彼女の家族(1)
「今日は一日、屋敷でお仕事をされるのですよね? お昼は正午にお召し上がりの予定ですか?」
屋敷の廊下を進みながら、斜め前を歩くビアンカ様に尋ねる。
ビアンカ様は、「そうねえ……」と何かを言いかけたけれども、それきり口を閉ざしてしまった。
そんなに難しいことを聞いただろうか。そう考えていると、ふっと、視界からその美しい濡羽色が消えた。
「ビアンカ様!?」
慌ててその軌跡を追うと、彼女は床にうずくまっていた。
うずくまっているだけで、意識を失ったりはしていない。それは、幸いなことではあったけれども、だからといって、それはほんの爪の先ほどの安心感にもならなかった。
すぐさま跪き、苦し気に上下する背中に手を伸ばすと、緩やかなウェーブの向こう側から、「ごめんなさい、マリー……」と掠れ声が返ってきた。
「いいえ」
片手で背をさすり、もう片方の手で乱れた髪を耳にかけてやる。
私がその顔に化粧を施した時は、健康そうな色をしていたというのに。今やその肌からはすっかりと血の気が引き、しきりに瞬きを繰り返す薄茶の双眸だけが、彼女の生気を感じさせている有様だった。
「どこか、痛みますか」
「いえ……」
「人を呼んで参りますので、ここで少しお待ちいただけますか?」
張り詰めた声で尋ねると、答えの代わりに、ふうっとため息をつく音が返ってきた。
その真意を窺おうと、表情を覗き込む。苦しくて声が出せない、という風には見えなかった。
二、三秒経って、その顔はゆっくりと横に振られた。
「ごめん……ちょっと、落ち着いた。多分、軽い貧血……脳貧血みたいなものだから……」
その声は、弱々しいながらも、しっかりとしていた。
「そう……ですか、脳貧血、ですね……」
私はようやく、知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。
脳貧血。何となく、耳馴染みがある言葉だ。本当にその病名なのであれば、彼女の病状はそれほど悪いものではないのかもしれない。
であれば、――どうすべきだろう。熱病の時のように、すぐにベッドに入ってもらい、休んでもらえば良くなるのだろうか。
誰か、屋敷に詳しい者はいただろうか。それとも、医師を呼ぶべきだろうか。
ビアンカ様は、その症状に覚えがあるようだけれど、彼女は対処法まで知っているだろうか。
ただただ背をさすりながら、主の意思を確認しようとその表情を見つめていると、その口から、ふっと笑うような吐息が漏れた。
「立ちくらみのちょっとすごいやつ、って言った方がわかりやすいかしら。たまに起こるけど、いつも休んだら治るから」
「……そうだったのですか?」
たまに起こる、ですって?
それが、数週間に一度という意味なのか、数年に一度という意味なのか、わからない。でも、今までそんな症状があるなんて、おくびにも出していなかったというのに。
この人は、本当に、どこまで――
「……ビアンカ様!?」
その時、廊下の奥から叫ぶように主の名前を呼ぶ声がした。
ぱっと顔を上げると、そこに、マルセルの姿があった。焦った様子でこちらへと駆け寄って来ている。
「どうされたんですか……!?」
ビアンカ様の傍らに辿り着いたマルセルは、息を呑んだように立ち尽くしたまま、彼女に尋ねた。
ビアンカ様はゆっくりと首をもたげて、その双眸をマルセルへと向ける。
「軽い脳貧血だから……」
と言うその顔は、まだ血の気が薄い。先程と比べると、苦しそうな色は幾分抜けていたが、眉は八の字を描いていた。
「でしたら、今日はお休み下さい」
「そうね、その方が良さそうね……」
「寝室に移動しましょう、僕が肩を支えますから」
言うや否や、マルセルはビアンカ様の腋下に手を回し、ぐいっと立たせた。
小柄でも、さすがに男性だった。ビアンカ様の体を軽々と支え、迷いなく彼女の私室の方へと歩いて行く。
本来なら、使用人の男性を簡単に部屋に入れるなど、言語道断だった。
でも、今は緊急事態で、私には人ひとり支えられる程、筋力に自信がない。
私はただ、二人が歩くのを見守り、部屋のドアを開け、ビアンカ様が潜り込んだベッドを整えることしかできなかった。
「では……準備を整えて参りますので、ちょっとお待ち下さいね」
私が声を掛けると、ビアンカ様は、「ええ、ありがとう」と言って薄い笑みを浮かべた。
「では、くれぐれもお大事に……」と口にしながらも名残惜しそうにしているマルセルを伴って、私は一旦部屋の外へと出た。
(注)脳貧血が必ずしも軽い病気というわけではありません。
尚、このタイプの脳貧血の場合は、しばらく立ち上がらない方が良いです(できれば寝転がって足を高くした方が良いとか何とか)。ビアンカは、結構無理して頑張って歩いていたと思います。




