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おんりーらぶ!?【第二部】  作者: コー
中央の大陸『ヨーテンガース』 ドラクラス編

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第72話『光の創め15---へびとかげ---』

“――――――”


 今は昔、飢餓に煩ふ山奥の村在りき。

 雨降らず、日照りのこはき地勢がために、作物は育たず、皆は無気力にふれり。


 さるある日、ひとりの祈祷師が村を訪る。


 祈祷師は言ひき。

 日をねたがりたれば、恵み訪れずと。


 それより、村のわたりは灼熱の日の下に、祈祷師と共に願ひささぐべくなりき。


 ほどなくして、願ひ通じためり、分厚き雲いでゆきき。

 大地は潤ひ肥え、わたりは生き永らゆ。


 されど、生まれし分厚き雲は、村の世間浮かび続けき。


 晴れ晴れとせる空の恋しくなりしわたりは、雲妬ましく思ふべくなりき。

 村に残れり祈祷師に、雲消すべく頼みき。


 罰当たりな村のわたりに怒りし祈祷師は、分厚き雲に、なほ大きになるべく祈りを捧ぐ。

 世間一帯の雲取り込み、分厚き雲は、いとど巨大になりき。


 村のわたりはこうじ果て、祈祷師をいとどあるじし、けしきを取る。

 けしきのよくなりし祈祷師は、雲に消ゆべく祈りを捧げき。


 されど雲は消えず。大きになり続けき。

 その村は、すがらに大雨に見舞はるべくなりき。

 大雨がために村よりいづることすらえずなる。


 その“蠢きき雲”は、とこしへに空に浮かび、村に影落とし続けき。


 空を気疎がりし村のわたりも、空を操らむとせる祈祷師も、生涯空になやむことになりき。


――――――


 おんりーらぶ!?


――――――


 自分の精神状態はいたって正常。なんの問題も無い。


「落ち着きなさいシャロッテ。……ほら、だいじょ……、落ち着くのよ……!!」


 『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージは鉛のように重い足を強引に動かしていた。


 このドラクラスの物資補給のため、そして“引っ越し計画”のため、このネーシス大運河の近辺には村ほどの規模の拠点が20もある。

 どこも似たような造りで、大運河の川を引いて作られているのだが、そのせいで、天候から受ける影響が大きい。


 もともとこの近辺は昔から雨量が極端に少ないらしく、短期的な拠点ということから、運否天賦に左右される天候といえども影響は軽微と思われていたのだが、一昨日辺りから空模様がよろしくない。

 ドラクラスの魔導士が、ひとつの拠点を担当しているカトールの民の代表であるカルド=カトールが感じ取った異変は緊急性が高いものと判断し、他の拠点でも同様に設備の再点検が行われることになったのだ。


 そこで、安全なドラクラスで希少な休日を満喫しようとしていたはずの、拠点維持のためのキーパーソンであるシャロッテは、その翌日から、本来の依頼である村を空け、一日中他の拠点の調査に駆けずり回ることになったのだった。


 ようやく元の村に戻ってきた明くる日。

 度重なる労働に身体中が悲鳴を上げ、天気は崩れかけていて鬱陶しいが、シャロッテは、そんなことは気にもならなかった。


 一昨日。

 この『智の賢帝』にあるまじき、とんでもない醜態を晒したのだ。


 ヒダマリ=アキラという勇者様。

 温厚で、のんびりとしていて、そして、彼の仲間には強い執着を見せる人物。


 彼は、無駄とは言わないまでもあくまでサブプランでしかない魔門破壊にその仲間たちが命を懸けていると知り、強い感情を露にした。


 今思い出しても顔から火が出そうだ。

 そのとき目の前にいたシャロッテは、強く感情が揺さぶられた。

 森羅万象あらゆることに精通し、常に冷静沈着なこの『智の賢帝』が、子供のように泣きじゃくってしまうとは。

 ぼんやりと、日輪属性の人の心を開かせる力というものがあるらしいことを思い出したが、じゃあ仕方ないと割り切れないほど無様だった。

 しかも、当然のことだが、その醜態を彼に見られてしまっているのだ。


 彼の依頼は、昨日までである。

 常に悶え続ける心を狂ったように働くことで抑え込み、ようやく戻ってきた今日は、ドラクラスに戻る前のひとり作戦会議を開く予定であったのだが、先ほど、馬車の駐車場で聞いたところ、ヒダマリ=アキラは未だにこの村に留まっているという。


