悪い女と狂暴な男(1)
このところ、何だか、色々あった。
本当に、色々あった。
たった数週間に、沢山の良いことと悪いことがぎゅっと詰められていたように思う。
そのせいで、疲れているような、爽快なような、変な心地が続いていた。
その上、今日は随分と気候が良い。
そういう全てが相まって、馬車が鉱山の近くで止まった時に、ふう、と変に陽気なため息が出てしまった。
慌てて取り繕おうとしたけれども、全く間に合わず、向かいの席でヘレンキース伯爵がふふ、と笑った。
「ビアンカ嬢も、マルセルも……なんだか随分とすっきりとした顔をしていますね」
「ええ、そうですね、こうぽかぽかと温かいと……」
私達の胸中を知ってか知らでか、ヘレンキース伯爵はにこにこと笑っている。
――いや、ヘレンキース伯爵がそんなに鈍感なはずがないか……。そう思い直したところで、ヘレンキース伯爵が、ふむ、と唸った。
「気持ちは変わりましたか?」
どこか聞き覚えのある質問だった。
――ヘレンキース伯爵は、私と最後に会話を交わした日にも、それに似たような質問を投げかけてきた。
あの時私は確かに答えたはずだけれども、途中でガロが乱入してきたから、どことなくうやむやになって終わってしまったと記憶している。
ヘレンキース伯爵はおそらく、その話の続きをしているのだろう。
「気持ちに変わりはありませんか」だった質問が、「気持ちは変わりましたか」に変わっているが、尋ねるその表情に変化はない。
自信に満ち溢れていて、そして底知れない何かを湛えた笑みを浮かべている。
「……ええ」
私は、短く答えた。
するとヘレンキース伯爵はまた、ふむ、と唸った。
「ハルのため、ですか?」
こんな所で、また、何を言わせるつもりだろう。
不信感を隠さないまま視線だけで応えると、意外なことに、ヘレンキース伯爵はその笑顔を歪ませた。
「はあ、自分でそう差し向けたとはいえ……」
ヘレンキース伯爵が、身動ぎした。
「……私に耳としっぽがあったのなら、あなたは私を愛してくれましたか?」
「え……?」
気付けば、私の片頬に、ヘレンキース伯爵の片手が添えられていた。
その言葉も、表情も、不意打ち過ぎて、身動きが取れなくなる。
吸い込まれそうな瞳に、釘付けになっていた。
ご冗談を、と言って突き放すことができなくて、ただ目を見開いて、そのマカライトの瞳を見つめていた。
「伯爵様!」
突然隣で大きな声がして、はっと我に返った。
視界の隅で、マルセルが眦を決している。
「なんだ、もう、私の味方はしてくれないの?」
ヘレンキース伯爵は、横目でマルセルを見る。
その顔には、愉悦か、あるいは嘲りのようなものが浮かんでいた。
じりじりと、変な空気を感じる。
「……私は徹頭徹尾、ビアンカ様の味方です。それに、ビアンカ様が幸せになる方法をよく考えるように、とおっしゃったのは、伯爵様です」
「ふうん……」
ヘレンキース伯爵はいやな笑みを湛えたまま、マルセルに向けていた視線を、私の方へと戻した。
「本当に、恨めしくなる程にあなたの瞳は澄んでいますね……。でも、あなたは間違えている。ハルは、あなたをこの地に繋ぎとめるための役者に過ぎない」
「……」
「あなただって、多少は勘付いているのでしょう。私はあなたがどこかへ行かないように、徹底的に舞台と役者を整えました。とりわけ力を入れたのが……ハルです。あなたはハルに気があるようだったから、私はハルをけしかけた。あなたの好意に応えるように、ね。実際、ハルは良くやってくれました」
「……」
「全ては、ハルの意思ではない。どうしてもあなたに傍にいて欲しかった、私の意思です」
「私、は……ハルを、信じています」
やっとのことで、それだけを口にした。
「……ここまで言っても、まだ、ハル、ですか。どうしてそんなに、ハルの気持ちを信じられるのです? 彼は、プレゼントを贈るわけでもないし、甘い言葉を囁けるとも思えない」
どうして、だろう……。
私自身もまだ、その問いの答えを知らない。簡単に正解に辿り着けるものでもなさそうだった。
霞がかった頭の中に、思いつく限りの理由を並べてみる。
ハルが私に優しくしてくれるから。気持ちを、言葉や表情にして見せてくれるから。あるいは、ハルが嘘をつかない誠実な人だと知っているから――。
――だけど、多分、それだけじゃない。
私自身が、信じたいのだ。
ハルが好きだから、私のことを好きだと言うハルのことも信じたいのだと、そう気が付いた。
明確な意思を持って伯爵を睨み返し、口を開く。
「私は――」
「やっぱり、言わないで下さい」
何一つ答えられぬうちに、冷たい声で制止された。
え、と思ってその表情を注視してみれば、先程までギラギラと輝いていた瞳は、潮が引いたように翳りを見せている。まるで、一瞬にしてその話題への興味を失ったかのようだった。
私は、拍子抜けすると共に、変な寒気を感じた。その気持ちが、多分、そのまま顔に出ていたのだと思う。
ヘレンキース伯爵は私を見ながら、ふ、と嗤った。
「あなたは……やっぱり悪い女ですね。色んな男の心を惑わせて、今やみんなあなたに夢中だ。なのに、自分の瞳には、たった一人の男しか映していない。……本当に、私のことなんて欠片も思っていない。それどころか、私の気持ちだって、全く伝わっていないんでしょう」
その時、バタン、と大きな音がして、馬車の扉が開いた。




