望みと願い
ドアを開けて、ぎょっとした。
そこで、大きな獣人二人と、可愛い弟が対峙していたのだから。
これは、一体どういう状況なのか、と考える。
あまりに異色な組み合わせだった。偶然、ばったり出くわしたところなのだろうか。
でも、マルセルの目が赤く――瞳だけでなく、白目までもが赤らんだ状態にあることに気が付いてしまえば、その信憑性は著しく下がったように感じた。
「え、ハル……」
このよくわからない場面に動揺して、ほとんど無意識のうちに、すがるようにハルの名前を呼んでいた。
口にしてから、あれ、と気が付く。
何故私は今、ハルの名前を口にしたのだろう。今のは、変に思われたかもしれない。あるいは、責めていると思われたかも――。
でも、呼ばれたハルは、耳と顔にわずかに喜色を浮かべ「ビアンカ、良かった、呼びに行くところだったんだ」と言った。
その姿があまりにいつも通りで、強張っていた肩からふっと力が抜ける。
いつも通りで、ちょっとおかしいハル。
自分の頬が緩みかけていることに気が付いて、いや今は違う、と顔に力を入れた。
「ええと、三人で呼びに来た、ってわけでもないのよ……ね……」
冗談めかして尋ねようとした私の目に、マルセルの歪んだ瞳が映った。
疑問形を取るはずだった語尾は低く沈み、はっと息を飲む。
「え、ど、どうしたの、マルセル」
私を見つめるその赤い双眸が、ぼたぼたと雫を落としていた。
その顔は、かつて目にしたマルセルの幼顔と重なったが、彼はもはや子供ではない。立派な青年となったマルセルが垂泣する姿は、私の心臓を変な具合に締め付けた。
何があったか知る由もなかったが、彼が今涙しているのはきっと私のせいなのだろうと、それだけはわかった。
「す、すみません……」
「とにかく、中に入りましょう」
身振り手振りも交えて、屋敷の中へ入るように促す。でもマルセルは、かぶりを振った。
「いいえ、ビアンカ様は、これからハルさんと、話すのでしょう?」
「それは……」
ちらりとハルを見る。
ハルは眉尻を下げて、私達を見ていた。
どうしよう。ハルの用事が何なのか、検討もつかない。急ぎの用だったりするのだろうか。ハルに、そんなものがあるとも思えないけれども……。
「……いいんです、僕、帰りますから」
言葉を濁した私に対して、マルセルはくるりと背を向けてしまった。
「ちょ、ちょっと待って、マルセル……」
慌てて、その手首を取って引き留めると、マルセルの体がびくりと震えた。
一瞬の間の後、マルセルが振り返る。複雑に光を反射するルビーのような双眸が私の顔を捉えた――と思った途端、赤く光るその表面が、またうるうると濡れ始めた。
「マルセル……」
「……うぅっ……」
マルセルは、今度こそ嗚咽を堪えられなくなったようだった。
しゃくりあげながら、肩を震わせている。
「……っ僕といると……あなたは、いつも困った顔をする……っ」
ドクン、と心臓がまた悲鳴を上げた。
「ハ、ハルさんといる時は、嬉しそうなのに……っ、ぼ、僕といる時は、なんで、……っ、僕だって、ビアンカ様のためにって、色々頑張っているのに……っ。ビアンカ様の望む通りに、しているはずなのに……っ」
グラグラする。
自分の愚かさは自覚しているつもりだった。けれども、本当は、ちっとも理解していなかった。こうしてはっきりと突き付けられてようやく、自分がどれほどマルセルを傷つけていたか、わかったのだから。
「ごめんなさい……」と口にしながら、たたらを踏んだ。
私に、ショックを受ける資格なんて、ない。なのに、どうにかなりそうだった。
でも、そうなる寸でのところで、温かいものに腰を引かれて、踏みとどまった。
ハルのしっぽと腕だった。
「ハル……」
顔を持ち上げると、しかめ面で私を見下ろすハルと目が合った。
「ビアンカ、今日はもう、休んだ方が良い」
「駄目よ、ハル……」
「……」
こんな中途半端なところで、帰れるはずもなかった。
ハルから目を逸らし、再びマルセルに、視線を戻す。