 どくりと撥ね、そして悶える心を抑え込み、シャロッテは、彼が滞在しているという拠点の宿泊エリアへ向かっていた。

 合わせる顔が無いが、避けていると思われるのも避けたい。


 素知らぬ顔で、いや、知らぬことなどないのだから見透かしたような顔で、シャロッテは、数坪程度の、彼が寝泊まりしているという小さなログハウスの扉の前に辿り着いた。


 じっと立つこと数分。

 シミュレーションは完璧なものとなった。

 ありとあらゆる状況を考え尽くし、シャロッテは、恐る恐る薄い扉をノックした。


 すると。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!!」

「! 入りますよ!」


 応答の代わりに悲鳴が聞こえ、シャロッテは慌ててログハウスに飛び込んだ。

 入れば即座に向こうの壁が目と鼻の先にある、寝るだけの小さな室内の中央に、件のヒダマリ=アキラと、彼についてきたイスカ=ウェリッドが座っていた、というか。


「なにこれ」


 肩揉みでもしていたのだろうか。

 イスカが足を投げ出して座り、両腕を前へ突き出している。

 一方アキラはその後ろに膝で立ち、彼女の肩に手を置いていた。


「ん? シャロッテ! お帰り? でいいのかな。……なあ聞いてくれよ、イスカが信じられないくらい身体固くて」

「ぐ。最低限の可動域があれば人間は生きていけるんです……!」


 どうやらふたりは前屈をしようとしていて、アキラは後ろから押していたらしい。だが、イスカの腰はほぼ90度のまま動いていないようだ。


 状況を見通した上で、『智の賢帝』の頭は理解を拒んだ。

 なにやってんだこいつらは。

 自分が羞恥に悶え、それでも仕事に奔走していた間も、彼らはこんなことばかりやっていたような気がして、普通にキレそうだった。


「何の儀式です?」

「流石! よく分かったな。ちょっと遠視をしようとしていて」


 震えながらも適当に言ったのだが当たってしまった。

 シャロッテは偶然を好まない。むしろそうした偶発性を排除することを本懐とする。

 だから、そういうのじゃない。そういうのじゃないのだが、ちょっと嬉しいのがまた腹に据えかねる。


「……って遠視? 遠視がそれとどういうつながりが?」

「イスカもういいよ。そろそろどいてくれ」

「……旦那様。ちょっと外に出て行ってもらえますか。今、ちょっと、その」

「動けないのか? 悪い悪い、……というか俺、全くと言っていいほど力入れていなかったんだけど」

「ぐ。ぐ。ぐぅ……!!」


 アキラに見えない位置で、イスカが悔しそうに表情を歪めた。

 前に話をしたとき、イスカはアキラを見返したいようなことを言っていた。その辺りが絡んでこんな妙なことになったらしい。

 それほど深刻なダメージを受けたのか、イスカは生まれたての羊のように足を震わせながら立ち上がる。

 見栄を張ろうとして何やら失敗したらしいが、今のシャロッテに他者に気配りする余裕は無かった。


「あの」

「ああ悪い。なんでこんなことを、だっけ。ええとだな、……なんでだろう?」


 “しきたり”上敬意をもって接する必要のある“勇者様”だが、ぶっ叩いても許されそうな気がした。

 シャロッテは小刻みに頭を振った。疲労のせいで、もろもろ制御が外れているかもしれない。

 日輪属性の力を輪をかけて受けることになる。

 シャロッテはじっとアキラの顔を見つめ、少しでも落ち着くためにため息を吐いた。

 こちらが一昨日の失態にあれだけ苦悩していたというのに、その元凶はやはりのんびりとしているように見える。


 今も悶えているイスカは言った。彼は仲間のこと以外どうでもいいのだと。

 こういうところがそう思わせるのかもしれないし、事実そうなのかもしれない。


 だがやはり、いつ会っても彼から受ける印象は変わらなかった。

 気恥ずかしいが、自分は彼を好ましいと思ってしまっているのは事実と認めている。

 会うだけで少し疲れが忘れられたような気がした。我ながら愚かなものだ。


「そうだ、俺がストレッチしていたときにイスカが来て、身体固いですねって言ったんだよ。で、やってもらったら、石だった」

「シャロッテ。人が人のペースでやろうとしていたら、いきなり押してきたの。どう思う?」

「悪かったよ。でも人を笑うように言ったからちょっとむっときてて。押すどころか触れることすら駄目ってレベルだとは思わなかったんだ」

「いいえ、割としっかり押しました。それに、旦那様も大差なかったじゃないですか」

「割としっかり差はあったよ。それに俺はちゃんと笑いは堪えているだろう」

「また馬鹿にする!」

「また?」


 もう遠視とやらの話は忘れた方がいい気がした。どれだけ訊いても本筋に戻れる気がしない。


 ここはアキラが寝泊まりしているという。

 開けたままなのもどうかと思い、少し緊張しながらシャロッテは扉を閉めた。

 姿勢を正して座ると、見上げる形になった小さな窓の向こうの空は、しっかりと曇っている。


 やはり雲行きが怪しい。

 昨日ふたりに何があったのかは知らないが、妙に打ち解けているような悪寒もした。


「そうだシャロッテ、お疲れさま。なんか他の拠点に行ってたんだって?」

「え、ええ。急なことで人手が足りなくなってしまい、お話も出来ずすみませんでした。……ところでアキラ氏。何故ここに? 依頼は昨日まででは?」

「一応この拠点でも仕事が増えたってのもあるけど、シャロッテが戻ってくるまではいようかと。……まあ、その」


 アキラは、照れくさそうに視線を外して呟いた。


「勝手に帰るのもどうかと思ってさ。話聞いたとき、一緒にいるって言っちゃったし」

「ふ、……ぐふっ!?」

「シャロッテ!?」


 口元が緩みかけ、シャロッテは拳で自分の胸を強打した。

 『智の賢帝』が膨大な知識を駆使して編み出した、また不用意に感情が揺さぶられかけたときの解決方法だ。

 未だに足を震わせているイスカがアキラに、恐ろしいものを見たように青い瞳も震わせていた。


「ふ、ふぅ、ア、アキラ氏。助かりました。先ほど聞きましたが、どうやらこちらの拠点は問題なくなったようで」

「あ、ああ。なんか運が良かったみたいで魔物も出なくて、あっさり点検も哨戒も終わったよ。……え。なんか怖いんだけど。さっきの自傷は触れない方がいいのか?」


 シャロッテが瞳で射貫くと、アキラは大人しく視線を外した。

 その視線の先、ようやく回復したらしいイスカが姿勢を正して座っている。先ほどまで満身創痍だったにも関わらず、同じようにしているシャロッテより品があるように感じた。

 ちょっとした所作が上品に感じるのは、流石名家のお嬢様、というところだろう。記憶にある『雪だるま』の出自の裏付けになった。


「そうだアキラ氏。……それとイスカ嬢。確か入り用だとか」

「報酬!」


 一瞬自分の記憶が揺らいだ。

 事務的なことを済ませようとしたシャロッテの言葉に、イスカが青い瞳を輝かせる。

 お金はとても大事なものなのに、素直に手を伸ばそうとすると白い眼を集めてしまうのは人間というものの習性を正しく表しているとシャロッテは思う。

 イスカは顔を真っ赤にしながら伏せているが、一方アキラは、今思い出したように顔を青くしていた。


「そ、そうだ、そうだよ。俺たちそのために……、やば、のんびりしている場合じゃなかった……!」

「まあ私の場合、実入りがあることだけが重要で、タイムリミットはさほどシビアではないですけどね。直りさえすればいいんですよ、噂もどうにかしたいとか言ってる旦那様と違って」

「こいつ……」


 やり返したと言わんばかりにイスカが顎を上げる。

 ふたりには共通認識があるようだが、ろくでもないことだという確信だけはあった。

 それよりも、やはり随分と気易い関係になっているような気がする。


 というより、イスカのアキラへの理解度が上がっているように感じるのだ。

 相手がどこまで自分の言動を許してくれるかというのは、人付き合いの重要な要素だ。

 それは明確に言語化できず、共に時間を過ごして互いに探っていくしかないものである。


 そして依頼が終わった今、彼らはドラクラスに戻り、自分はまたドラクラスの別の仕事をすることになるだろう。

 柔らかくも言い合うふたりを見ていると、このままこの場を去ると後悔するような気がしてくる。


 シャロッテは、強めに咳払いをした。


「ドラクラスに戻る前に、依頼書に印をもらってきてくださいね。ここに戻ってくるのも手間ですので。依頼主は魔導士隊ですので、カルド氏ではないことにご注意を」

「分かった、ありがとう。じゃあ早速、」

「ところで」


 アキラの言葉を遮って、シャロッテはじっとイスカを見据えた。


「昨日こちらで何がありました? 状況把握はしておきたくて」

「え? シャロッテならもう聞いたんじゃないのか?」

「ああそうですね、ではアキラ氏が何をしていたか伺いましょう」

「それをなんで私を見ながら言うのかしら……?」


 意識してみると、確かに日輪属性の近くにいると、普段は理性で抑え込んでいる感情が増幅しているという妙な感覚がした。というより、親しい相手にしか見せないような自分の一面を晒してしまうことに抵抗が無くなるような感覚だ。

 身構えるような緊張がなくなるというか、無意識レベルで行動してしまうのはこういう精神状況のときである。

 しかし不快ではない。


 属性の相関ももしかしたら関係するのかもしれないが、噂に聞く日輪属性の心を開かせるという力は、通常時間がかかる、心の距離を詰める工程を短縮するようなものなのかもしれない。

 その先に覚えるのが好意か悪意かは、日輪属性本人の問題なのだろうが。


 そうしたひとつの可能性に辿り着き、シャロッテはイスカを見据えた。

 自分が1日いないせいで、ふたりだけの時間が増えたのだろう。

 つまり共に過ごせば過ごすほど、心の距離が近い状況でのやり取りが増えることになる。

 そうなれば、良くなるにせよ悪くなるにせよ、短い時間で関係は進む。


 ただそれでも、依頼もこなしながら僅か1日となると妙だ。

 違和感を拾ったシャロッテの聡明な頭脳は、自分が必死に働き回っていたのに和気あいあいとしている目の前のふたりに怒れと命令を下した。

 日輪属性のせいなので、シャロッテのせいではない。


「昨日は、一昨日に点検は済んでたこともあって、哨戒というか見回りというか。でも特になんもなかったから、午前中とかで終わったよな? で、イスカと村を周ったり、話してたり、……ああ、そうそう!」


 アキラが思い出したように手を叩いた。

 ちらりとイスカを見ると、得意げな表情を浮かべている。

 “あれ”、か。


「『プロジェクト:アーティ』」


 不穏な言葉が、軽々しく出てきた。

 アキラが口にしたその“何か”を、シャロッテも、一昨日イスカから聞いていた。


「シャロッテに教えてもらったやつ、イスカが知ってたんだ。マジで聞けば何でも出てくるよ、すごいよな」

「まあ、旅は長いですからね」


 そっけなく言うも、イスカの気分が最高に良くなっているのを感じ、何が起きたか想像できた。

 この男のことだ、イスカの話を聞きながら、感心し切ったような様子で相槌でも打っていたのだろう。

 アキラを見返したいようなことを言っていたイスカにとっては、それはそれは気分のいい時間だったはずだ。

 自分も似たような時間を過ごせていたはずだったのだが、流石にイスカの話を横取りする気にはなれなかった。


「シャロッテも知らなかったんだよな?」

「旦那様。シャロッテには、」

「ああそうでしたね。お伺いしても?」


 イスカが座った目をシャロッテに向けてきた。

 シャロッテは一瞬後悔したが、言った以上は引っ込みがつかない。

 『智の賢帝』としては恥だが、知らぬ存ぜぬで通し、話を引き延ばしたくなった。


 もちろん。

 浮ついた理由だけではない。


「じゃあイスカ、頼めるか?」

「え、ええ」


 イスカから緊張を感じた。

 一度話した相手で、それも『智の賢帝』だ。

 記憶違いやちょっとした言い間違いもシャロッテは気づける自信がある。

 もっとも空気を呼んでくれたのだ、指摘する気はなかった。


「『プロジェクト:アーティ』は、多分“教育プログラム”のことですね」


 イスカ=ウェリッドの口調は、さもあっさりとしたものだった。


 だがシャロッテは、眉を顰めかける。

 今この場で指摘する気は無いのだ。


「私の、その、父親ですが、もとはヨーテンガース出身だったそうで。小さい頃、家で見つけた資料にあったんです。『プロジェクト:アーティ』と銘打たれていた“計画”が」


 幼き頃の記憶だ。どうしても曖昧なものだろう。

 だが所々に出てくる言葉が堅く、それがイスカの緊張から来るものなのか、原文からの引用なのかまでかは見通せない。しかしシャロッテの感性では、恐らく後者だ。


「今から、だと、……ええと、大体20年くらい前? ですかね。ヨーテンガースで、有志の人を集めて、なにやら教育を行ったそうです。子供をたくさん集めた勉強会みたいな感じですかね? まあ多分、魔術的な作法というか、そういう英才教育的なものだと思うんですけど」

「あのふたりからそんな話聞いたことは無かったけど、まあ、たまたま名前が同じってだけかもしれないし、そもそも子供の頃のことだしな」


 イスカの話はシャロッテが一昨日聞いた話とほとんど同じだった。

 今からおよそ20年前。

 イスカが幼き頃に見つけた本には日付が記載されていただろうが、記憶頼りな上にいくらか計算も入った上での曖昧な過去ではある。


 “だが”。


「しかし、なんでアーティ? アーティって名前の人しか参加できないとか?」

「昨日も言いましたけど、一応あり得ますよ。名前に意味を見出す人たちもいますし」

「あー、名前がなんかどうこうって話はちょいちょい聞くな、そういうこともあるか」


 シャロッテが確認したかったことはできた。

 気にしていたのは彼らの理解度である。


 一応このふたりはぼんやりとした疑問を持ってはいるものの、これ以上は深追いしなさそうだ。

 仲間のことで、関心を示していたアキラも、大満足しているイスカには悪いが、大したことは無く肩透かしだったような表情を浮かべている。


 イスカ=ウェリッドに聞いたところ、『プロジェクト:アーティ』とは、かつてヨーテンガースで行われた“教育プログラム”だそうだ。

 かの『数千年にひとりの天才』や『破壊の魔術師』、そしてドラクラスの『代弁者』と、アーティの姓を持つ者は全員“異常者”である。

 彼女たちはたまたまアーティという姓を持っているのか、それとも『プロジェクト:アーティ』の関係者なのかまでは分からないが、そもそもアーティについてシャロッテが知っている言葉がそれしかないだけだ。

 まるで関係のない話の可能性もある。


 ただそれでも、とりあえず答えに辿り着いたアキラも、アキラを見返すことができたらしいイスカも、どちらも喉に引っかかっていたものが取れたように、溜飲は下がっているだろう。


