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優しくない、だから(1)

 日常が戻ってきた。

 ただ無心で、岩壁を打ち叩く日々の再開。

 良くも悪くも、先週までの緊張感からは解き放たれていた。

 代わりに、もやもやとしたものが胸に燻っている。

 それが何であるか、上手く言葉にできそうにはないけれど、ただ、時が経てば自ずと消えそうな類の、小さなわだかまりだった。

 約束をふいにされたとも、傷つけられたとも思っていない。かわいそうなのはビアンカの方なのだから。

 ビアンカは何も悪くないのに、鉱山のトラブルに振り回され、今もその対応に追われている。

 結果的に、誕生日当日により多くの人に祝われたことが、彼女にとって喜ばしいことだったのか、そうでなかったのか、俺にはわからない。けれども、休む間もなく、仕事、誕生日会、仕事、と動き回るこの状況は、ビアンカの本望ではなかったはずだ。

 俺は、ビアンカのために、何ができるだろう。沢山働けば良い? それとも、俺のしっぽが何か役に立つ?

 

 無心とは程遠い気持ちになっていると、後ろで、ゴトン、と重い音がした。

 何事かと振り返ったその鼻先を、ガロが駆け抜けて行く。

 突然のことに唖然とする俺の目の前で、ユーリまでもがツルハシを放り、ガロの背中を追って行った。

 

「え、おい! ちょっと待て! ガロ! ユーリ!」

 

 声を上げても、何の意味も成さなかった。二人の足音は緩むことなく、坑道の入り口へと駆けていく。

 手からするりとツルハシが抜け落ち、三度みたびの衝突音が坑道に響いた。

 ――何だ、ガロのあの表情は。

 ひやりとしたものに背を押されるように、俺自身も走り出していた。

 

 岩を叩く音、岩を踏む音に混じって、ボソボソとした話し声が耳に届く。

 きっとガロの行く末にはこの声の持ち主がいるのだろう、と確信めいたものがあった。だけど、彼らはここで、件のトラブルについて話し合っているはず、なのに。

 ガチャリという音と共に、その声は急激に明瞭になった。

 

「とりあえず、今日のところは――」

 

 と、ビアンカの声が聞こえ、そこでぴたりと止んだ。

 聞こえる足音が、一つ、また一つ、と減る。

 

「俺たちを、ハルを、裏切るのか」

 

 唸るような低い声が聞こえたところで、ようやくその姿を捉えることができた。

 小屋の戸の前に、ビアンカとヘレンキース伯爵とマルセルが押し黙って突っ立っている。

 それと対峙する位置に、仁王立ちしたガロと、その斜め後ろに控えるユーリの背が見える。

 

「ちょっと待て、ガロ――」

 

 言いながら、向き合う二組の間に割って入った。

 片手でガロの肩を掴み、その巨躯を押し戻すように力をかける。

 だが、ガロはぴくりとも動かなかった。体どころか、目さえも動かさない。

 怒りとも悲しみとも知れない感情を双眸に浮かべ、瞬きすら忘れたようにビアンカをじっと見つめていた。

 ビアンカはビアンカで、言葉を失ったように目を見開いて、それを見ていた。

 

「一旦、落ち着け、ガロ。何があったんだ」

 

 ガロは、何も答えなかった。

 ビアンカも、ヘレンキース伯爵も、マルセルも、何も言わない。

 お前は何か知ってるのか、と視線でユーリに尋ねるとユーリがにやりと笑った。

 

「俺も何があったか、知らないけど。でも、ビアンカは裏切ったりしないだろ? だって、ハルはビアンカの命の恩人だ。ハルは大怪我しながらビアンカを助けたんだ。ハルがいなけりゃ、ビアンカはとっくの昔に死んでた。だから、ビアンカがハルのことを裏切るなんて、そんなことあるわけない。そうだろ?」

 

 ユーリはにっこりと笑い、わざとらしくしっぽを一振りした。

 問いかけられたビアンカの目は、見る間にすうっと細くなっていった。

 

「そうね。立ち聞きした上に、裏切るだ何だって、そんなこと言われるのは、心外だわ」

 

 その言葉よりも、その声と表情に愕然とした。それは、出会った頃のもの、そのままだった。

 

「それに、まだ仕事中でしょう。私たちは次の予定があるし、あなたたちも仕事に戻って」

 

 ふい、とビアンカが目を逸らす。

 踵を返しかけたところを、ガロが手首を掴んで止めた。

 

「どこへ、行くつもりだ」

「やめろ、ガロ、離せ!」

「俺は、ただ、聞いているだけだ」

 

 怒鳴っても、ガロは動じない。

 今までこんなことがあっただろうか。一体何が、ガロをこんなにも頑なにさせているのだろう。

 ビアンカが俺たちを裏切るだなんて、そんなこと信じていない。けれども、ガロの態度が、ビアンカの態度が、それが全くの嘘ではないと告げているようで、いやな胸騒ぎがする。

 

「まあまあ、その辺にしておいたらどうかな、ガロ」

 

 場違いに、間の抜けたような声がした。

 見れば、ヘレンキース伯爵がいつもと寸分変わらぬ顔で微笑んでいた。

 

「耳が快復したようで何よりだけど、君の耳はそうやってビアンカ嬢を責め立てるためにあるのか? 違うだろう? そんなことをして一体誰が喜ぶのか、胸に手を当ててよく考えてみたらどうだ」

 

 ガロの眉がぴくりと動く。

 射るような視線はようやくビアンカから離れ、ヘレンキース伯爵へと向けられた。

 ただ、それだけだった。それ以上何を言うでもなく、表情を変えることすらしない。

 数秒の睨み合いの間、ガロの気持ちに変化があったのかはわからない。だが、結局ガロは、ぞんざいにも見える仕草でぱっとその手を開いてビアンカを解放した。

 ヘレンキース伯爵は満足したようににこりと笑う。その笑顔のまま、俺たちの顔を見渡す振りをしながら――一瞬俺の目をしっかりと見つめてきた。

 だから言っただろう、ビアンカは優しいわけではない、悠長に構えているからこういうことになるんだ――ヘレンキース伯爵が意味深に口にしていた言葉の断片が、その視線の中に埋め込まれているようだった。

 

「では私たちは、これで失礼するよ」

 

 その言葉を最後に、三人は鉱山を後にした。

 結局ビアンカは、一度も俺と目を合わすことがなかった。

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