子爵の(彼女への)復讐
第一章後半の話。
ハイム子爵という男は、なかなかどうして馬鹿な男だと思う。
一度目の襲来の時は、ハルたちを犯罪者に仕立て上げようと、屋敷前で馬鹿みたいに大騒ぎしていた。もとを正せばヘレンキース伯爵の差し金ではあったようだけど、あれほど杜撰で穴だらけの筋立てが、かの鬼才の考案であるはずがない。ハイム子爵のやり様は、発案者が余程の馬鹿なのか、そうでなければ、私のことを大うつけだと侮っているのだろう、と思わせるものだった。
愚かなハイム子爵は、再度来襲し、今度は鉱山に火を放った。生憎、その罪が表沙汰になることはなかった。彼は今も社交界にいる。でも、ヘレンキース伯爵には相当しぼられたに違いない。彼らの間にあった生ぬるい空気は冷え切り、ハイム子爵は居心地悪そうにしていることが多くなった。
所詮は虎の威を借るだけの馬鹿な男だったのだ。そう思った。
その所感は、多分、間違ってはいない。けれども、もっと深掘りしておけば、別の側面も見えていたのだろう。
この男は、虎の関心を独占したいがために別の狐を排除する愚者だった。そのことに気が付く前に、三度目の事件が起こった。
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足を踏み入れた直後のことだった。
ガチャン、という音がして、その空き部屋は一瞬のうちに密室となった。
振り向くと、分厚いガラス板の向こうで、男が老獪な笑みを浮かべている。
嵌められたのだ――そう気が付き、警戒を怠った数刻前の自分を呪いたくなった。
プシュ、と聞きなれない音がした。
音のもとを探して頭を回らせれば、部屋の上部から、紫煙のような濃い靄が注がれ始めているのが目に映る。
それが何だかわからないのに、いや、わからないからこそ、一瞬にして、得体の知れない恐怖に心が蝕まれた。絶望にも近かった。
私とハルは、ここで死ぬのだろうか――。
その時、バン! と肩に大きな衝撃を感じた。
「ビアンカ! 俺が窓を破るから、ビアンカは向こうの端にいてくれ! なるべく端の空気を吸うんだ」
ハルが私の肩を揺さぶって、私に話しかけていた。
鼻の奥がツンと痛む。その場所を掌で押さえ、「わかったわ」と言った。
ハルがこくりと頷いて、背を向ける。幾分か冷静さを取り戻した頭の隅で、もっと気の利いたことが言いたかった、と思った。
けれどもそんな言葉を持ちえない私は、部屋の隅に下がり、ハルのすることを見守る以外にできることがなかった。
丸腰のままガラス板に対峙するハルの背を、ただただ見つめるだけ。ハルは、拳か肘かを使って、窓を割り破るつもりなのだろうか。それで、体の方を壊したりしないだろうか、そんな風にただただ心配するだけ――。
少し、苦しくなってきた。一旦、ハルに背を向け、部屋の角でこわごわと小さく息を吸う。それからもう一度、ハルを振り返った。
ハルは――
私を見ていた。金色に、メラメラと燃えるような瞳で、真っすぐに私のこと見据えていた。グヴゥ……と聞きなれない音が響く。
「よくも、やってくれたな……」
「ハル……? どうしたの――」
「どうしたって!? お前がやったんだろ!?」
ハルの口から出たとは思えない、怒りに満ちた咆哮だった。
初めて出逢った時でさえ、これ程の憎悪の念を滲ませてはいなかっただろう。たがが外れてしまった、とか、そんなかわいいものではなかった。ハルは、ほとんど狂ってしまったかのような表情を見せていた。
「落ち着いて、ハル、私が一体何をしたって――」
「お前が俺をここに連れて来たんだろ!」
ドガン!
空気を揺らすような音がして、びくりと体が竦んだ。
ハルが、後ろ手にガラスを殴った音だった。
こんなにも大きな音がしたというのに、ガラスには、傷一つ入っていない。けれども、既に、ハルの関心はそこにはないようだった。
拍動が速くなり、呼吸が乱れる。両手で口を押さえるが、そうしたところで平静を保つのは難しかった。
「いつだって、お前のせいで――」
男が、じりじりと、こちらに近付いて来る。
血走った眼は、見慣れたものだった。大股で歩き、その行く道にある物を、何の気なしに蹴飛ばす。ガシャンと音を立てて空瓶の欠片が散らばる。それを後で誰が片付けるだとか、そんなことは、この男にとってはどうでも良いことなのだ。
「全部、お前らのせいだ! あいつが男児を産んでいれば、こんな面倒臭いことにならなかった!」
右手が薙ぎ払われ、書類が辺りに散らばった。
「俺が悪いのか? 違うだろう? お前が悪い。あいつがろくな人生を歩めなかったのも、全部お前が女だったせいだ」
違う、こんなはずじゃない。
宥めようと思うけれども、声が出ない。
どんなに駄目な父親だとしても、妻子を殴ることだけはなかったはずだ。――本当に?
今、この男の両手は、私の襟元を掴んでいるというのに、本当に私の認識が正しいと言える? 私が殺されないと、そう言える?
ボツ理由:ヘレンキース伯爵の警告を無視して三度復讐を実行できる程、子爵の肝は座っていなかったから。
次話に続きます。