 だから。

 問題はここから“先”だ。

 シャロッテは自分がどうするべきかを考えた。


 おぼろげなものだが、やはり気になることがある。

 君子危うきに近寄らず。

 はっきり言ってここで目を逸らすべきであろうが、気になったこと、気になってしまったことを徹底的に追求してきたからこその『智の賢帝』である。


 シャロッテは目を細める。

 少なくともこれ以上は彼らには荷が重い。

 安全着実に調査を進めるシャロッテは自分の身を守れるが、軽い気持ちで進む彼らでは、下手に藪をつついて出てくるものを対処できないかもしれないのだ。


 そして調べ切った上で、安全を確認し、ゆっくりとアキラと語らうというのも悪くない。

 自分は気の利く女なのだ。


「まあ、覚えているのはこんなところです。ドラクラスに戻ったら、父の資料をお見せしますよ。売れ残ってずっと手元にあったので」

「聞いてない!」


 シャロッテの声にふたりはびくりとすると、アキラがこちらを宥めるように手を上げた。


「も、もちろん、シャロッテにも見せてもらえるよな?」

「ええ、それは。……なんだかどんどん自信がなくなってきます。持っているはず、ですが、ええと、多分あの鞄に丸めて放り込まれている、はず」

「……」

「ああそう、シャロッテも知っている通り、俺たち家買っただろ? ぜひ招待したい」

「わあ! ……ぐふっ!?」

「!?」


 そういうことではなかったのだが、そういうことになった。

 自らの胸を強打し、精神を整えると、自分の腰が浮いていることに気づく。

 あやされているような気もしたが、そうなると、面倒なことの一切を忘れ、念願の休日を彼の家で満喫するのも悪くない。

 なんとなくこの村にいるのを引き延ばそうとしていたが、今は時間が惜しくなってきた。

 彼の家への興味も強いが、最低でも『プロジェクト:アーティ』が、そもそもの話、安全なものかそうでないのかは見定めておきたい。


「で、では。早速ドラクラスに戻りましょうか。私は少々カルド氏と話すことがありますので、後ほど馬車のところで。いえ、さほどお待たせしません」

「お、おう……。じゃあ、……?……、」


 アキラが、立ち上がろうとしたのが分かった。

 しかし急に動こうとしたせいだろうか、立ち眩みでもしたようで、両手を床に突く。


「アキラ氏?」

「では、私も荷造りをしてきます。ふ、ふふ。シャロッテ、本当にありがとう。延長にもなって、何とか賄えるかも」


 天候崩れの緊急対応に、シャロッテがこの場を離れたことでの延長料もあったろう。少し癪だが、シャロッテの推薦であるともなれば特別な手当ても出るかもしれない。

 珍しく魔物も出なかったらしいし、彼女にとっては楽に大きく稼げた美味しい依頼だったようだ。

 口元を緩め、青い瞳を輝かせたイスカが上品な所作で立ち上がると、座り込んだままのアキラに一礼した。


「旦那様、失礼します」

「ああ、シャロッテを頼んだ」


 そこで、アキラが頭を振りながら、また、座り込んだ。


「頼んだって、旦那様も行くんですよね?」

「……え。……ああ、そうだ、そうだけど」

「アキラ氏? 体調が優れないのですか?」

「あれ……? そうかもな。風邪でも引いたか……?」

「珍しいですね、日輪属性って風邪引きにくいとか言っていませんでした?」

「は、はは、そう、だな」


 イスカも呆れた様子でありながら、身を案じているようだった。

 恭しく座り、俯くアキラの肩に手を置く。

 熱を測ろうか決めかねているように見えた。


「アキラ氏。医者を呼んできますが、とりあえずは大人しくしていてくださいね」

「悪い。でも大丈夫、だ。……あ、そうだ、俺」

「旦那様、下手に動かない。さっきだって似たようなことあったじゃないですか」


 不謹慎だが、少しだけ嬉しそうにイスカが叱るように言った。

 アキラはおぼろげな瞳でぼんやりと小さな窓を見つめる。

 顔色はそれほど悪くない。

 眩暈がしただけ、というようにも見えたが、流石に見た目だけで決めるのも愚直だろう。


「さっき?」

「ええ、ほら、ストレッチをしていたときも、少し」

「……聞きそびれていましたが、遠視がどうこうとか言っていましたね」


 アキラを見ると、目は座っているが、いつも通りの様子に見える。


「いや、最近ちょっと眩暈が多くて。寝不足なだけだと思う。変な夢見るからかもな。……そうだ、やらなきゃ、俺、遠視だ。それやろうとしてたんだよ」

「それで柔軟体操を?」

「ああ、最近フェシリア……、魔法に詳しい人に色々聞いてて。まあ、条件なんて分かんないから、身近なところで、緊張したり、リラックスしたり、自分の状態を変えて試すのがいいかも、とか教えてもらって」


 たどたどしい説明だったが、魔法についても知識としてはあるシャロッテは言わんとすることが分かった。

 魔法は人やモノ、そして場所などを“条件”に発動するという。


 どうやら時間が浮いた依頼となり、彼は空き時間にも色々試していたのだろう。

 そんなことをしているから夢見が悪くなっているのではと勘ぐったが、口出ししていいことでは無いような気がした。


 彼が遠視をしたい理由とすれば、恐らく“あれ”だ。


「アキラ氏。その様子では今日は控えた方がいいでしょう。一旦ドラクラスに戻り、ご自宅でゆっくり過ごすのがよろしいかと」


 シャロッテは他意無くそう言った。

 彼の家に招待されるのも悪くなかったが、控えるべきだろう。具合が悪いのに押しかけるほど不躾ではない。

 こちらが退屈な休日になるだけのことだ。


「じゃあ、その、私がどうにかします。さあ旦那様、立てますか?」


 イスカもやや世話を焼きたさそうにしていたが、流石にこれ以上は嬉しそうな表情を浮かべるのは控えたらしい。

 しかしアキラは何やら峠を過ぎたように熱い息を吐き、そしてまた、窓の外を見た。


 先ほどまでのぼんやりとした視線。

 そのはずなのに、シャロッテには見えないものに焦点が合っているような、言い表せない瞳だった。


 まるで。

 “ここではないどこか”を見ているかのような。


「……俺は残って、ここで遠視をするよ」

「旦那様。……いえ、強く言いますよ。大人しく休みなさい。やるにしてもフェシリアさんがいた方がいいでしょう」

「そりゃそうだが、移動している時間が勿体ない」


 アキラが気にしているのは間違いなく、彼の仲間が参加している“魔門破壊”だ。

 彼からすれば、参加できずとも、あらゆる手段を駆使して様子は見たいだろう。

 日輪属性に不可能は無いと言うが、遠視などという再現性の低いものに縋っているのも、彼らしいと言えば彼らしい。


 だが、不調ならば今日は控えるべきだろう。

 シャロッテの試算では、魔門破壊の“本番”はまだ始まっていない。

 多少のトラブルを考慮しても、『名前のない荒野』の中央、つまりは魔門のエリアに到着するまで、あと2,3日は猶予がある。


 すると、アキラが、こちらを見据えてきた。

 まるで今からシャロッテが何を言うかすら見通したかのような、彼らしくない、瞳だと感じた。


「いや、“今日なんだ”」


―――***―――


 日常と戦場は時として入り混じる。


 子供の頃の想像力は無限大で、普通に通っていた学校に目的不明のテロリストが押し寄せたり、もっと幼き日に遡れば車で移動中、建物から建物に移動する忍者のような存在を空想したりと、日常に溶け込む異常を当たり前のように思い描いていた。

 雲は念じれば想い通りに動き、今よりずっと小さいはずの手は空に届き、三日月は端を掴んで振り回せそうで、夜空に浮かぶ星々は掴み取れる金平糖だったのだ。


 大人になれば、常識を、科学を、そして論理を知り、いつか思い描いていた非日常は薄れ、眼前に広がる日常に躍起になることになる。


 だが。

 この異世界の冒険では、気を緩める日常と気を張る戦場は、現実のものとして隣り合わせであった。


 思い描いていたものは、起こって欲しいこととはそのまま繋がらない。

 そんな空想と現実の狭間のような異世界では、空想とも言えるものでも考え続け、現実の問題として対処しなければならない。


「イオリン。じー、っとこちらを見てください」


 ただ歩いていただけで、通り魔に遭遇した。

 きっと失礼なのだろうが、彼女の曇りなき瞳は、自分の幼き頃に見えた空想を映しているような気がする。


「やあアルティアご苦労様。……君の目が赤く見えるけど」

「ティアにゃんですけ……、え、ええっ!? そんな、あっし、ど、どうしましょう、キュルルンッ、今夜も作戦会議をお願いできますか!?」

「その前にわたしも寝不足になっている落とし前を付けて欲しい」


 日差しの弱い昼前。

 ホンジョウ=イオリは現れた子供ふたりを適当にあしらいながら、設置された魔導士隊の集会所へ向かっていた。


 あれから2日。

 第1の拠点の壊滅、そして『最古の蛇』の出現により、ドラクラスの魔門破壊計画は最初から大きく躓くことになった。

 その結果、身の危険を感じた民間人や参加者の旅の魔術師の離脱が相次ぎ、計画の規模は大幅に縮小、魔門破壊自体が困難に陥ってしまい計画破綻、とは、“ならなかった”。


 多少の離脱者は出たものの、全体の2割にも満たない程度で、計画自体は問題なく続行している。

 第1の拠点の再建は迅速に実施されたらしく、今度は大幅な警護強化の元、作戦通りに運用されているらしい。

 それを足掛かりに第2の拠点にも増員が届いたらしく、昨日その知らせを聞いた魔導士たちは、ほんの少しだけ肩の荷が下りた表情を浮かべていた。


 ここは第3の拠点である。

 一時的な物資の減少から一昨日は馬車で寝泊まりすることになったが、昨夜到着したこの小高い岩山の麓に構築された拠点は流石の仕上がりであった。

 『最古の蛇』の出現以来、先行きの不透明さを表すかのように天気には恵まれていないが、今日は休息日である。各々移動の疲れを取っているだろう。


 今にしては、だが、作戦自体は成功している。

 最初の拠点の壊滅という計画自体を脅かす事態に、悲観的な考えが場を支配したが、この方法自体は有効だ。

 『名前のない荒野』のそもそもの問題は、未開の地であることである。“禁忌の地”でも似たような作戦が考えられたこともあるが、あちらと違い、こちらは魔物対策の罠などが“通用する”。

 ドラクラスの資金力が前提となるが、各所にセーフエリアを構築していくのは、その根本的な問題を軽減できるのだ。


 とはいえ、そうした計画が成立するのは、それを実行する人間がいてこそだ。

 離脱者が少なかったのが作戦継続を成り立たせている。

 その成功は、参加者に真摯に向き合い、全員に正確な状況把握を求めたアラスール=デミオンの功績とも言えた。

 そもそもヨーテンガースの南部にいて、魔門破壊計画に手を上げたような者たちだ。彼女にそうした打算があったのかは知らないが、下手に隠し事をするより真摯な態度を見せた方が勝算は高かったのだろう。


