地下室の秘密
第二章後半以降の話。
「お酒が飲みたい……」
ふいに、小さな呟きが聞こえた。そちらに目を向けて見れば、ビアンカは何もない空間をぼんやりと見ている。ここには俺とビアンカの他には誰もいない。俺に話しかけていないのだとしたら、ただの独り言なのだろう。
――と、思ったけれども。
突如、ビアンカの顔が勢いよく俺の方へと向きなおった。
「ハルはお酒、飲むの?」
「え、おれか? おれは……」
キラキラとした目には、明らかな期待が浮かんでいる。
「ど、どちらでも……」
返事にもなっていないような返事を曖昧に返したけれども、ビアンカは嬉しそうに頷いて、「じゃあ、とっておきを準備しないとね」と言って、下へと続く階段を目指したのだった。
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――何故、こんなところに。
ちらりと斜め下を見る。薄暗い中でも、ビアンカが楽しそうな微笑を浮かべていることがわかった。
ビアンカにとっては、馴染み深い場所なのだろう。でも、俺にとっては、そうではない。
俺がここに来たのは、過去の一度きりだ。
来た、というか、閉じ込められた、というか――。
今となっては、あの出来事も大切な思い出の一つのように思えているが、それとこれとは別――つまり、かつて俺が地下室で経験した出来事と、俺がこの場所に覚える忌避感とは全く別の問題だった。
「キーリー商会は、今でこそ、魔石関連の事業をしているけれど」
ビアンカが、話を始めた。ああ、と相槌を打ちつつも、なかなか会話に集中できない。
何故、ここはこうなのだろう。
相変わらず、冷え冷えとして、そして、何より臭い。清潔に保たれた屋敷の中で、地下だけが異様な空気を漂わせている。
獣人なら誰しも、この場所を嫌悪するのではないだろうか。耳も、鼻も、ろくに利かない。
「一昔前までワインを扱う商会で、それで――う、わあああ!」
突然、何の前触れもなく、ビアンカの閑話が悲鳴に変わった。反射的にビアンカを抱き寄せようと腕を伸ばす。が、それよりも先に、柔らかい肢体が俺の体に巻きついていた。ふわりと花の匂いが舞う。
「……!」
誰だ、と声に出す寸でのところで、その言葉を飲み込む。
どこからともなく薄暗い通路に現れたのは――ライアンだった。目の当たりにするまで気が付かないだなんて、鼻が全く機能していない証拠だった。それほどまでに、あたりに漂う腐臭がきつい。否、ライアンこそが腐臭の発生源のように感じる。腕に見慣れないものを抱えているようだが、ひょっとして、それが腐敗しているのだろうか。
「ラ、ライアン!?」
「……すみません。驚かせるつもりはなかったのですが」
「驚いたというか……どうして真っ暗な部屋から出て来るのよ」
そう言いながらビアンカは、俺からぱっと身を離し、廊下の片側にぽかりと口を開けている空間を忌々しげに見つめた。
どうやらビアンカは、小部屋の暗がりに佇んでいた人影に驚いたようだった。驚くのも無理がないだろう。その部屋は完全ながらんどうで、そんな場所に用のある人間がいるだなんて、誰も思うまい。扉は最初から開いていたが、ビアンカの反応から察するに、普段から開け放たれているものなのかもしれない。
「いえ、会話の邪魔をしないように、と思いまして」
答えるライアンの目が、一瞬俺の方を向いた。
「何それ……。まあ、いいけど……それは、ワインとチーズ?」
「はい、そう言うことなので……、お先に失礼します」
ライアンは、瞬く間に俺たちの横をすり抜け、そそくさと去ってしまった。
「ああ、うん……私たちも行きましょう」
言うや否や、ビアンカは俺の前腕を掴んだ。そのまま、通路の奥を目指し始める。。
「それで、何の話をしていたんだっけ」
「商会が、何とか……」
「そうだっけ……何の話をしようとしていたんだっけ……」
驚きのあまり、会話の内容を忘れてしまったのだろうか。
数分前の、怯えた小動物のようなビアンカの姿を思い出す。そのビアンカは今、声こそ平静に聞こえるものの、俺の腕をがしりと掴む掌には、尚も緊張感が滲んでいるように感じられた。
そのいじらしさが、なんとも可愛い。抱きしめて――もとい、抱き上げて目的地まで連れて行きたかったが、肝心の目的地を知らなかったので、諦めた。
それに、腕は空けておいた方が良い。こんな、五感が働かない場所では。そういえば――
「なあ、ビアンカ。ドグマのチーズは、あんなに臭いものなのか? あれ、腐っていないか?」
「ああ、あのチーズね……。そうなのよね……。ライアンは、腐った臭いチーズが好きみたい。あのチーズ、前に色々あって……屋敷のあちこちが臭くなったことがあって、それ以来、地下室の冷蔵庫を使わせているの。あ、そう、それ思い出した、地下室には大きなワインセラーと、おつまみ用の冷蔵庫があるのよ、って説明したかったんだった」
なんとなく翳っていたビアンカの表情に、ほのかな明かりが灯ったように見えた。
■■■
赤ら顔のビアンカが言うことには――。
「最近、ライアンが一緒に飲んでくれない」らしい。
「酒を控える年頃なのかな」と思いきや「隠れてちゃっかり飲んでいるんじゃない!」とかなんとか。
くだを巻くビアンカは、確かに虫の居所が悪そうに見えた。けれども、ほんの一瞬目を離した隙に、ふふふ、と唄うように笑い始めていた。手にしたコップに向かって、「でもハルが一緒に飲んでくれたもんね」と話しかけている。
思わず、ライアンと飲んでいる時もこんな感じなのか? と尋ねると、「こんな感じって、どんな感じよ」とむくれて、俺のしっぽに顔を隠してしまった。
しまった、失言だったか……。ひやひやとしたものを感じたのも束の間、しっぽの中からは相変わらず、楽しそうな吐息が聞こえていて、そっと胸を撫でおろした。何が可笑しいのか、くすくすと笑いながら「ハルはザルだけど、チーズはきらい」と唱えている。
よくわからないけれど、それが何故か無性に可愛くて。自分のしっぽごと抱きしめてみたら、「わあ! 酔ってんの!?」と言われた。
かもな、と返すと、火照った顔はぷいとそっぽを向いてしまった。かと思いきや、「嘘ばっかり」と呟きながら、俺のコップにドボドボとワインを注いでいる。
ごくごくと飲み干してみせれば「ザル、ずるい……」とぼやいて、また可愛い仕草をする。俺は、それを見て、可愛い、と思う。
そんなことを繰り返していた。
――酔っている人間に限って「酔っていない」と言い張るものだ、と聞いたことがある。その通りだと思う。一晩寝て朝を迎えた後、ようやく前夜の己を顧みることになるのだ。
爽やかな朝日が差し込む部屋の片隅、大量の「とっておき」の空瓶を前にしたビアンカは、「楽しいことには代償が伴う……」と悲し気に呟いている。
通りかかったライアンには、冷ややかな視線を浴びせられた。
昨晩の俺は、酔っていた。酔わされていた。酒なんかよりも、ビアンカによっぽど。
もっと慎むべきだった。反省しなければならない。そう思うのに、隣でビアンカが「でも、楽しかったから仕方ないわよね?」といたずらっぽく笑うのを見ていると、ちょっと自信がなくなった。
ボツ理由:タイミングを逸した。
どこかで、怪しい地下室じゃないよ! ということを説明したかったけれど、これも差し込む場所がなかったので、ここで供養。




