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好色男爵と獰猛獣人  作者: 亥口一人
番外編
132/139

熱が出た日の(昔)話

第二章後半以降の話。

「――……」

「――……」

 

 唐突に額に触れるものを感じ、びくりと身をすくめた。

 幾許いくばくか目の焦点を彷徨わせた後、すぐそこにユーリの顔があることに気が付く。

 ユーリが目の前にいて、私の額に手を添えているのだと、わかった。

 

「おい、何しているんだ! ユーリ!」

「何って、熱を測っているんだ」

「はあ? 熱を測る?」

「人間はこうやって熱を測るんだ。そうだろ? ビアンカ」

 

 ユーリは得意げに、口の端を持ち上げていた。

 

「そうだけど……。でも、ユーリ、私、熱なんてないわよ……?」

「自分でわからないから、こうやって他人に測らせるんだろ?」

 

 ……そうなのだろうか? 自分の掌では測れないものなのだっけ? よくわからない。

 ぼんやりと考えていると、ふと、視界がかげったように感じた。

 のろのろと顔を持ち上げる。いつの間にやって来たのか、ハルがユーリの隣に立っていた。大きな図体は、逆光のせいなのか、黒く揺らめいて見える。その上、厳めしい顔で私のことを見下ろしているものだから、何だか妙な威圧感を放っているように感じられた。

 

「本当なのか? ビアンカ」

「うーん、額で熱を測ることは確かだけど……」

 

 続く言葉の真偽を検討しながら、歯切れ悪く答えると、ユーリが、ふふん、と鼻を鳴らした。

 

「ま、ビアンカもそんなに経験がないみたいだな。何せ、ビアンカが初めて熱を測ったのは、俺だもんな」

「それ、いつのことだ」

 

 ハルが、食い気味に尋ねた。

 

「ハルが一人で鉱山で働き始めた時だな」

 

 ユーリも、間髪入れずに答える。

 ハルは眉間に皺を寄せ、沈黙した。

 そんなハルを見て、ユーリは楽しそうな笑顔を浮かべた。

 

「ま、今のハルの立場がどうあれ、俺が初めての男ってのは、今更変えようがねーもんな」

「…………違う」

「何が違うんだ?」

「それより前に、ビアンカは俺の熱を測ろうとしていた」

「はあ? 俺が初めてだって、ビアンカ自身が言ってたんだぞ」

「違う、お前が初めてじゃない」

「じゃあ、お前はいつ熱を出したって言うんだよ」

「それは……」

 

 ハルは、険しい表情のまま、私の方に視線を寄越した。

 それから、刻まれた眉間の皺はそのままに、眉尻を引き下げた。ひょっとして、わざとそんな表情を浮かべているのだろうか。そう思えてしまうくらいに、複雑で器用にすら見える表情だった。会話の内容もちぐはぐだったから、余計にそう思えてしまうのかもしれない。

 

「……初めて商館に入った日だ」

 

 渋々、とも呼べるような口調で、ハルが答えた。

 ハルが初めて商館に入った日――。

 それは、とんでもなく濃い一日だったはずだ。忘れようもないことが沢山起きたような気もするし、全てを覚えていられない程沢山のことが起こっていたような気もする。

 

「はあ? その日熱なんて出してなかっただろ。それとも、俺に殴られて熱を出したとでも言うのか」

「お前に殴られたくらいで、どうにかなるわけないだろ」

「じゃあ、いつだよ」

「お前に殴られる前だよ」

「だから、その時熱なんて出てなかっただろ」

「出てなかったけど、ビアンカには、熱があるように見えたんだろ」

「はあ? 何だそれ? 偶然手がぶつかっただけなんじゃねえの? ビアンカだって覚えてないんだろ?」

「え? うーん……そうね……結構前の話だし……」

 

 突然話を振られて、なんとなくどぎまぎする。

 ハルがはっきりと答えたのだから、多分、それらしきことが起こったのだろうとは思うが、私はまだその場面に思い至ることができずにいた。

 