 あの襲撃を皮切りに、移動中でも魔物の襲撃がときおり発生するようになったが、単純に自分たちが深部に入り込んできているだけだ。

 出現する魔物もそれなりに強敵だが、ヨーテンガースの他の地域でも見かけるような魔物たちだ、この面々であればさほど脅威ではない。


 気がかりなのは、あれから『最古の蛇』の襲撃が無いことである。

 今どのような姿をしているかは知らないが、奴は今も、この『名前のない荒野』に生息しているだろう。


 しかしそれは、こちらの布陣に隙が無いと好意的に捉えることもできる。

 この話を聞いたアルティア=ウィン=クーデフォンが散々怖がり、しかし積極的に周囲の人間の様子を見て回っているのも、『最古の蛇』の手口からすれば邪魔でしかないだろう。

 彼女の交友の広さも大きくプラスしている。


「……ひ、ぃぃぃ……」


 適当にあしらったそのティアが、『最古の蛇』の話を聞いたとき以上に震え上がっているのが遠目で見えた。もしかしたらその生命を終えようとしているのかもしれない。


 通りかかったエレナ=ファンツェルンに何をしたのか、彼女の前で、まさに蛇に睨まれた蛙のように直立している。

 関わらないように視線を外す前、こちらをぎろりと睨んでくる、エレナのバディであるシーン=アーチと目が合った気がした。

 エレナに付き従っているようで、周囲を探り続ける彼の様子は気になるが、ひとりで行動することが極端に少なくなるこのバディ制も、結果として『最古の蛇』対策になっているようだ。


 ドラクラスは“正解”を引くという。

 最初に計画を聞いたとき、随所に穴があるような気もしていたが、結果だけ見れば発生した問題に適応した布陣となっていた。

 出鼻を挫かれたものの、今となっては、『最古の蛇』の存在を早期に知れたと解釈もできる。

 早期発見の利は、あのとき出た意見でもあった。


 シーンのことを言えないが、イオリも周囲の人間を舐めるように見渡した。

 この場には、参加を継続してくれた民間人や、作戦当初から継続して進行に参加する魔導士隊の者もいる。

 休息とはいえ一定の緊張感があることは感じるが、それでも多少は肩の力を抜けている者も多そうだ。


「……ぁ、っと」


 落ち着かないのか、魔導士隊へ協力すべく、拠点を巡回していたらしいエリサス=アーティと目が合った。隣には、彼女のバディであるカタリナ=クーオンが気の抜けた顔で付き歩いている。

 エリーは表情を正し、一礼すると、緊張した様子で歩き去った。

 口に手をやっていたから、欠伸でも出そうになっていたのかもしれない。

 別に構わないというのに。


 この依頼。様々な人がいる。

 ティアのようにいつもの様子と変わらない者。

 エレナのようにそもそも依頼についても話半分でしか聞かず、適当に過ごしている者。

 そして、エリーのように真剣に依頼に向かい合おうとしている者。

 だがエリーは、長期の依頼というのもあるだろうが、気の抜けてしまうときもあるようだ。

 もちろん彼女に限らず、民間人はおろか魔導士隊にも、注意力散漫な者もいるだろう。


 “だが、それは問題ではない”。

 気の抜けてしまう自分をエリーは戒めているだろうが、重要なのはそこではないのだ。


 魔導士隊の依頼。ドラクラスの計画。

 サブプランとはいえ難易度の高いこの依頼、真摯に向き合うことが正義であろう。

 だが、要求されるのは“成功”だ。


 余計な思考を排除して目の前の依頼に集中する者、余計なことばかり考えて注意力が散漫となる者と様々だが、後者の方がパフォーマンスを出せる人間も存在するのだ。

 何が違うかと言えば、“失敗”したとき、後者の方が強く責められることである。


 要するに、話を聞かなかろうが集中していなかろうが調子に乗っていようが、成功すればそれでいい。だが、失敗すればただの馬鹿と非難されるのだ。

 安全第一に目を背け、作戦の継続を選択した自分たちも、成功すれば英雄だし、失敗すれば馬鹿の集まりである。


 ゆえに、この場にいるような人間たちの行動に口を挟むことをイオリはしない。

 彼ら彼女らは、それぞれに、自分が最もパフォーマンスを出せる状態でいるだけかもしれない。

 彼らが“正答者”であることを願うばかりだ。


「待たせたかな」

「あーらイオリちゃん。今来たとこよん。……見回り先で魔物が出やがったせいでリアルにね」


 魔導士隊の集会所に辿り着き、テントの仕切りから中を覗くと、集会所とは名ばかりの、人が5,6人も入れば立つ羽目になる、手狭な会議室が見える。

 その奥、この作戦の指揮を執っているアラスール=デミオンが中央に置かれた机に頬杖をついていた。


 日常と戦場が入り混じった匂いのする彼女。

 イオリが捉えるこの異世界の姿そのもののような女性だ。


 直近では拠点の再構築の指示に警備体制の編成と、巻き返し不可能と思われるほどの業務量だったはずだが、流石にヨーテンガースの魔導士、いや、流石にアラスール=デミオンと言うべきか、僅か1日で決着させ、この作戦を軌道に乗せてみせた。

 それと同時に、人員が不足した魔導士隊としての実働も行っていたのだ。

 魔導士といえど、超人ではない。だが彼女は、超人と言う他ないだろう。


 そんな中でも、疲れは見えていたが、彼女の様子自体は変わらなかった。

 これが彼女が最もパフォーマンスを出せる精神状態なのかもしれない。

 役職や能力からして証明されているが、この世界に最も適合しているとも言える。


 イオリは、と言えば。


 自分が最もパフォーマンスを出せる状況を把握している。

 集中も散漫もフラットに、どちらも等しくバランスを取れている精神状態が自分のベストコンディションだ。

 成功だけに集中し過ぎて楽観的になることや、逆に様々な失敗を危惧して悲観的になることは極力避けている。

 その上で、感情を捨てて思考する。

 自分すらも、彼女たちですらも盤面上の駒として俯瞰的に捉え続け、戦局を安定させることを優先しつつ、“どこでリスクを踏ませるか”を機械的に考えるのだ。


「……楽しい話じゃないみたいね?」


 手前の席に静かに座り、イオリは持っていた紙束を置いた。

 表情に浮かべていたつもりはなかったが、アラスールは機敏にこちらの様子を察したらしい。

 計画の再建に奔走していたアラスールたちには相談せず、独自に検討していたのだが、“辿り着いた結論”は、流石に耳に入れておく必要があると思い、イオリが彼女を呼び出したのだ。


