優しい獣人と泣き虫な男爵
俺は、何を言っているのだろう。
それに、どこへ向かって歩いているのだろう。
人気のない建物の裏、ふと足を止めたところに、ビアンカの声が返ってきた。
「そんな……嫉妬の仕方もあるんだ」
ビアンカは、心底不思議そうに、俺の顔をまじまじと見ていた。
自分でも、ちょっとおかしいと思う。
情けなくて、三角耳がへなへなと芯を失いそうになる。
「……でもそういうのが、ヘタレで狂暴な馬鹿だっていうなら、ハルは、ヘタレで狂暴な馬鹿のままでいいと思う」
「なんだ、それ……」
「本当よ。だって、ハルがそういう風になるのは、いつも誰かを守るためじゃない。それって、ハルが優しいからだと思うし、それに……なんか、なんというか……」
「……なんだ?」
「その……、ハルは私のことを想ってくれているんだろうなー、って思って、嬉しい……から」
ビアンカのことを想って――……。
もちろん俺は、いつもビアンカのことを考えている。ビアンカのことを大切にしている。
けれども、深紅の唇から紡がれたその言葉は、もっと甘美な響きを持っていた。
俺にしなだれ掛かった、その白い頬がにわかに染まっていくのを見て、憶測は確信へと変わっていく。
――俺がビアンカをどうしようもなく愛してしまっていること――ビアンカは、そのことを嬉しい、と言っているのだ。
「……本当に優しいのは、ビアンカの方だ」
俺たちの出会いは、あんなにも最悪なものだったのに。
俺はビアンカを好色家の悪徳貴族と決めつけて、その喉元に、爪を突き立てようとした。
押し倒してキスもした。
考えなしにガロに殴りかかったこともあったし、何度もビアンカを失望させた。
見た目だってやってることだって、狂暴な獣人でしかなかった。
狂暴な獣人に好かれて、嬉しいはずがない。
なのにビアンカは、頬を染めて、嬉しい、だなんて言う。
それは、彼女が好色家だから、という理由では決してない。
彼女の温かな心が、そういう規格外な行動を許しているのだ。
ビアンカは、俺の外身も、その内側にあるものも、過去も、未来も、全部ひっくるめて受け入れてくれた。こんな俺のために、心を砕いてくれた。優しい言葉や表情とは違う、本当の優しさを俺に教えてくれた。
そんなビアンカに、魅かれずにいられるはずもなかった。
「本当のビアンカを知ったら、きっとみんな……ビアンカのことを好きになってしまう」
「……本当の私、ね……」
ビアンカが、ぽつりと呟くように言った。
目はわずかに伏せられていて、白さを取り戻しつつある頬に薄く睫毛の影を落としている。
その表情がどういった気持ちによるものなのか、わからなかった。
しがみつくように首に回されていた腕から、一層強張ったような力を感じ、じっと行く末を見つめていると、そのうち目があった。
色素の薄い瞳の中で、頭に耳を生やした男が情けない顔をしている。
けれどもその姿は一瞬にして掻き消え、ビアンカの視線は、俺の首元を彷徨い始めた。そのままビアンカは、再び口を開いた。
「そんなことには、ならないと思うよ。……だって、本当の私って、ただの泣き虫でわがままな平民上がりの女じゃない。そういう弱くて子供っぽいところを誰かに曝け出すつもりもなかったし、誰も気付かなかった。でも、ハルだけが、気付いたのよ。ハルだけが、私が傷ついているんじゃないかって心配してくれて、慰めてくれて、泣いても良いって言ってくれた。私は、ハルの前でだけ、泣いたり、声を荒げたりできる。だから……っ、う、ちょっと待って……なんか、な、泣きそうになってきた……」
段々とか細くなっていった声は、今や完全に震えていた。
瞳は涙を湛え、キラキラと輝いているようにすら見える。そこには、確かな感情が浮かんでいた。