「いや、俺が熱を出したのは、商館に入った日から何日も経っていない頃だったと思うぜ? ビアンカは、その時俺に、初めて人の熱を測ったわー、って言ったんだ。ハルの妄言が事実だったら、ビアンカはほんの数日で初体験を忘れたってことになるぜ?」

「そうねえ……言われてみれば……」

「……なら、もういい」

「なんだ、拗ねたのか」

「別に。無理に思い出させることでもないからな」

 

 ハルが澄ました顔で返すと、ユーリはつまらなそうに「ふーん」と言った。

 けれども、その澄まし顔は、十秒と持たなかった。

 

「……で、お前はいつまで熱を測っているんだ。そんなに時間がかかるもんなのか」

「さあ? 俺も初めてだから、よくわからねー。何秒あてれば、わかるもんなんだ? ビアンカ」

「そうね……五秒くらいなんじゃないかしら……」

 

 答えるやいなや、体がふわりと浮き上がり「わあ!」と声を上げてしまう。

 

「ユーリは当てにならないことがわかったから、部屋に戻ろう」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 本当に熱なんてないって! ただちょっとぼーっとしていただけだから!」

「部屋でマリーに測ってもらって、問題なければ戻ってくれば良い」

 

 ハルは聞く耳を持たなかった。

 すたすたと歩き去り、後には、嫉妬してるだけだろーが、という小さな呟きだけが残された。

 

 

 ■■■

 

 

 ハルの部屋の真ん中で、ハルが木偶の坊みたいに突っ立っている。

 暑くもない部屋で汗を流し、血走った目で私を見ている。

 その額に、横倒しにした掌を押し付け――「あれ?」と声が出た。

 何ヶ月か前の言い争いと、それ以前の出来事が、今更脳裏によぎる。

 

「私の思い違いだったみたい……」

「だから言っただろ、俺は熱なんて出さない」

「そうじゃなくって……、私が初めて熱を測った人、ハルだったみたい……」

「え……ああ……」

 

 ハルは気まずそうに、目を逸らした。

 ――その姿が、記憶の中のハルと重なるからだろうか、曖昧だった記憶はますます鮮やかに蘇るようだった。

 

 あの日のハルは、悪夢の中にいるような気分だったのだろう。目の前にいる女は、好色家の痴女で、高慢で暴力的な貴族で、その上自分の仲間がどこにいるのかもわからなくて。きっと、緊張と不安に塗れていたに違いない。その様が、私の目にはひどく体調が悪そうに映ったのだ。

 だから私は、ハルの額に手を伸ばした。

 でも多分、その時間は一秒にも満たなかったように思う。すぐにハルに押し倒されて、その印象が強すぎて、熱を測ろうとしたことなんて、その日の記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

 

「……」

「……」

 

 何とも言えない沈黙が落ちる。

 でもそのうち、「はあ……」とため息のようなものが聞こえて、ハルに抱き寄せられた。

 ハルの熱い胸板に、私の額がぶつかる。

 

「思い出して欲しいような、思い出して欲しくないような、複雑な気分だった……」

 

 そうでしょうね、と思えばこそ、何と返すべきかわからない。でも、なんとなく笑ってしまった。

 

「笑わないでくれ……」

 

 ほんの少しの罪悪感を感じつつ、ハルを見上げる。

 ハルは、赤らんだ顔に困惑した表情を浮かべて、明後日の方向を見ていた。

 

「ハル、やっぱり顔赤い。ちゃんと休んだ方が良いわよ」

 

 と言うと、ハルは、

 

「そうだな……」

 

 と言いながらも、しばらくの間腕を解いてくれなかった。

ボツ理由:タイミングを逸した。


どこかで、この矛盾を説明したかったけれど、差し込む場所がなかったので、ここで供養。

オチはない。

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