「……あら?」

「僕が呼んだんだ。入ってもらっていいよね」


 外に人の気配を察知したアラスールが、訝しみながら頷く。

 テントの外から、アルティア=ウィン=クーデフォンの顔馴染みである、ホワーグ=ヘッジとパイン=キューマが入っていた。

 この男女は、過去、モルオールで活動していた旅の魔術師である。


「こんにちは、アラスールさん。俺は、……おおっ、……づうっ!?」


 にこやかに微笑む好青年、といった様子のホワーグは、身を屈めたことで、アラスールの服が緩んだ胸元を見下ろす形になっていたらしい。

 機敏に察知したアラスールが慌てて胸元を正し、パインが迷わず踵でホワーグの足を撃ち抜いた。

 もんどりうちかけたホワーグだが、倒れ込むように椅子に座り、恨めしそうにパインを睨む。

 背まで届くストレートの髪が印象的なパインは、そのホワーグの対面に座り、聖母のような笑みを浮かべた。


「お待たせ。不埒な輩がいた気がするけど気にしないで、なーんて。アラスールさんよね? 私はパイン=キューマ。……それでイオリさん、話ってなに?」


 ふたりの仲に口を挟むのも野暮だろう。

 ティアが懐いているだけはあって、茶目っ気のあるふたりだった。

 アラスールはやや恨めしそうな表情をしているが、断りもせずに人を呼んでいたイオリは、気にもせずに資料を広げた。


 日常と戦場は入り混じる。

 さあ始めようなどという号令は存在しない。

 ゆえに日常の中、仮定に仮定を重ねた問題であっても、それに備えることもまた正解になるかもしれないのだ。


「今さら他言無用とは言わないけど、現段階から“特定の4人”の編成を考える必要があるかもしれなくて」

「? この4人ってことかい?」

「いいや?」


 ホワーグの質問に答える前から、対面のアラスールは何となく話が見えていたらしい。

 僅かに目を細め、頭を抑えていた。


「推測ばかりで申し訳ないけど、頭から話そう。……まず」


 イオリが広げたのは『名前のない荒野』の簡易的な地図だった。

 未確認のエリアばかりで落書きに近いが、それなりの距離は分かる。

 この第3の拠点は、“外”からおおよそ120キロの進行地点に構築されている。

 『名前のない荒野』の直径は500キロほどあり、魔門はその中央付近にあるらしく、進行状況としてはおよそ半分だ。


「『最古の蛇』が出現したのは最初の拠点だ」


 最初の拠点は、外から直線距離で約60キロ。

 迂回や哨戒もあり、慎重な進行だったが、魔物が出ないこともあり、面々の表情は明るかったのを覚えている。


「ところで、前に話した仮説だけど、魔門がすでに僕たちを察知している可能性があるって話は覚えている?」


 『最古の蛇』が『名前のない荒野』に生息していたとは考え辛いことから立てた仮説だ。

 しかしあれから、別段何も起きていない。

 アラスールをはじめとした魔導士たちは拠点の立て直しに奔走し、警戒しつつも優先順位を下げていただろう。

 たまたま『最古の蛇』が居合わせた可能性もゼロではない。

 察知されていないことに越したことはないのだから、ある種楽観的な思考から、誰もが頭の隅に追いやっていたであろう。

 イオリ自身も察知されていない方が望ましいと思っている。


 ただ、自分が主張した手前、意地になっていると思われかねないが、イオリは念のため、“察知されている場合”を考え続けていた。


「……なるほど。“察知されていたとしたら”、困ったことになっているわね」


 言いたいことは伝わったらしい。

 ホワーグは首を傾げたが、パインはため息ひとつ吐き、イオリが広げた地図の中央に指を刺した。


「“魔門破壊”に来ているのに魔門のこと忘れてたわ、なーんて。……アラスールさんの意見を聞きたいな」


 アラスールはパインに聞かれる前から頭を抱えていた。

 彼女は優秀だ。すべてをそつなくこなし、すべて高水準で達成する。

 だが、例え超人であっても、すべての可能性をつぶさに検討するのは不可能だ。

 特に前提レベルの話になると、根本から思考を変える必要があり、漏れやすい。

 “魔王の弟”の噂や、人に紛れる寄生型の魔物が重大な問題になるのは、前提を覆すという根本的な部分に影響を与えるためなのだ。


「私としたことが、今になっても聞いたことを鵜呑みにしたままだったなんてね。その場合、“察知するにしても早すぎる”、ってことね」


 以前、イオリたちが参加したアイルークの魔門破壊。

 正確な距離は忘れたが、100キロにも満たない距離から襲撃をしたのだ。

 アイルークの魔門と同じというわけではないだろうが、大きな差が無いと仮定したとき、中央にあるとしたら、索敵範囲が広すぎる。


 そして、仮に『最古の蛇』が魔門から“召喚”されたとして、『名前のない荒野』の中央付近から遠路はるばるやってきたとしたら、それだけで数日はかかる。

 となると『最古の蛇』が本当に魔門の“現象”だった場合、魔門は第1の拠点の付近に“召喚”したことになる。

 全く未知の力による事象であれば考えるだけ無駄だが、もし“召喚”という事象ならば、召喚獣使いであるイオリには一家言ある。

 召喚された存在は術者からそう離れることができない。


 ならば『最古の蛇』が魔門に召喚されたという仮説、そして魔門に察知されているという仮説は、やはり誤りだったのか。

 安全という誘惑に引き寄せかけられたが、イオリはあくまでフラットに考え続けていた。

 集まった面々も、“そうでない場合”を追ってくれるようだ。


 パイン=キューマが、顔をしかめて言った。


「“本当に魔門は中央にあるの”?」


 そう。

 “魔門が中央付近に無いなら”、当たって欲しくない推測が成立してしまう。


「ってことはだ。……んん? だとしたらどこにあるんだ? もしかして通り過ぎたか?」

「あり得るかも。魔門の察知範囲が50キロと仮定すると、実は第1の拠点の約50キロ周囲に魔門があった。私たちはそこから離れるように進行している。“だから何も起きなくなった”、っていうのはどう?」


 流石にヨーテンガースを旅する魔術師だ。理解が早くて助かる。


「と、するとだ。3、2、1の順で魔門から遠いってことか? そもそもここすら結構近いことになるが」

「……イオリちゃんの言いたいことは分かったわ。だからこの4人なのね。ケディア=レンダー、アルティア=ウィン=クーデフォン、ホワーグ=ヘッジにパイン=キューマ。治癒担当者の編成を今すぐにでも決めないと、ってことね」


 下手に話せばせっかく収まった混乱がまた再燃してしまう。

 だが、その4人は自覚をもって行動してもらう必要があるのだ。


 治癒可能な人間は他にもいるが、彼ら彼女らの治癒能力は頭ひとつふたつ抜けている。

 魔門へ向けて進行しながら状況を見て検討するはずだったが、すでに魔門が近くになるとなれば話は違う。

 激化する魔門破壊の実施の際には誰が近くにいるべきか、離れた拠点で待機すべき治療者は誰か。前線に出て全滅しようものならアウトだし、拠点に多く残せば前線が壊滅しかねない。


 ケディアも呼ぶか迷ったが、彼女も魔導士としてあくせく働いていた。どうせアラスールには話すのだから彼女から指示してもらった方がスムーズだろう。

 そしてティアにはイオリが伝える。くれぐれも、前線も後方支援もお任せあれっ! という結論にならないように上手く話さなければならない。

 一時的に治癒担当者が減ることになるが、最悪エレナというカードを切ってもいい。


「本筋と並行してイオリちゃんの仮説も検証……いえ、とにかく場所の特定ね。中央付近にも通過したエリアにも斥候を出すべきかしら。もしかしたらすぐに第1の拠点にすぐに戻るべき? ……ちょっと考えさせて。昼までには結論を出すわ」

「状況は何となく分かったが、今日は完全休養にしてくれないか。今までの拠点は手厚い体制なんだろう? 移動とストレスで、みんなくたくたなんだ」


 ホワーグが肩をすくめて呟いた。


 面々の疲労の様子はイオリも見ていた。

 ドラクラスからの移動も含めた僅か数日で、体力にも気力にも影響が出ている。

 第1の拠点の壊滅や『最古の蛇』の出現、というのも影響はあっただろうが、そもそも人間は常にベストな状況を維持できない。

 日を跨いだ移動をするだけでも体調面の不調は勿論、強いストレスにもなるだろう。

 イオリが依頼参加者の様子を常に探っているのはそういう面もある。

 今誰の調子が良く、そして悪いのか。

 機械ではない人間に、常に能力の最高値を求めるのは、それこそ夢物語だ。


 一方、ドライにものを考えるイオリと違い、ホワーグからは、純粋な他者に対する労わりを感じた。

 治癒が出来る旅の魔術師というより、医者のような優しさを感じる。

 パインは頬杖を突き、呆れた様子で、しかし温かい息を吐いていた。


「“楽観的”な方の話はそうなるけど、続きを話していいかな」


 アラスールの仕事を増やした自覚はあるが、イオリの話はまだ終わっていない。

 魔門は中央ではなく別の場所にある。その可能性もあるだろう。

 だが、イオリが思いついていたのは、それよりも悪い可能性だった。


「楽観的? この広大な『名前のない荒野』で、目標物を見失っていることがかい?」

「ああ」


 ホワーグの言葉に、イオリは冷たく言った。

 あくまでフラットにだ。

 “あの煉獄”よりはずっとマシだが、イオリもこの『名前のない荒野』には妙な違和感を覚えていた。


「ところで、非難するわけじゃないけど、最初の移動以降、進行距離が急激に伸び悩んでいる。通行が困難な場所を迂回したり、魔物の襲撃はあったりしたけど、劇的にだ」

「あーらら。それは非難よ。自覚はしているわ。責任者としてちゃんと受け止めます。……でも、私が頭を下げて済む話じゃなさそうね?」

「ああ。それなら、魔導士隊に協力している僕の責任でもある。……ところでアラスール。以前『名前のない荒野』に入ったとき、何故失敗したかはどこまで分析していた?」


 アラスールは目を細めた。

 失敗談だ。楽しい思い出ではないだろう。


「……そうね。私の感性で言えば、……“正解”を引けなかった。そんなところね」

「と、いうと」

「恥ずかしい話だけど、そう、運が悪かった、って言い訳になるわ。極端に荒れたエリアを迂回することになったり、夜を明かす場所を選んだり、天気に恵まれなかったり。そんなときどうするか。迂回ルートや魔物に襲われにくい場所、休憩のタイミング。常に選択肢が並び続けた。きっと選んだのは不正解じゃない。“でも正解じゃなかった”。だから失敗した、ってところかしら」


 アラスールは思った以上に状況を正確に捉えていたようだ。

 『名前のない荒野』は“最難”だという。

 集団行動をしているのだ。失敗とは言えない、ちょっとした選択ひとつで全体の動きが鈍る。そして鈍った動きは累積するのだ。


 複数人の体調が悪ければ即座に休憩するのは決して誤りではない。

 雨に降られたとき、目先に都合のいいエリアがあればその日は早めに切り上げたくもなる。

 疲労が溜まった状態で、近い道より楽な道を選択するのは当然だ。


 アラスールの言葉がそのままだ。

 不正解ではない、しかし正解ではない選択肢を選ぶことになれば、最終的に失敗につながる。


「まあ、言い訳を続ければ、“安全”に終えることが第一目標の演習だったってのもあるわ。そういう意味では成功よ。この数日も同じだわ。小まめな休憩は積極的に取っていたし……、2日目以降と、一緒」


 ホワーグが小さく頷いた。

 彼は一番この集団の疲弊を危惧していたように見える。休憩は大賛成だろう。


 だが、アラスールは眉をひそめた。

 業務に忙殺されながらも、頭のどこかでは、過去の失敗と同じ事態になっていることには気づいていたのだろう。


「それは本当に“運”だったのかな」


 以前この場に入った経験のある魔導士たちに話を聞いたところ、理由も分からず“失敗”となったという。

 “分からない場所”。

 そう結論付けたそうだが、イオリはこの数日、その不透明さを独自に解釈しようと躍起になっていた。


 確かに、この『名前のない荒野』から受ける印象だけなら、“禁忌の地”に近しい。

 外観もそうだが、人知の及ばぬあの煉獄も、何が起きても“何故か”という言葉が必ず付く。


 しかし、比べる対象が悪いとはいえ出現する魔物の質は低く、ヨーテンガースの各所にあるらしい未開の地とさして変わらない。


 では何が違うのか。

 分かりやすいのは、この場を未開の地とするほどの、魔門の存在だ。

 そしてそんな場所で、同じ不運が起こり続ける。

 か細い線だが、疑惑を抱くべきであろう。


「“魔門のせいで失敗した”、というのはあり得ないかな」

「……何でもかんでも魔門のせいだ、なんて言うのもあれだけど。……確率は高いわね」


 過去、アラスールたちが行った演習は魔門の付近、つまりは中央には向かわない作戦だったらしい。

 しかし、もしアラスールたちの存在を魔門が察知し、魔門の影響を受けていたとしたら、“失敗”につながる可能性は高い。

 それも、“分かりやすい攻撃”でなければ、対処もしようが無いだろう。


「でも、私たちが演習したのはそもそもこの辺りじゃな……、……なるほど」

「? それがなんなんだ?」

「私は分かったわ。……確かにさっきのは“楽観的”ね。魔門は“魔物”の一種みたいなもの、なんだっけ?」


 やはり仮定に仮定を重ねるしかないが、イオリは、辿り着いた結論を言った。


「“魔門が移動している”としたらどう思う」


 この世界は日常と戦場が入り混じる。

 仮説のさらに先。最早絵空事だ。

 しかしあくまでイオリはフラットに見ていた。


 この数日。

 進行は極めて順調に見えた。

 だが、進行が軌道に乗ったら雨が降り出したり、体調不良者が出たりと、妙に間が悪いというか、不運なことが起こっていたのだ。

 もっとも、安全を優先する以上、何も“間違い”ではない。

 そういうものと割り切ってしまうのが正しいのだろうが、ほんの少しだけ覚えたその違和感に気づいてしまうと、“正解”を選べない状況ばかりが続いているようにしか見えなくなっていた。


