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脅かし驚かされ

 いつもの仕事部屋のドアを開けると、何となく静謐な空気で満たされているような気がした。

 それは、二日間誰も――ひょっとしたら清掃担当の人が入ったかもしれないけれど、少なくとも執務担当は入っていない――からかもしれない。

 けれども――いくつか並べられた重たげな机のうち、ドアとは離れた場所に位置する一つのその足元に、無造作にペンが転がっているのを見つけて、やっぱり僕の思い込みなんだろうな、と思った。

 本当のところは、部屋の状態なんて全く関係なくて、単純に、僕の気持ちの問題なのだろう。

 昨日僕が目にした全ての顔が何となく爽やかな顔をしていたから、そういう気分になったのかもしれない。

 彼らの顔を一つ一つ思い浮かべながら、ペンを取ろうと、屈む。

 

 このところ、ビアンカが倒れたのは誰が悪いとか俺は悪くないとか、そんな会話が飛び交っていたみたいだけど、最終的には概ね解決したみたいで、みんなの表情からは重苦しいわだかまりのようなものは抜け落ちていた。

 僕は、最初に何があったのかもよく知らないし、それがどう解決したのかも、あんまりよくわからない。残念ながら、わざわざ僕に事細かに説明する程、ハル達は親切ではなかった。

 よくわからないから、不安にもなった。けれども、あの表情から察するに、きっと悪いことにはならなかったんだ。

 ハルとガロは穏やかだったし、ユーリに至っては軽口も叩いていた。……いや、ユーリの態度なんて大した参考にならないかも……多分、ユーリ自身は傷付いていない、くらいの指標にしかならない。

 

 そのまま意味もなく、転がったペンをしげしげと眺めていると、部屋のドアが開く音がした。

 次いで、革靴の歩く音がする。マルセルが来たんだ、とわかった。

 部屋に入ったマルセルは、いつもみたいに、おはよう、と言わずに、ふ、っと軽く息をついた。

 どうやら、机の足元で屈んでいる僕に、気が付いていないらしい。

 顔を持ち上げようとして、そうだ、と一つ思いついた。

 このまま隠れていて、マルセルが近付いた瞬間に顔を出したら、彼はどんな表情をするだろう。

 一度、やってみたかった。

 別に、マルセルを脅かしたい、というわけじゃない。ただ、やってみたかった。だって、ハル達みたいに五感が優れた獣人には、そんなこと、到底出来ない。きっと部屋に足を踏み入れた瞬間に「シオン、いたんだな」って言うだろう。

 でも、マルセルはまだ、僕に気が付いていない。こんなチャンス、なかなか訪れない。どうやって登場したら、良い感じに驚かせることができるだろう。

 思いを巡らせながら、マルセルが近付いて来るのを今か今かと待ち構えていると――僕が飛び出すよりも早く、再びガチャリと言う音が響いて、マルセルは足を止めた。

 

「あら、マルセル、おはよう」

 

 ビアンカの雅な声がした。

 

「おはようございます、ビアンカ様」

 

 マルセルが挨拶を返す。

 

「昨日も言った通りだけど……これからまた、よろしくね」

「はい、こちらこそ」

 

 二人して、遠慮がちに会話を交わした後、ふふ、とかへへ、みたいな照れくさそうな笑い声を漏らす。

 何だろう……ピンク色――ではさすがにないけれど、それに近い淡い色の空気が漂っていた。

 僕は完全に、顔を出すタイミングを逸してしまっていた。

 

「あの、昨日は言えなかったんですけど……僕……ハルさんみたいなおにいさんができるのも、いいかなって」

 

 え? ハル?

 突然の展開に驚いて、うっかり、頭を上げてしまった。頭が机に接触して、ガン、という音を立てる。

 

「えっ!?」

 

 ビアンカが驚いたような声を上げたので、観念してそろそろと顔を出すと、二人分の目と、目が合った。

 二人して丸く見開いて、でも、どこか腫れぼったい印象を受ける目を僕に向けている。

 

「えへへ……ごめんなさい。ペンを拾っていたら、なんか、出るタイミングを失っちゃって……」

 

 右手で拾ったペンを振りながら、言い訳を並べ立ててみる。

 そしたら、二人とも、ふっと肩の力を抜いたみたいに、笑った。

 

「そっか……。泥棒とかじゃなくて、良かった」

 

 とマルセルが言った。

 

「ハルの話が出たから、ちょっとびっくりしちゃって……。驚かせて……というか、盗み聞きみたいになっちゃって、ごめんなさい」

「あ、そっか、そうだよね」

 

 マルセルは、はにかむような笑顔を見せた。

 なんだろう、と見ていると、「シオンの、言う通りだったよ」と続けた。

 

「え?」

「ハルさんは、本当は優しい人だった」

「う、うん……」

 

 確かに、言った。

 言ったことも覚えているし、それは僕の本心に他ならない。

 でも、マルセルの口からその言葉が出てきたのが意外過ぎて、ぽかんとしてしまった。

 

「だから、おにいさんになってくれたら、嬉しいかもって思ったんだ」

 

 そう言って、マルセルは頬をぽりぽりと掻いた。

 

「そ、そっか、確かにハルってちょっと、お兄ちゃんっぽいもんね」

「うん、まあ、そうだね」

 

 僕の言葉に、マルセルが同意を返す。

 お兄ちゃんっぽい――のかな?

 自分で言ったものの、あんまりしっくりはきていない。

 優しいし、群れのボス、みたいなポジションではあるけれど。

 

「……二人とも、そろそろ始業時間よ」

 

 しばらく黙っていたビアンカが声を掛けると、マルセルはにこりと笑って振り返り、「はい」と答えた。

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