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その日の前々夜

 あと、十五分。それで、今日の仕事が終わる。

 今日が終われば、明日は屋敷での誕生日、そのまた翌日はビアンカの誕生日当日。

 特別な日が近づくにつれて、ふわふわと妙な心地になっていた。

 一日が長いのに、一週間が短い。一心不乱に岩肌を穿っていたはずが、そのうち手の中にあるものがツルハシから鉄のフライパンに代わり、その上でオムレツを焼いている様を思い浮かべている。布団の中で目を瞑るのに、何かやり忘れている気がして、上手く寝付けない。

 多分俺は、その日が楽しみで、そしてそれ以上に、不安なのだ。

 

 誕生日。

 俺たちには、ないもの。

 ビアンカにとっては、一年にたった一日しかない日。

 それが、人間にとって――いや、ビアンカにとって、どれ程の重みがあるものなのか、俺にはよくわからない。

 でも、少なくともマルセルは、ビアンカと共に誕生日を過ごせないことに、心から落胆していた。

 その「一日」は、俺が貰った。ビアンカはその日、他でもない俺と過ごすのだ。

 だから、大切にしないといけない。きっとこの特別な日は、特別に彩らないといけない。失敗は許されない。まずいオムレツなんて、もっての他だ。火を入れ過ぎてはいけない。でも入れな過ぎてお腹を壊したりしたら、それこそ最悪だ。

 それに、ケーキ。パンケーキだ。

 俺が口にしたことのないその代物の作り方――できればウォルターからその作り方を教わりたかったが、その機会は得られなかった。そもそも、ウォルターに会いに行くことすらできなかった。

 だから、レシピとやらは、ビアンカの手から直接受け取った。ビアンカが何気なく渡し、俺も何気なく受け取った。

 別に、期待の眼差しで見つめられたわけでもない。ビアンカが俺の料理の腕に期待しているなんて、思っていない。

 なのに、日が経つにつれて、どんどん落ち着かない気持ちになってくる。毎日のように見返すうち、手から滲むおかしな汗のせいで、その紙片はだいぶよれて皺が寄ってしまっていた。

 期待されていないとしても、がっかりさせたくなんてない。

 街でケーキを食べていた時のビアンカの幸せな表情。俺の作るパンケーキは、あの表情を引き出せるのだろうか。

 

 「ん゛ん゛……」

 

 ふいに後ろから何かが聞こえ、意識が現実に引き戻された。

 ルドの唸り声だ。

 振り返ろうとした体がずしりと重い。夢うつつだったが、惰性で革袋を担いでいたようだった。

 首だけ後ろに捻ると、小屋の奥でルドが何やらうろうろとしているのが見えた。

 こちらに背を向けているので、彼が何をしているのか、はっきりとはわからない。紙のようなものを手に、魔石の詰まった箱やらタンクやらの前を行ったり来たりしているように見える。

 

「ルド、どうかしたのか?」

 

 声をかけてみると、ルドはこちらをちらりと一瞥だけして、また紙に視線を戻した。

 

「あー、いや、ちょっとな……」

 

 ルドが言葉を濁すのを聞いてすぐに、俺が手伝えることはないらしい、と悟った。

 俺には、紙とにらめっこしなきゃならないような仕事はできない。

 多分、ルドが今やっていることは、そういう仕事なのだ。

 

「それを運び終わったら、気にせず帰ってくれ。これは俺の仕事だし、も少し時間がかかりそうだからな」

「そうか……。何か、ビアンカに伝えることはあるか?」

「あー……いや、大丈夫だ。何かあったとしても、伯爵んとこの連中に言伝を頼めるしな」

「そうか、わかった。じゃあ、また来週」

「ああ、おつかれ」

 

 ルドは、振り返ることなく、片手を上げてみせた。

 ルドもルドで、手の離せない難しい問題に取り組んでいるらしい。

 普段はガハガハと笑っていることが多いが、時々ああして真面目な顔をしている。あれで、意外と頼りになる男なのだ。

 

 俺は、どうだろう。

 ふと窓ガラスに目を向けると、闇に包まれつつある景色を背景に、革袋を担いだ男が薄ぼんやりと佇んでいる。

 その顔は、獣人らしい仏頂面を保っている、と思う。

 情けない程の緊張は、顔には表れていない、と思う。

 きっと大丈夫だ、と己を奮い立たせたところで、突然「おい」と声を声を掛けられぎょっとした。

 

「いつまでぼんやり突っ立ってるんだよ。もう帰る時間だろ」

 

 小屋の入り口で、ユーリが呆れたような顔でこっちを見ていた。

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