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ここにいる理由

 何が言いたいんだ、と口にしてから、しまった、と思った。

 それは、本当に何の他意もない、言葉通りの意味だった。けれども、そこには確かに苛立ちが滲んでいた。

 俺はただ、マルセルに、道を開けて欲しかった。なのにマルセルは、頑なに俺の意向を汲み取らなかった。屋敷の入り口で出くわした後、事務連絡だとかなんとか言って、ぺらぺらと長いこと俺には良くわからない話を続けていた。

 そんな意味不明なことをされれば、多少なりとも腹が立つものだろう。

 とはいえ、俺は恫喝したわけでもなければ、殴ったわけでもない。

 にもかかわらず、マルセルはまるでそうされたかのように、ぐにゃりと顔を歪ませた。

 ビアンカとはちっとも似ていない造形の顔だというのに、そこにビアンカの泣き顔を見た気がして、居心地が悪くなる。

 

「……いや、俺はただ、ビアンカに用があって急いでいるんだ」

 

 苦々しく言い訳をすると、マルセルの瞼がぴくりと動いた。

 でも、それだけだった。

 俺の意思は正しく伝わっただろうに、やっぱりそこを退こうとしない。

 

「そうですか、ビアンカ、様に……」

 

 と、意味もなく、呟いている。

 ここまでくると、ちょっと様子がおかしいように思えてきた。

 マルセルは今、ビアンカの名を口にしながら、頭の中では一体何を考えているというのだろう。

 二人はどうにも複雑な関係のようだった。ビアンカが話してくれた昔話もひどく複雑だったし、二人が交わす視線にも、複雑な感情が見え隠れしている。

 それは、負の感情のようにも見えないが、愛情と呼ぶにふさわしいものなのかもわからない。

 だけど、互いに互いを唯一無二の存在だと思っていることだけは確かだと思う。

 マルセルの目に今の状況は、たった一人の姉のもとへ乱暴で馬鹿な獣人が連日押しかけてきているように映っているのだろう。

 だから、内心で動揺していたとしても、激昂していたとしても、おかしくはない。

 

 だが、仮にそうだったとしても、おいそれと引くつもりはなかった。俺にも言い分があるのだ。いかに馬鹿な俺でも、何も、諸手を挙げてビアンカのもとにやって来たわけではない。

 むしろ、昼間の時点では、今日はビアンカに会わないつもりだった。

 会えば触れたくなってしまう。でも、それじゃあビアンカは休まらないだろう。病み上がりの休日なのだから、ビアンカにはしっかり休んで欲しかった。

 でも、マリーが俺の部屋にやって来て、言ったのだ。

 ビアンカのしている仕事は必ずしも誰かが肩代わりできる仕事ではない、だから、休んだ分はどこかで取り戻さないといけない、だからといって休んだ直後の休日を潰して長時間仕事をするのはさすがに心配でしかない、ハルからも止めてくれないか――と。

 もう日も傾き始めているというのに、それまで俺は会いたい気持ちをじっと堪えていたというのに、ビアンカは仕事をしていたというのだ。

 これほどの名分を得てしまえば、会わないわけにはいかなかった。

 

「……ハルさんは」

 

 マルセルが、また、何かを呟いた。

 それは、随分と小さな声だった。だが、聞き取れない程ではない。例え、商館のドアが開く音と、そこから駆け寄る足音がどんなにうるさかったとしても、だ。

 しかし、

 

「ハル!」

 

 と野太い呼びかけが響き渡ると、そのか細い声自体がぷつんと途切れてしまった。

 バタバタと音が近付く。

 俺の隣へと寄ってきたガロは、真顔で俺の肩を叩いた。

 

「ハル、落ち着け」

「……はあ?」

 

 呆気に取られて言葉を失っていると、肩に乗せられた手に、一層力が込められた。

 こいつは突然何を言い出すんだ、と、これ以上ないくらい怪訝な声を出したというのに、ガロは別の意味に捉えたようだった。

 

「落ち着け、人を殺したり、傷付けたりしたら、もうここにはいられないぞ」

「……はあ、お前な……。俺はそんなことしない。するわけないだろ」

「……」

「……」

「……番狂いになったんじゃなかったのか」

「……なってねーよ」

「……そうか」

 

 ガロは、真顔はそのままに、何事もなかったかのように、すっと手を引いた。そうすることで直立不動の姿勢になったわけだが、その状態のまま俺の隣で突っ立っている。

 不自然な光景だった。

 普通ならば、勘違いだった、と言って帰るだろう。そうじゃないなら、せめて、別の話題を振るなりすれば、少しは違和感が和らいだだろうに。

 じろりと視線を向けても、同じような視線を返されるだけだった。

 

「……番狂い……って何ですか」

 

 妙な沈黙を破ったのは、マルセルの絞り出したような声だった。

 顔を向けるとそこに、食い入るように俺を見つめる赤い目があった。

 その下では、両の手が拳を形作っている。まさか獣人に殴りかかるつもりでもないだろうが、血の気が引いて見える程固く握られていた。

 

「いや、俺は番狂いとかそんなんじゃないから、問題ない」

「そんなんじゃないって、いずれはなる可能性があるということですか? そもそも、番狂いとは何なのですか。番って、誰のことですか」


 マルセルは、顔を歪めたまま、俺を睨んでいた。そんな表情をするということは、概ね予想はついているのだろう。もっと言えば、その女性のことを随分と大切にしているであろうことが、容易に読み取れた。

 

「お前には関係ない。いいからそこをどいて、ハルを通らせろ」

 

 事情を知らないガロが、余計な横槍を入れてきた。

 

「やめろ、ガロ。お前こそ、用が済んだなら、帰れ」

 

 慌てて制止すると、ガロは黙って俺を見た。

 否とは言わなかったが、かと言って、俺の言葉に従う気配も全くない。まだ、俺のことを疑っているようだった。

 仕方なく、ガロを隣に置いたまま、マルセルに向き直った。

 

「はあ……。番狂いってのは、言葉のまま、獣人が番の為に狂うことだ。俺はビアンカを大切にしているが、別に狂ってはいない。この先だって、狂うつもりはない。これで、いいか」

 

 マルセルもマルセルで、俺の言葉に返事をしなかった。

 番狂いなんて言葉は、縁のない人間にとっては理解しがたいものなのかもしれない。ちょっと聞いたくらいで、なるほど、とすぐに合点がいくものではないのかもしれない。マルセルは今、頭の中で必死にその言葉を咀嚼しているのかもしれない。

 だからと言って、それを待っていては日が暮れてしまう。俺は、早くビアンカに会いたかった。

 はあ、と内心でため息をついてから、考える。

 押し通ることは簡単だったが、それは得策ではない気がする。

 さて、どうしたものだろう。

 考えているうちに、ふと思い浮かぶものがあった。

 

 こんなことは、前にもあった気がする。

 大抵の人間は、俺たちに好き勝手言葉をぶつけるのに、時々、そうでない人間がいるのだ。優しさゆえに言葉を濁すようなこともある。けれども、まるで怒っているかのように黙り込んだ後、底なしに可愛い心情を吐露し始めたりすることもあるのだ。

 あれこれ思い起こしているうちに、焦がれていたドアがひとりでに開いた。

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