変わりゆく
ビアンカの髪を撫でながら、あの日のことを思い出していた。
どこへ行くつもりだ――……。ガロは、ガロらしくもない言葉で、ビアンカを引き留めていた。
――そう思っていたけれども、それは多分、俺の勘違いだったのだろう。
ビアンカはこの場所を出て、どこへ行くつもりなのか。ガロが聞きたかったのは、その答えだったのではないか。
でもきっと、ビアンカはまだ、その答えを持っていない。
その理由は、ビアンカを見ていたらわかる。ビアンカはもはや、その未来を望んではいないのだ。
けれども、変えられない過去に苦しんでいる。俺が想像していたよりもずっと深く、苦しんでいる。
胸を刺すような嗚咽は、いつまでも続くように聞こえた。
でも、そのうちに、聞こえてくるのは洟をすする音だけになった。
少し、落ち着いたのだろうか。しがみつくように回されていた腕からも力が抜けたようだった。
ビアンカの体が、ふ、と離れる。同時に、涙跡の残る頬が俺の眼下に現れた。
その表情を窺い見たかった。でも、ふいと顔を背けられてしまい、それは叶わなかった。
「ハル、その……」
ビアンカはそっぽを向いたまま、嗄れたような声で、小さく何かを言った。
言い切る前に、ああ、と気が付く。
しっぽを眼前に出してみると、ビアンカは、また一つ洟をすすってから、そのしっぽをぎゅっと胸に抱きしめた。
どんな表情を浮かべているのか、相変わらずわからない。でも、毛束に顔を埋めるその姿は、見慣れたビアンカのように見えて、それがほんの少しだけ俺を安心させた。
「ハル……」
しっぽの中から、くぐもった声が聞こえてきた。
「なんだ?」
「本当にありがとう。あの……私、ハルが大好き」
「えっ」
突然の言葉に虚を突かれて、心臓がドクンと鳴った。
しっぽがピンと立っていることに気が付き、慌てて力を抜こうと努める。鼻で深呼吸を繰り返す。普段通りにすればできるはずだと思うのに、そこでビアンカが喋っていることがくすぐったくて、全然上手くいかない。
ビアンカの言葉にも返事をしたいのに。頭の中が忙しなくて、それどころじゃない。
そうしているうちにビアンカは、額を擦り付けるようにして、より一層強くしっぽを抱きしめてきた。
「そ、その……」と躊躇うような吐息が、また俺のしっぽをくすぐり、ますます体温が上がっていく。
「えっと、これは、その言葉でハルを繋ぎとめようとしているとか、そういうんじゃないんだけど――」
「あ、ああ」
「ただ、私も変わらなきゃって……。その、ハルに対しても……ハルは、私が何も言わなくても、そのままのハルでいてくれるのかもしれないけど……、でも、私、ハルに優しくされることに慣れ過ぎて、傲慢になりたくないから。ハルはいつも私のことを気にかけてくれてるって、そんなことばかり思っていないで、私もちゃんと自分の気持ち口にしなっきゃって……つまり、その、私もちゃんと、変わろうと思って……」
この述懐の末尾には、「この問題を解決するために」という言葉が隠れているであろうことは俺にもわかった。別に、俺のためじゃない。なのに、その第一歩が「ハルが大好き」だなんて――。
「……」
「……」
「……あの、ハル、聞いてる?」
「え、あ、ああ」
上擦った声で、返事とも相槌とも言えないものを返すと、しっぽから額が離れるのを感じた。
見れば、ビアンカの顔半分が覗き出て、こちらを見ている。大泣きしたからなのか、それともうろんな気持ちからなのか、いつもより細い目で俺のことを見ていた。その目が、おもむろに丸く開かれる。
「ハルが、赤い」
「へ?」
「ハルの顔が、赤くなっている」
「えっ」と間抜けな声を出した俺の目の前で、ほの赤い唇が綺麗な弧を描いた。くつくつと、声を立てている。それは、久しぶりに見る、ビアンカの笑顔だった。
その笑顔は、あまりにも眩しすぎた。
縛める力が緩くなっていた腕からしっぽを引き抜くと、蠱惑的な唇が「あ」の形へと変わる。
そこに顔を寄せると、今度は「わあ!」と言って、飛び退いた。
「ちょ、ちょっと待って! 今顔パンパンに腫れているから!」
「から……?」
「だから、恥ずかしいから……」
そう言って、ビアンカは目を伏せてしまう。
「でも、ビアンカが悪い」
そんな風に笑うから。俺のことを好きだなんて言うから。大人しく座ってるにしても、限界だった。
ぎゅっと抱き寄せて、俯いたままの額にキスを落とすと、
「う、うん、そうかもね……」
と返ってきた。
はあ、どうしてこんなにも可愛いくて愛おしいのだろう。
ビアンカを前にすると、ビアンカのことだけで胸がいっぱいになってしまう。
ずっとこのままで、いたい。いられたら、いいのに。
――だけど、それじゃ駄目だということも、わかっている。
変わらなきゃいけないのは、俺も同じだった。
6話前で失墜したガロの名誉が(少し)挽回出来ていたら幸い。




