悪い女と狂暴な男(2)
久しく私の頬に添えられたままだった、ヘレンキース伯爵の手。
その手が、馬車の外からいきなり現れた別の手によって、引き剥がされた。
「ハル……」
小さく名前を呟くと、ハルは、ちらりと私を見た。
同時に、ヘレンキース伯爵が、はあ、とため息をついて、己の手を引く。
「全く……何でここにいるんだか。ヘタレのくせに変に勘が良くて獰猛なわんこです」
それは、どうだろう。
ヘレンキース伯爵の手をすぐに離したハルは、はたして獰猛なのだろうか。
ハルは、怒りに身を任せたりはしていない。本当は、とても怒っているのに。怒っている、としか表現できない程に顔を歪めているというのに、首から下は、平静を保っている。
「私としたことが、少し焦り過ぎたようですね。この話は、また次の機会にしましょう。あなたがこの地に留まってくれるというなら、いくらでも口説く機会はありますから」
「あるわけないだろ」
「いや、あるさ。もっと言えば、口説くだけで終わるかもわからない。君がビアンカ嬢を少しでも不幸にするようなら、その時こそ本気でビアンカ嬢を攫うつもりだし、その時はマルセルも私の味方をしてくれる。そうだろう? マルセル」
ヘレンキース伯爵は、見慣れた表情を浮かべて、マルセルに笑いかけた。
マルセルは、何とも答えづらそうに、「……ええ」と言った。
それから出し抜けに、「では、しばらく休憩時間を取ってから、ここに再集合ということでよろしいでしょうか」と続けた。
「まあ……いいでしょう」
ヘレンキース伯爵が答えるよりも前に、私は馬車から引き下ろされていた。
乱暴に引きずり出されたわけではない。
けれども、あまりに突然過ぎて、ほんの少しつんのめった。すかさず両脚を掬われて、横抱きにされる。
されるがまま、馴染み深い胸板に体重を預けて、ハルの精悍な顔を見上げた。
「ハル……どこから聞いていたの」
「ビアンカが、俺の名前を口にするのが聞こえた」
「そう……」
ハルがいた場所からは遠く離れていたはずなのに、ハルは、私の声を聞いて、駆けつけてくれた。
ハルは、やっぱり、すごい。すごく、私のことを好きでいてくれる。
堪らずハルの首にしがみつくと、しかし、ハルはぷい、と目を背けてしまった。
ハルはまだ、怒っているみたいだった。
本当に、一体どこから話を聞いていたというのだろう。何に対して、怒っているのだろう。
私は、ハルを怒らせるようなことを口にしただろうか。仮に最初から会話を聞いていたとしても、思い当たる節がなかった。
「ハル……怒っているの?」
「…………伯爵は、本当にビアンカのことを好きだと思うか?」
「え……」
質問に予期せぬ質問を返されて、返答に窮した。
ヘレンキース伯爵は私のことをそれほど好きじゃない――ほんの少し前だったら、すぐにそう答えた。
でも、今は違う。あんな風に苦しげな表情を見せられたら、簡単に否定することなどできなかった。そこに甘ったるい感情が含まれているのかは定かではないけれども、彼は私のことを、憎からず思っている――。
「……俺が、自分勝手なんだ。俺は、必死になって、ビアンカに気持ちを伝えてきた。ビアンカが、俺の気持ちを信じられるって言ってくれた時、すごく嬉しかった。他の男の気持ちなんて一生伝わらなければ良い、って、そう思ってた。だから……はあ、伯爵の言う通りだ。俺は、いつも嫉妬するばかりで……本当に、ヘタレで狂暴なだけの馬鹿だな……」
ハルが、がっくりと項垂れた。