マルセルは、真っ赤な双眸を大きく開いて、私を見ていた。
「ごめんね、マルセル……。私は、本当は、ずっとここにいたいの……。本当は、この屋敷から離れたくないし、ハルたちやマルセルとも別れたくないの……。ごめんね……」
「……ぼ、僕とも……?」
「もちろん……。でも、もうあなたの人生を縛りつけるのはやめる。ここを離れるのも、ここを継ぐのもあなたの自由よ。でもね、私が遠くに行くって約束だけは、反故にさせて欲しい……本当にごめんなさい……」
私はまた、自分勝手なことを言っている。
ここで終えたら、また同じことの繰り返しだ、マルセルの気持ちを聞かないといけない、と思うのに、体がうまく動かない。
「……また後で、ちゃんと話しましょう」
ようやく、それだけ口にした。
それが精一杯だった。
手から力が抜けて、そこに留めていたマルセルの手首が離れていく。
でも、離れていった手は、再び私の元へと戻って来た。
今度はマルセルの両手が、私の右手をしっかりと掴んでいた。
ぽかんと見ている私の前で、マルセルの口が、「ビアンカ様、僕は……」と動き始める。
「僕は、キーリーの家が欲しかったわけじゃない。ただ、ビアンカ様の願いを叶えたいと思っていただけだ……本当は家族のようにずっと一緒に暮らしたかったけれど、あなたがこの家を疎んで離れたがっていたことは良く知っていたから。それであなたが喜んでくれて、幸せになってくれるなら、って思っていた。僕は本当にただ、ビアンカ様の幸せを願っているだけです。出て行って欲しいなんてこと、ちっとも思っていない……むしろ、あなたがここに残ってくれるというなら、僕にとってそれは、願ったり叶ったりなんです。だから、そんな風に謝ったりしないで下さい……」
「……」
マルセルの頬はまだ濡れていたけれども、もう目は潤んでいなかった。
真っすぐ、私を見つめている。
「……もう、いいだろう。ビアンカ、本当にもう、休んだ方が良い」
ぼんやりと見上げると、ハルは柔らかい渋面を浮かべて私を見ていた。
私の右手が解放された感覚があって、腰に回されていたしっぽと腕もするりと解かれた。
入れ替わるように、右手が大きな手に包まれて、そのままゆっくりと引かれる。
「そうね……。マルセル、また後で……明日か、明後日か……」
「ビアンカ、歩けそうか。それとも、抱きかかえて運んだ方が良いか」
「あ、歩ける……」
「そうか、じゃあ行こう」
胸の痛みは引いたけれども、頭はまだ、ぐるぐるしている。
導かれるまま屋敷の中へと入ると、頭上から「な、だから言っただろう」と優しい声が降って来た。
「え?」
「誰も、ビアンカのことを恨んだりしていない」
「……そう……なのかな……」
「そうなんだ。だから、何も気にせずに、今日は休んでくれ」
「……うん。でも、ハルの用は、何だったの?」
「俺は、仕事は終わりにして休んでくれ、って言いに来ただけだ」
「……そう、そっか、なんだ……」
「……いや、本当は、ただビアンカに会いたかっただけだけかもしれないけど……」
「え?」
「……いや、なんでもない」
私の部屋はそう遠くない。ほんの少し話しているうちに、すぐに辿り着いてしまう。
その部屋のドアの前で、ハルは、「じゃあ、おやすみビアンカ」と言って私の頭を撫でた。
何だか不思議な感じがする。なんだろう、と思って、その顔を見上げると、ハルが「う……」と呻いた。
「そんな目で、見ないでくれ……」
「そんな目……?」
「な、なんでもない……。とにかく、ビアンカ。今日は本当に顔色が悪いから、俺は何もせずに、ビアンカを部屋まで送り届けるんだ。だから、ビアンカも、早く部屋に入って、休んでくれ」
「う、うん、おやすみ……」
言うや否や、ハルはさっさと廊下を引き返してしまった。
変なハル。
でも、ハルの言うことは、もっともだった。
明日マルセルとちゃんと話さないといけないし、いつまでもこんな風でいるわけにはいかない。
自室の片隅に、あつらえたかのように寝間着が用意されていたので、いそいそと着替え始めた。