「この数日は、“何も起きていない”。僕も確かにそう思う。……なら何故“正解”が選べなかったのか。アラスールたちもそう、そして、今の僕たちも。“すでに魔門の干渉を受けている”というのはあり得ないかな」


 ただの被害妄想であればそれでいい。

 『名前のない荒野』のストレスで、自分がおかしくなっているだけならどれほど幸せなことか。


 イオリも初見で気づくのは不可能だ。ただ不運が続いているだけならそういうこともあると思っていただろう。

 だが、以前この場所に入ったアラスールたちが、同じような失敗していたとなると違和感を嗅ぎ取れる。


 ただの有象無象ならば話は分かる。

 だが彼女たちは、『数千年にひとりの天才』を擁する“禁忌の地”の深淵調査部隊だ。些細な不運など軽々しく跳ね飛ばせる。

 そして“何故か”今、ヨーテンガースの精鋭が集まったこの面々が、同じ轍を踏もうとしているのだ。


「じゃあなにか? 魔門、は、」


 ホワーグが、眉をひそめて口を押さえた。

 パインもやや中腰になり、椅子から身体を離そうとする。


 イオリもちらりと地面に視線を走らせ、ひっそりと、内緒話をするように呟いた。


「僕たちに付き纏っている可能性がある」


 アラスールは、目頭を押さえ、息の塊を吐き出した。

 ただの怪談話をしたかったわけじゃない。

 作戦の方針を決めるのは彼女だ。

 的中していたら致命的な仮説に辿り着いてしまった以上、耳に入れておく必要があった。


「……分かったわ。その場合、昼までなんて悠長なことを言ってられないわね。ホワーグ=ヘッジとパイン=キューマ両名に依頼よ。あなたたちは民間人救護を最優先。そしてイオリちゃん、伝えておいて。アルティア=ウィン=クーデフォンは現段階から戦闘禁止。各員に魔力の原石を配布するわ」


 仮説が合っていようがいまいが、すでに編成を定めて損は無い。

 彼ら彼女らの負担にはなるが、今から気を張ってもらう必要があるというのがアラスールの判断のようだ。


 アラスールはこの集会所にも置いてあったのか、奥の箱から、一握り程度のスカイブルーの宝石を無造作に取り出した。

 以前見たものより濁っているが、魔力の原石だ。

 質のいいものは本当に希少で、ドラクラスでさえごく少数しか手に入れられないらしい。


「ありがとうねイオリちゃん。もちろんだけど、みんな他言無用よ。私はケディアを探しに行くわ。イオリちゃんもティアちゃんを探してもらえる?」

「ああ、そのつもりだけど」


 方針が定まったなら長居は無用だろう。無用な混乱を避けるため、特定の人間だけに伝えれば編成の軸が定まる。

 今はアラスールと治癒担当者だけが知っていればいい。


「どうせ彼女なら、すぐ、に、……?」


 問題なのは、あのティアの口をどうやって塞ぐかだが。

 そう考えながら、イオリが立ち上がったとき。


 ふ、っと。


 周囲が、暗くなった。


「雨だーっ!! ……うっ、うぼぼぼぼぼぼーーーっ!?」


 案の定、探すまでもなく響いた大声と同時、轟く雷鳴と共に、けたたましい豪雨が降り注いだ。

 集会所のテントが突き破られるほどの雨量に、天井の布が一瞬で陥没し、支柱が痛々しい悲鳴を上げた。


「またスコール!?」

「ティアちゃん直撃したみたいね……」


 暴風にテントの布が翻り、あっという間に浸水してくる。

 ここを建てた民間人も手を抜いたわけではないだろうが、滝壺にテントなどあっても吹き飛ぶだけであろう。


 イオリは躊躇なく濁流を進み、暴れるテントの布を押さえて外の様子を探ろうとする。

 すると、ほぼ視界が無い豪雨暴風の中、もがくように突き進んでくる男が見えた。


「ぶっ、ぷっ、た、隊長!!」

「あらフェッチ。丁度良かったわ、話があるの」

「こっちが先です!!」


 ずぶ濡れで息も絶え絶えのフェッチは、中央の机に倒れ込むように両手を付いた。


「遠方ですが、魔物の群れが見えました。大雨の直前で、信号弾を上げられませんでした」

「……方向は?」

「北東の約3キロメートル。飛行種の群れで、おそらくデオグラフ。最後に見たとき数は20から30でしたが、増加傾向。こちらに向かっているかまでは分かりません」


 デオグラフはプテラノドンのような姿をしている魔物だ。

 特徴的なのは“魔物を喰らう魔物”だということである。

 獰猛で、縄張り意識がある故、人間からしても脅威だが、下手に刺激しなければやり過ごせる可能性もある。


「デオグラフ? ここは縄張りってわけでもないだろうし、近くに魔物でもいるのかしら。まあ、念のため民間人たちに、……ん?」


 一瞬、アラスールの動きが止まった。

 しかし彼女はすぐにフェッチに指示を出し始める。

 イオリはその視線の先を追って得心がいった。


 暗く、豪雨ですべてが閉ざされたテントの中、ぼんやりと、シルバーの光が差し込めた。


「アラスールさん、話が……、あ。イオリさん。フェッチさんもここにいたんすね」


 ずぶ濡れで、泥だらけの姿のフェッチと違い、とぼとぼと、普段と変わらぬ様子でテントを訪れたのはマリサス=アーティだった。

 シルバーの光に身を包み、だぼだぼのマントは湿りもしていない。

 この豪雨の中、『数千年にひとりの天才』は、その半開きの眼をのんびりとアラスールに向けた。


「……ちょっと変なことがあったんすけど」

「マリーちゃん、どうかしたの?」


 アラスールの顔付きが怪訝なものになった。

 フェッチも眉を寄せる。

 こうした様子の彼女は、ふたりの間ではそういう顔付きになるものらしい。


「自分は南の方で警備してたんすけど、離れたところに魔物の群れが見えたり見えなかったりして。多分、ファリオベラかそれに近い品種っすかね。……こっちに来るわけでもないけど、討伐しようか迷っていたら、この雨で見えなくなって」


