嫌気
ベッドのヘッドボードにもたれ掛かりぼんやりとしていると、そこに、ハルが現れた。
本来ならここにあるはずのない姿だというのに、何故だかあんまり、驚かなかった。
それ程までに、慣れてしまったのだろうか。私が苦しい時、気が付けばいつも、傍にハルがいるのだ。
「ビアンカ、大丈夫か……?」
ハルは、まるで何事もなかったかのように、ただいつものように、眉尻を下げて心配そうな表情を浮かべている。
私は、とてもじゃないけれど、普段通りではいられそうになかった。
まだ、ハルと顔を合わせる勇気がなかった。それなのに、すごく会いたかった。いざ会ってしまえば、気持ちがぐちゃぐちゃになって、ただ、泣きたくなった。
「大丈夫よ……」
「……」
ハルは黙って、ベッドサイドの丸椅子に腰を掛けた。
それから、私の片手を、その大きな両手で包み込んだ。
「冷たいな……」
それきり会話が途切れて、部屋に聞こえてくるものは、時計の音だけになった。
カチカチカチカチと繰り返し鳴り響く。何度も何度も秒針が音を鳴らすのに、私の手は冷たいままで、頭の中も散らかったままだった。
「……ビアンカ、何でこっちを見てくれないんだ……?」
痺れを切らしたように、ハルが二の句を継いだ。
「……」
意を決して、おずおずと顔を上げる。
何でハルを見ることができなかったのか――それは、ハルの顔を見るのが怖くて、ハルに顔を見られるのが怖かったからだった。
だけど今、私の目に映るハルは、先程と寸分変わらない表情で私のことを見ている。
私はますます泣きそうになって、でもそんな資格などないのだから、笑うことしかできなかった。
「そろそろ、私に嫌気がさしてきたんじゃない?」
私は、ほとほと嫌気がさしている。
脆い自分にも、馬鹿で人を傷つけてばかりの自分にも、こんな質問を投げかける狡猾な自分にも。
ハルは、案の定頭を振って、「そんなこと、絶対ない」と言った。
「でも、ガロに、聞いたんでしょ?」
「いいや……ガロは何も言わなかった」
「そっか……。そうよね、ガロはそういう人だった」
いっそのこと、言ってくれたら良かったのに。
一瞬、そんな狡い考えが、頭をよぎった。
「言いたくないことなら、無理に言わなくて良いんだ。でも、ビアンカ。俺は、何を言われても、ビアンカの味方だし、ビアンカに対する気持ちが変わることないってこと、わかってくれ」
ハルは、どこまでも、優しかった。
「……言いたくない、わけじゃない。今回のことがなくても、いずれ、きちんと話すつもりだった」
話さなければ、ならなかった。
話さなくても良い、この先ずっと今まで通りの生活を続けられる、そんな未来に書き換えられたら良かったのだけど。
そんなこと、今更叶うはずもなかった。
だから今、どんなに言い辛くても、自分の口を動かして伝えなければならなかった。
「……あの時ね、ヘレンキース伯爵が私に聞いてきたの。全てを捨ててここを去る意思に変わりはありませんか、って」
ハルの眉間に、ぐっと皺が寄るのが見て取れた。
「だから私は、はい、って答えた。何故なら……――最初から、そういう約束だったから」
「約束……?」
「そう、約束していたの。準備が出来たら、この家が持っているもの全てマルセルに譲って、私はどこか遠い場所に行くって」
「なんでまた……何か、脅されたりでも、したのか……?」
私は、首をぶんぶんと横に振った。
「違う……私が、勝手に約束したの。私が若かったから……ううん、馬鹿だったから。私は、父を憎んでいたから、父が培ってきたものを掠め取って、その全てを、父が疎むマルセルの手に渡せば、それが復讐になると思った。それが、マルセルのためにもなると、信じて疑わなかった。父が嫌がりそうな、身元の不確かな人を集めて、家名を汚すような仕事を始めて――偏見なんてない、みたいな顔しながら、私が一番、嫌なことを考えてた。マルセルの人生も、他のみんなの人生も、私が変えてしまった」
苦しくて、喉が詰まりそうだった。
どうしようもなく馬鹿だった私。目的を果たす前にあっけなく父が逝き、何も思い残すことのなさそうなその死に顔を見て、途方に暮れた。突然背負っていた荷がぐっと重くなったようだった。
一人になった私は、家を回すことに必死になった。そうしているうち、自分の犯した罪を忘れかけていた。いつかこんな日が来ることを知りながら、目を背け続け、幸せに浸り、そのうちハッピーエンドを迎えられるのではないかとどこかで期待していた。
「……だけど、俺は確かに、ビアンカに拾われて幸せだった」
私の手を握る力が、俄かに強くなった。
「ビアンカの恋人になれたから、ってだけじゃない。ビアンカがいつも俺たちのことを気にかけて、過ごしやすいようにしてくれたからだ。俺に限った話じゃなくて、ユーリ達だって、他の鉱山の人間だって、そう思っている」
「……だけど私は、無責任にそれを捨てて行くのよ」
「ビアンカがそうしたいって言うなら、俺は否定しない。でも、ビアンカは、本当にそうしたいのか……?」
「……」
私は、答えられなかった。本当はそんなことしたくない、なんて本音を、どうして軽々しく口にすることができるというのだろう。
返す言葉を失い、俯き黙っていると、ハルの手が私の手から離れていった。涙がこぼれそうになるのを、唇を噛んで耐える。
「ビアンカ……泣いても構わないんだ。俺の前では」
視界がふっと翳ったかと思うと、ハルの温かい両腕が、私の背中に回されていた。
片手が、ぽんぽん、と私の背を柔らかく叩いている。
そんなことをされて、これ以上堪え切れるはずもなかった。
「っ……。ハル、こそ、ずっと、黙っていた私を、裏切り者、だって、罵っても良い、のに……っ」
「そんなこと、言わない。というか、思うことだって、ありえない。ビアンカが、色々考えて苦しんでいたことはわかる……。でも、もっと俺を信じて欲しい。こんな風に倒れる前に、俺を呼んでくれ。何も話したくなかったとしても、腕やしっぽを使ってくれるだけでも、いいから」
「信じて、る。本当はずっと、ハルに、話したかった。だけど、誕生日の、約束も、すっぽかすことになって、こんなことに、なって、……っ」
嗚咽ばかりになり、それ以上何も言えなくなったというのに、ハルは、「そうだよな」と言いながら、ぎゅっと私を抱きしめた。
先程まで背を叩いていた手が、今度は私の頭をそっと撫でる。
それから私は、涙が枯れるまで、ハルの胸に顔を押し付けていた。




