子爵の(彼への)復讐
前話の続き。
この状況に、喜びさえも感じる。
頭を打ち付け大量の血を流したものだから、どこかおかしくなってしまったのかもしれない。
――いや、違う。俺は、最初からずっとこうだった。ずっと、この首をねじ切ることを望んでいたのだ。この上官――もとい、人間のクズの首を。
そこで過ごした日々は、ほんの少し思い出しただけで、反吐が出そうになる。それでもあの頃の俺たちは、必死に耐えて、どうにか毎日を乗り越えていた。
食事を減らされても、耐えた。
殴られても、耐えた。
何をされても、黙って額突き、従った。
俺たちよりももっと辛い状況にある獣人は、ごまんといる。
だからこそ、泣き言を言う気にもなれなかった。
けれども、俺たちは、捨てられた。
俺とガロを囮にして、あいつらは逃げた。笑いながら逃げた。
あの時、俺たちがどれ程の目にあったのか、あいつらは知らないだろう。
知らないだろうが、知っていたとしても、こいつは腹を抱えて笑うに違いない。そういう腐った人間だった。
きっと、同じような目に遭うまで、俺たちの気持ちなんて、わからない。同じような目に遭わせないと、この先ずっと獣人を虐げながら生き永らえるに違いない。
片手で襟首を持ち、片手をその首にかける。存外に細い首だった。
「う……」
奴が、小さく唸り声を上げる。
「なんだ? 命乞いをするのか? 額づくか?」
「や、やめ……」
小刻みな震えが、両手に伝わって来る。
今、こいつの命は、完全に俺の手の内にあった。
少し力を入れればすぐに、息絶えるのだろう。
細い首だった。花の芳香が漂っていて、これが戦場に生きる男の首だろうかと、微かな疑念が頭をもたげる。
そのせいなのか、何なのか、いざその気になっても、首にかけた右手には僅かな力も入らない。頭の芯が痺れているようだった。脳がどこかおかしくなって、神経がちぎれてしまったかのように、指が動かない。なぶるように首を撫ぜるだけで、それ以上のことができない。
「や、やめて、お父さん……」
その薄茶の瞳から雫が落ち、つう、と頬に一筋の線を描いた。
今更涙なんて、と思う。
何で、涙なんて、と思う。
何で、泣いているんだ。
何で、彼女は、俺の腕の中で苦しんでいるんだ――?
「ビアンカ……?」
「わ、私が悪かったから……」
「な、なんで……」
信じられない気持ちだった。何が起こったか、わからない。
茫然とした後、はっと自身の状態に気が付き、慌ててビアンカの体を床に下ろした。
ビアンカの状態を確かめようと、覗き込む。ビアンカは、「うう……」と尚も苦し気に喘ぎ、濁った目はどこか遠くを見ている有様だった。息を呑み、必死にその肩を叩く。
「ビアンカ、目を覚ましてくれ、ビアンカ!」
「う……」
「ビアンカ、俺だ、ハルだ。戻って来てくれ……!」
「ハ……ル……?」
淀んでいた瞳が焦点を取り戻し、ゆっくりと俺の方を見た。ビアンカは、目を見開いたまま、ぜいぜいと肩で息をしている。
背中に腕を差し入れてゆっくりと起こしてやると、その双眸に溜まっていた涙がぽろりと零れ落ちた。
「あ、私……」
ビアンカが茫然としたような表情で、頬を拭う。
「ご、ごめんなさい、私が――」
「なんで、ビアンカが謝るんだ。ビアンカは何も悪くない」
俺の、せいだ。俺が先に、負けたのだ。
あんな風に簡単に、過去に呑まれたりして。ハイム子爵の思い通りに踊らされたりして。
ビアンカをろくに守ることもできず、それどころか、傷付けるところだった。
「ビアンカ、今度こそ俺がどうにかするから、少しだけ、待っていてくれ」
立ち上がり、忌々しい窓へと歩み寄る。
俺たちを閉じ込めるために用意された、分厚く固いガラスなのだろう。でも、そんなことは関係なかった。
渾身の力で拳を叩き込めば、いとも簡単に、あっけなく砕け散った。
「ハル!? 大丈夫!?」
ビアンカが焦ったような声を上げて、駆け寄ってきた。
血が滲む俺の拳を見つめている。
「別に、これくらい」
――これくらい、ビアンカのためならば何ともない。
あの時の俺は、どうしてあんなにも無力で弱かったのだろう。
こんな壁一つ壊せない自分に、もう二度と戻ったりはしない。
ボツ理由:前話に同じ。あと、状況がファンタジーが過ぎたから。この部屋がどこの何なのかは不明。