 マリスは眉を寄せながら、どっぷりと水を吸ったフェッチを労わるように見た。

 この豪雨の中必死に走ったフェッチと、恐らく豪雨の直撃を受けたらしいティアが浮かばれないが、彼女はこの雨すら遮断できるらしい。


「音でも立てて威嚇しておこうかと思ったんすけど、見にくい中で下手な刺激を与えるのも微妙だし、とりあえず報告に」


 ファリオベラは数日前にもエリーたちが遭遇した、馬のような魔物だ。

 移動に優れ、聴覚や嗅覚も発達している。離れた距離でも、こちらを認識している可能性が高い。

 マリスの話は、まだ安全な距離にそのファリオベラの群れがいるが、どう対処するかという相談らしい。

 下手にここを離れる方が問題になる可能性もある。


 しかしイオリは、そしてアラスールたちも不穏な空気を感じ取っていた。


 フェッチの話では北、そしてマリスの話では南にそれぞれ同タイミングで魔物の群れを確認している。

 どちらもこちらに危害を加えるかどうかは分からない状況である。


 安全を確認しようにも、この“豪雨”がすべてを億劫にさせる。

 これは、“不運”、なのか。


「? ……ところでこれ、何の集まりっすか?」


 マリスは眉を寄せ、ホワーグとパインに視線を走らせた。

 彼女もすぐに、治癒担当者だということは気づいただろう。

 人命を救う者たちを見てそう思うのもおかしいが、この場の話が、決して愉快なものではないとマリスも感じ取ったようだ。


「―――マリサス。一時的にでも雨を止めることはできるか?」

「? まあ、できなくはないっすけど、ううん……」


 我ながら馬鹿なことを言っている。

 そして、不可能が無い彼女からは、馬鹿げている回答が返ってきた。

 ちゃっかり自分だけ雨を防いでおいてどうかと思うが、自然現象をどうこうするのには抵抗があるらしい。


 だが、この場で話した仮説の真贋が、目の前に、いや、マリサス=アーティしかこじ開けられない強固な扉の先にあるような気がした。


「詳しくはあとで話す。外れていたら笑ってくれ、僕たちは、“魔門に付き纏われているかもしれないんだ”」

「―――、」


 その瞬間、テントの中でシルバーの光が膨張した。


 この豪雨が魔門の“現象”である可能性がある。

 そう察したマリスはマントを翻し、一筋の光となって外に躍り出た。


「―――フリオール!!」


 日常と戦場は入り混じる。

 そんな夢のような世界の住人が、人知を超えた力を放った。


 彼女が腕を振るった瞬間、がなり立てるように降り注いだ豪雨はぴたりと止まる。

 マリスが発動した魔法は、この拠点を含むエリアすべてをシルバーの光で巨大なドームのように覆ってみせた。

 ぬかるんだ足場の泥を蹴り上げマリスを追うと、彼女は鋭く空を睨んでいた。


「ぅ……!?」


 その夢は、悪夢なのかもしれない。


 暗黒の空、シルバーの光の先、いくつもの不気味な飛行種の影が旋回していた。


 フェッチが確認したデオグラフだろう。この豪雨の中、まっすぐにこちらに向かってきたというのだろうか。

 だが数は、“外”の豪雨に紛れてほとんど見えないはずなのに、フェッチの報告の倍はある。そして報告通り、まだまだ飛来していた。


「フェッチ!! 全員に通達!! 緊急体制!!」

「はい!!」

「マリーちゃんはそのまま魔法を維持!! デオグラフを近づけさせないで!!」

「了解っす!!」


 突然の豪雨にみな建物へ避難しただろう。

 閑散とした、銀の世界の中、フェッチがまた泥を跳ね上げ駆け出した。


「俺たちは避難誘導だ!! パイン、お前は左の方を頼む!!」

「ええ!!」


 事前に指示されていたホワーグとパインも民間人の保護に走った。

 拠点には、魔物の襲撃に備えた行動が事前に定められている。

 デオグラフの襲撃程度なら、マリスの力抜きでも対処できる体制と戦力が整っているのだ。


 だから。

 イオリは、豪雨と雷雨の中、飛び交う無数のデオグラフの、“その先”を見ていた。


「……?」


 指示を終えたアラスールが、自分たちと同じ異変を感じ取った。


 まばゆいばかりのシルバーの光のドームの外。

 槍のように突き刺さる豪雨。

 暗黒に染まった空。

 無数の羽虫のように飛び交う魔物。


 その先の、暗雲の中―――“日が差していた”。


「あ、あれは……?」


 違和感が暴れ、思考がめちゃくちゃになる。


 『名前のない荒野』の進行が滞ったのは、“不運”だった。

 だが、気になったことをひとつ挙げるとすれば、それは“天候”だった。

 天気、気圧の変化で、人は行動を、選択を変える。体調にも影響を及ぼすだろう。

 そうした変化で失敗しても、日常の世界では紛れもない“不運”である。


 だが、日常と戦場は、入り混じるのだ。


「―――っ、」


 マリスがシルバーのドームを拡大させた。

 馬鹿げているとしか思えない魔法の世界、しかし遥か天空にあるかと思っていた暗黒の雲に、デオグラフが飛び交っている。


 天空すべてを塗り潰すあの雲は、ずっと近くにあった。


「なにか、動い、た……?」


 視力に全精力を集中させ、あの、“日が差し込める暗黒”を睨みつける。


 雷雲が蠢く。蠢き続ける。

 遥か上空、雲の中、差し込める日が―――その“オレンジの光”が、眩いばかりに輝き続けていた。


 そして、それは現れた。

 現れて、いた。


「ぅっ」


 嗚咽が漏れたのは、誰の口からか。


 子供の頃の想像力は無限大で、普通に通っていた学校に目的不明のテロリストが押し寄せたり、もっと幼き日に遡れば車で移動中、建物から建物に移動する忍者のような存在を空想したりと、日常に溶け込む異常を当たり前のように思い描いていた。

 雲は念じれば想い通りに動き、今よりずっと小さいはずの手は空に届き、三日月は端を掴んで振り回せそうで、夜空に浮かぶ星々は掴み取れる金平糖だったのだ。


 そして、蠢き天空を染め上げる巨大な雲の中には、“何か”が住んでいるのだ。


 “ぎょろり”、と。

 雲の中から、オレンジの光をまとう、鱗に覆われた巨大な貌が睨んできた。


 “馬鹿げている”。


 雲の中で、“大蛇”が蠢いていた。


 貌は、岩山が生えたような二対の角を備え、天空を染め上げる雲を丸ごと飲み込めそうな大顎に、そこから生えた長い髭を雲の中でなびかせている。


 デオグラフが米粒に見える、馬鹿げた“それ”の全長は分からない。

 だが、雲に身を隠し、身に纏い、貌からぎょっとするほど離れた先の雲に、拠点をまるまる掴み上げられそうな脚が見え、理解できないということが理解できた。


 翼は無く、しかしそれでも、日輪の光を纏って宙を舞う、天空の絶対的な支配者の姿がそこにあった。


 “龍”。


 幼き頃、その存在を知ってから、恐怖と共に憧れを抱いた巨龍が、今、豪雨と共に神々しくも顕現した。


 思い描いていたものは、起こって欲しいこととはそのまま繋がらない。


 天候に右往左往された人間たちの物語。

 雲を疎ましく思えば不動となり、日を疎ましく思えば焼き付くように突き刺さる。

 それは運でしかない。前提でしかないのだ。

 “環境”に抗う術など存在しない。


 明日が照るか陰るのか、それは空にのみ委ねられるのだ。


 人は、恐れ多くもその“環境”に名を付けた。

 イオリは、絵本の世界からそのまま飛び出してきた、雷雲に住まう金色の龍の名を、苦々しく呟いた。


「『明日の影』……!!」


―――***―――


 恐らく最速。

 ミツルギ=サクラはそう自負するほど、この事態に最も早く動き出した。


 この魔門破壊。

 サクは、自分らしくない精神状況であることを理解していた。


 以前行ったアイルークの魔門破壊。

 自分たちは世界中に希望を振りまく奇跡の存在となった。

 だが、当事者であるサクは、未だにそのときの“悪夢”に苛まれる。


 あの異次元の出来事は、明確に、“異常者”が浮き彫りになったような気がしていた。

 魔王直属の魔族を撃破したヒダマリ=アキラ、魔門を破壊したエリサス=アーティ、そして、出現した『光の創め』に真っ向から対抗したエレナ=ファンツェルン。

 ホンジョウ=イオリも魔族の力を現実のものとして解釈して対抗し、アルティア=ウィン=クーデフォンの治癒能力の異常性もあの頃から認識されるようになった。


 主君の自己評価の低さがうつってしまったのかもしれないが、自分が貢献できたことはほとんどない。

 長い旅だ、上手くいかないこともあるだろう。

 だが、それ以上に、主君である、“いや、そんなこと以上に”、長く共に旅をし、その成長をずっと傍で見ていた男が強い決意を見せた出来事だったのが、どうしようもなく悔しいのだ。


