウダイテンだか何だか知らないけれど、そんなのどうでも良い。それよりも早く、こんなわけのわからない場所を出たい。早くビアンカのところに帰してくれ……。
俺の願いを知ってか知らでか、女は勝手に席につくと、のんびりと茶を啜り始めた。
■■■
コンコン、とノックの音がした。
「失礼します」
全身にぶわ、と熱いものが湧きあがる。俺は、この声を、どれ程待ちわびていたことだろう。
けれどもその声の主――ビアンカは、「ハルを――」と言ったところで、びくりと体を震わせて言葉を飲み込んだ。
俺が急に立ち上がったことで、驚かせしまったようだった。
俺と目が合ったビアンカは、何かを察したように瞳に何とも言えない色を浮かべた。でも、すぐに視線を逸らし、「ハルを迎えに来ました」と言い直した。
言われた女は、クスクスと笑っている。
「さすが、時間ぴったりね。じゃあ、三人でお茶でもしましょうか?」
「え」
「は?」
ビアンカは俺を「迎えに来た」のだ。なのに。
誰一人合意していないというのに、この身分の高い女は、そんなことにはお構いなしのようだった。
これ見よがしに、ビアンカの小さな手を握ると、俺の方へと引っ張ってきた。
「あら、ごめんなさい。うっかり、あなたの可愛い可愛い恋人の手を握ってしまったわ」
無邪気にも見える笑顔を浮かべていたが、それも束の間のことで、俺を見ながらまたアハハハと笑い始めた。
「ア、アメリ様……?」
ビアンカが戸惑ったように、俺とその人の顔を見比べている。
女は――いつまで笑っているんだ、と思ったが、やがてその哄笑は緩やかな微笑みへと切り替わった。
「うーん、残念だけど、ビアンカさんを妹にするのは諦めようかしら。カレルは良い男だけど、こんな風にはなれないものねえ」
「え、っと……」
「私も旦那さんが恋しくなってきたし、もう帰るわ」
最後は呆気ない程唐突に、別れの言葉を切り出された。また突拍子のない言葉で不意打ちされるのではないかと警戒していたが、彼女は「お幸せにー」という言葉をだけを残して、そのまま去って行った。
置いてけぼりにされた俺たちは、目を見合わせてしばし沈黙した。
「えっと……アメリ様と何の話をしていたの?」
ビアンカが、幾分気まずそうに口を開いた。
「それは……」
……結局、何の話だったんだ……?
「ビアンカが可愛い、って話しかしていないな……?」
首を捻りながら返すと、ビアンカは「え!?」と言って固まってしまった。
「変なことは言ってないぞ……?」
「十分変よ! なにも、アメリ様の前で……」
「だけど、俺は本当にビアンカのことをかわ――」
「わ、わかったから! 早く帰りましょう!」
――言いたいのに、言わせてもらえなかった。
アメリ様とやらに「かわいい恋人」と呼ばれた時は、言われるがままだったのに。こんな反応、していなかったのに――……?
「ハル? 何笑ってるの?」
「ここで言ったら駄目らしいから、屋敷に戻ってからたっぷり伝える」
それしか言わなかったというのに、ビアンカは「もう、いいから!」と言ってぷいと顔を背けてしまった。
――やっぱり、どこをどう見ても可愛い。
赤くなって不貞腐れるビアンカを見ながら、そう思った。
ボツ理由:遠い場所に住んでいる辺境伯夫人(アメリ様)が、そう頻繁にやって来るはずもないから。