「……泣いていいぞ」
言うや否や、ビアンカは、俺の肩に顔を埋めた。小さくなって、俺の身体に全てを預けている。
それは、ビアンカが言うところの「弱くて子供っぽい」姿だった。俺だけに曝け出してくれる姿だった。ビアンカがどんなに大量の涙を流そうと、弱音を零そうと、俺が全て受け止めよう、と思った。
けれども、今日のビアンカは、随分と静かだった。
聞こえてくるのは小さな吐息ばかりで、シャツを濡らす涙でさえも、控えめに感じる。
もっと遠慮せずに、泣いて良いのに。そう思って、彼女を抱く腕にぎゅっと力を込めたところに、震える声が返ってきた。
「だ、だから……、誰が私のことを好きだと言ったとしても、本当の私をずっと好きだって言ってくれる人は、ハルだけ、だから……っ」
ビアンカは、そのままならないたどたどしい口調で、それでも一生懸命に伝えてくれている。
そう気が付けば、その頬を伝う涙は不思議なくらい温かで、俺の胸に、どこまでも染み渡るように感じられた。
「そうだな。泣き虫なビアンカを知っているのは、俺だけだ。だから、ビアンカを慰められるのも俺だけだ」
ビアンカは唇を引き結び、頭だけでこくこくと頷いた。
「だから、ビアンカを幸せにするのも俺だ」
ビアンカが、また頷く。
「ビアンカのことを一番好きなのも、俺だ」
「ハ、ハル……、もういい……っ」
突然、ビアンカが声を上げた。
「いいって、何が……」
「もう、言わないで。私、この後私仕事だから、あんまり泣けないの……っ」
慌てて尋ねたところに、ビアンカが答えを返してきた。
上目遣いで俺を見るビアンカは、泣き腫らした、とまでは呼べない程度に顔のあちこちを赤らめて、口をへの字に曲げていた。
ビアンカの言う通りだ。こんなビアンカを、他の人に見せてやることなどない。
「わかった、じゃあ、もうやめる」
そう言うと、ビアンカはまた、こくこくと頷いた。
俺の腕の中で、小さくなっているビアンカは、すごく可愛い。
「でも、消毒だけさせてくれ」
返事も待たず、顔を寄せた。
寸刻前に不躾な男の接触を許し、そして今はほの赤くなって柔らかく震えている、その左頬にキスを落とす。
「え!?」
ビアンカは、口を「え」の形に開いたまま、ぽかんと俺を見上げていた。
その口がそれ以上何も言わないのを好い事に、再び同じ場所に唇を落とす。何度も何度も口づけをする。そうしていくうち、桃色だった頬はだんだんと、その彩度を増していった。
一時顔を離し、その姿を目に焼き付ける。それでもやっぱり飽き足らず、再び彼女の頬に唇を寄せたところで、ふいにその美しい顔が傾いた。
思いがけず、俺の唇とビアンカの唇が、ぴたりと重なる。
思わずはっと顔を離すと、俺を見上げるビアンカの姿が視界に入った。
「い、今のは、消毒とかじゃない。私が、ハルのことを好きだから、したの」
ビアンカは、上気した顔にむすっとした表情を浮かべ、俺のことを見ていた。
その愛らしさたるや――俺の心の内の色んなものが波打ち、渦巻くようだった。
「ごめん、ビアンカ。もう一回……。目を瞑って」
むくれていても、可愛いビアンカ。消毒だなんて馬鹿みたいな言い訳をする男に、好きだなんて言ってのけてしまう、俺の恋人。
彼女は今、楽しい夢を待つかのように、俺の目の前でそっと瞼を閉じている。
今この瞬間、世界で一番幸せな男は、俺に違いない。
そう確信しながら、赤く誘う唇に、溢れんばかりの愛を伝えた。
更新が遅くなり、申し訳ございません。
とんでもなく迷いに迷って、行ったり来たり、書いたり捨てたりを繰り返していました。
本編は、残すところ一話のみです。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