 奇跡であり、世界の希望となったあの出来事だが、邪に、最初からやり直したいとさえ思っていた。


 そして今回、目の前に訪れた魔門破壊は、サクは鼓動を高ぶらせた。


 気の乱れは刀を鈍らせるが、抑えきれない。

 主君は、自分たちだけが参加することに、押し潰されそうな不安を抱いているようだった。


 未知の魔門に挑むのだ、正直に言えばサクにも恐怖もあるが、“また同じこと”になる方が怖いと背中が押されるような気がしていた。

 主君に、アキラに、今度こそ胸を張って、魔門破壊をしてきたと、問題なかったと、言いたいのだ。


 そうして、魔門破壊の作戦開始を、今か今かと待ちわびていると。


 突如として“始まった”。


 本日は休息日。

 自身のバディと共に、というより見張りのために拠点からやや離れた洞穴にいたサクの耳に、スコールのような豪雨が突如として鳴り響いた。

 この依頼、天候には恵まれず、やたらとトラブルに見舞われたが、環境とはそういうものである。

 しかし、旅の長いサクは、二度三度と繰り返されると、流石に違和感を嗅ぎ取っていた。


 とはいえ、そのとき備えられていたのはたまたまである。

 根拠のない、漠然とした違和感を覚えたまま、洞穴の出口で滝のような光景を、それでも睨みつけていると、今度は突然、世界を銀の光が塗り替えたのだ。


 目を疑う規模の魔術、いや、魔法。

 脳が理解を放棄したが、強引に身体に命令を飛ばし、サクは外に躍り出る。

 視界が塞がれる豪雨でも、状況把握に努めようと精神を尖らせていると、今度は、遥か上空、暗雲の中、金色に輝く神話の世界の怪物が出現した。


 “向かうべきだ”。

 状況も分からず、出現した化け物の理解も出来ず、しかしそれでも雨の中駆け出したサクは、強く歯を食いしばる。


 自分は備えていた。運も良かった。最も早かったはずだ。


 だが何故、背を追うことになっているのか。


「―――はっ、分かりやすいのが出てきたじゃねえか。まーた都合のいいことが起こりやがった」


 スライク=キース=ガイロードが豪雨を蹴散らし突撃する。

 後続のサクは上空の怪物を警戒しつつ、目の前の化け物に追従した。


 信じられないことに、スライク=キース=ガイロードの速力は魔術を使用した自分とほぼ同等だ。

 純粋な最高速は自分に分がありそうだが、サクの魔術は足場の改善をするものであり、強風や豪雨の影響は受けてしまう。

 こうした悪条件の中では、叩きつけるような横殴りの暴風を物ともせずに突き進むスライクの方に分があるようだ。


 だが、先陣を切ったはずの自分が、彼の後続に甘んじている理由はそれとはまた別で、それゆえにサクは歯を食いしばっていた。


 スライクは今、ほんの少しだけ前にいる。


 銀に輝く拠点。金色の龍。

 その光景を前に、自分は一瞬、躊躇したのだ。

 考えても分からないことを、考えようとした。


 考えも無しに行動するのは愚の骨頂だ。

 思考の放棄は許されない。

 しかし、その僅かな常識的な部分の判断の遅れが、目の前の化け物に抜き去られる隙を与えた。


 この魔門破壊。

 参加している化け物は、スライクだけに限らない。


 エレナ=ファンツェルンが代表例だが、彼ら彼女らは、異次元の力を持ち、その上で、“即座”に行動するのだ。


 何も考えていないわけではないだろう。

 異常を前に反射で動く。

 それは感性だったり、運だったり、経験だったりするのだろうが、身体に行動が染みついている。


 考えるべきときは考えるだろうが、考えても無駄なことは、身体が反射で対処に向けて動く。

 その初動が、ほんの少しの差を生み出のだろう。


 ゆえにサクは、そのほんの少しが、どれだけ大きいものかを感じ取った。

 ギリと、歯を食いしばる。


「ち」

「!」


 ほぼ真上から迫ってきていた魔物を回避し、振り向きざまにサクは刀を走らせた。

 いつしか自分とスライクは、魔物の群れに囲まれていたようだ。

 一瞬だけでも雨が途切れなければ気づかなかったかもしれない。


 この飛行種の魔物は、確かデオグラフ。

 魔物を喰らう魔物だそうだが、魔力の高い人間にも強い攻撃性を持つという。

 鋭い嘴に、刃物のような翼が主な攻撃方法の、“知恵持ち”の、魔物だ。


 サクは昨今ホンジョウ=イオリと行動を共にし、今までよりも外敵の情報が理解できるようになっていた。

 だが、“これじゃない”。所詮“魔物の群れ”だ。

 どれほどいるのか正確に視認できないが、二度三度と襲い来るデオグラフを斬り割き、サクは天に座す金色の龍を睨みつけた。

 自分が討ちたいのは、ああいう難敵なのだ。


「あん?」

「!」


 急激に周囲の魔力の流れが鈍った。

 魔物の群れの向こう、グレーの光が迸る。

 デオグラフをけん制しつつ、様子を探ると、雨の中、新たな巨獣がまっすぐにこちらへ向けて突撃してくる。


「はん」

「待て! あれは、」


 剣を構えたスライクに叫び、サクは巨獣を迎え入れるように身を引いた。

 目を凝らして見れば、現れた巨獣はデオグラフを蹴散らしている。

 あれは新たな敵ではなく、ホンジョウ=イオリの召喚獣だ。


「スライク=キース=ガイロード! やっと見つけた!」


 現れた召喚獣ラッキーの背に、ずぶ濡れのふたりの魔導士を見つける。

 イオリとアラスール=デミオンは、ラッキーが着陸するかしないかの内、落下するように飛び降りてきた。


「イオリさん! 何が起きている!?」

「見ての通りだ、“超常現象”だよ。今マリサスが対応しているが、他にもこの雨に紛れて魔物が襲撃してきている。僕たちは各所に指示を出しているんだ」


 この異常事態の中、イオリの様子はほとんど変わらない。

 だが流石に焦っているのか、長らく共にいたサクには分かる、小さな苛立ちを感じた。

 同じくいつも通りに見えるアラスールの方は、内面はまるで分らない。


「『剣の勇者様』。あれ、お願いできるかしら? マリーちゃんは他にも手を回していて大変そうなの」

「下らねえ呼び方をすんじゃねえよ。だが運は良いな、もともとそのつもりだ」

「ありがと。時間が惜しいわ、イオリちゃん。早速彼を乗せてもらえるかしら? 私の方は自力で何とかするから」

「分かった。スライク、すぐにラッキーに乗ってくれ」

「……その前に、だ。魔導士の女」


 スライクがぎろりと空を睨みながらイオリに歩み寄った。

 イオリも同じく空の様子を窺う。


 金色の巨龍は、神々しく雲の中で蠢いている。

 だがふたりは、それそのものを見ていないような気がした。


「“あれ”はなんだ、『名前のない荒野』に元々いたのか?」

「その可能性もあるだろう」

「お前の見立てを聞いてんだよ、あれも“魔門の現象”とやらか?」

「可能性としては……、いや、僕の見立てか。“そうだと思っている”。雲に住まい、天候を操る金色の龍―――『明日の影』。絵本の世界の住民だ」

「“なら魔門はどこにある”?」


 考えながら、話しながら、それでもふたりは空を睨み続けていた。


 これは考えて分かることでは無い。

 サクは足元を睨み、そしてまた空を睨み、気配を鋭く尖らせる。

 “探すしかないのだ”。


 前にイオリが提示した仮説に、魔門がすでに自分たちを認識しているのでは、というものがあった。

 拠点の再構築や再編成で慌ただしい中薄れた仮説だったが、その仮説が実は正しくて、あれが“魔門の現象”だとするならば、“この近辺に魔門があることになる”。


 ならばどこにあるか。


 サクもアイルークの魔門破壊に参加し、魔門について聞き、実際に見てもいる。

 黒いガスのようで、聞けば魔物に分類される存在であるという。

 そして危機が迫ると、“守護者”を召喚するというのだ。


「最初に考えられるのは地中だけど、“未知の魔門”だ、それすら当てにならない。魔門が魔物、それも“知恵持ち”だとすれば、どこにあるか、ではなく、“魔門ならどこにいたいか”を考えた方がいいだろう」


 彼女は何をどこまで考えているのか。

 魔導士という存在は、未知の外敵相手でさえ活路を見出すという。


 不揃いで、不確かな情報の欠片しかなくとも、答えに手が届く足場を組み立ててみせる。


「魔門からすれば、“今最も安全な場所”はどこか。……僕の見立てでいいんだったね」


 金色に輝く巨龍は、天空の絶対的な支配者として、暗雲に蠢いていた。


「僕が魔門なら、『明日の影』に守ってもらうよ」


 『名前のない荒野』の魔門は“空に在る”。

 イオリが睨む先、金色の龍と共に蠢く暗雲は、そのすべてが魔門そのものにすら見えた。


 サクの理解の範疇を超えたその結論は、最早妄想の域だった。

 しかし、彼女が積み立てた足場は堅牢で、論理と空想の入り混じる中、それでもひとつの結論として確かに存在する。


 着実なものを好むサクは、イオリから、こうした思考技術を得たいと強く感じる。

 これはエレナやスライクのように直感に近しいものではない。

 ただの思い付きではなく、あらゆる可能性を考慮した上でのひとつの答えなのだ。


 アラスールもその可能性は考えていたのか、驚愕の表情は浮かべていなかった。

 魔導士は誰もがこうした存在だという。


 他にも、“否定しきれない可能性”はあるだろう。

 だが、辿り着いた“間違っていない結論”が正しいか。


 そこから先は、本人が“正答者”かどうかによるのだ。


「……はっ。また面倒事がまとまってんのか。―――お前らはあの赤毛を探してこい。俺は俺で勝手にやる」


 直感的に同じ答えに辿り着いていたからか、あるいは変わらぬ初動の早さゆえか、スライクはイオリの召喚獣を無視して即座に駆け出した。

 静止の声をかける暇すらなく雨の中消えていく。


「まっ、く、どうする気だ。……イオリさん、私は奴を、」

「待った」


 身に降り注ぐ雨よりも冷たい声が聞こえた。


「サクラ、彼とのバディは一旦忘れてくれ」


 びくりとした。

 スライクとのバディは、“幸運”なことだった。


「君は拠点の北部へ向かってくれ。ここよりずっと酷い。“デオグラフの群れの対処”だ」


 目の前に、あれだけの難敵が存在するのに。

 自分が向かうことができる空に、魔門があるかもしれないのに。


 実直に“事実”を積み上げる魔導士は、冷たい瞳をしている。

 ここから先は、“異常者”の領域だと、感じた。


「イオリ、さん」

「話は後だ。悪いが時間が無い。任せたよ」


 すべて彼女の言う通りだ。時間は惜しい。

 スライクへの対応に時間を割いたイオリはそれだけ言うと、足早に自らの召喚獣へ向かう。

 アラスールも一瞬こちらに視線を向けたが、何も言わずに去っていく。

 サクはそのふたりの背に、小さく頷く。


「……任された」


 仕事に優劣は無い。

 大きいか小さいかだけで、どれも重要なものだ。


 雨の中駆け出したサクは、北部から漏れてきていたらしいデオグラフを蹴散らしながら、いつものように、全速で指示された場所へ向かう。


 だがそれでも、雨の中、空に浮かぶ、分かりやすいほどの外敵を、何度も何度も睨みつけた。


「……くそ」


―――***―――


 想像以上に身体が重い。


「頑張れ! もう少しだ!!」


 ホワーグ=ヘッジは銀に輝く光の中、怪我人の搬送に死力を尽くしていた。


 魔導士、旅の魔術師、そして民間人が多数参加するこの依頼。

 突然のスコールに拠点の一部が倒壊し、下敷きになった民間人に肩を貸し、他の参加者にも指示を叫びながら緊急避難用に見繕われていた近くの洞穴を目指す。


 拠点にいた者たちは混乱の只中にいた。

 大雨が降ったと思えば世界が銀の光に包まれ、安全だったはずの拠点の周囲では魔物が暴れ、極めつけは遥か上空に出現した“龍”である。


 『明日の影』と呼称されるらしいあの怪物の存在を目にし、現実と空想の区別がつかなくなった者も多いだろう。

 ただでさえ『名前のない荒野』という非日常の空間にいるのだ、休日とされた日にこんなことが突如として起これば精神的にも負担は計り知れない。


 ホワーグ自身、ホンジョウ=イオリに呼ばれた魔導士隊の集会所で、魔門の話を聞いていなければどうなっていたか。

 あらかじめアラスールから指示を受けていたこともあり、ずっと早く意識が切り換えられたのは大きい。

 自分の初動を見た他の魔導士たちも即座に状況を把握し、的確な行動を開始してくれている。

 怪我人は多く出て、予断を許さない状況だが、避難活動自体は安定し始めていた。


「……大丈夫か? 下ろすぞ」


 何人目かの怪我人を運び込んだ洞穴は、荒い呼吸が響く地獄のような空間だった。

 頭を打った者、足を折った者、意識を取り戻していない者もいた。

 少しでも怪我人のスペースを空けようと、奥に敷き詰められるように座る者たちも、ずぶ濡れの顔を拭きもせずに酷い形相で何が起きているのかと目を暴れさせていた。


 “あの少女”ほどではないのだろうが、怪我人どころか体調不良者を見ると居ても立っても居られなくなる。

 この場に残り、少しでも多くの者に治療を施したい。

 だが、自分以外にも治癒魔術を使える者はいる。

 未だ避難し切れていない者も多い今、初動が早かった自分は、混乱の中にいてこそ効果がある。

 自分の姿を見た魔導士や旅の魔術師は、それぞれに何をすべきかを考えられるだろう。


 自分と相方のパイン=キューマは、この依頼に治癒担当者として参加している。

 だが、今自分が最もすべきことは治療ではないのだ。


 断腸の思いでその場から出ると、銀の光に包まれた世界は、いつしかまた、雨が降っていた。


 ずぶ濡れになり、口に含んだ泥を吐き出し、ホワーグは避難誘導と怪我人の搬送に奔走した。

 すぐに息が切れる。身体が思うように動かない。


 原因はすぐに分かる。

 こんな肉体的にも精神的にも負荷の高い『名前のない荒野』で、日を跨いで行動していたのだ。

 身体の酷使に極度の緊張。

 適宜身体や精神を休めていたつもりだが、どうやっても疲労は蓄積してしまう。

 それは自分ばかりではない。

 見れば魔導士や他の旅の魔術師も動きが鈍かった。

 人間に限らず生物は、常に能力の最高値を出し続けることはできないのだ。


 それでも身体に鞭打ち、視界の悪い中、助けを求める者を探す。

 見立てでしかないが、このエリアにはまだ数名は避難できていない者がいるはずだ。


 上空からの強い重圧に耐えて走り、無様に転んだところで、ホワーグはあえて笑ってみせた。

 不調だろうがなんだろうが、気力が切れたら終わりだ。


 こんな不器用なやり方しか知らない自分とは違い、パインに頼んだ北部は大丈夫だろう。

 彼女は自分よりもずっと聡い。


「!」


 拠点南西部にある岩山の麓、土砂崩れを見つけ、慌てて駆け寄った。

 視界の悪い中、一瞬、何かが蠢いたような気がする。

 巻き込まれた者がいるのかもしれない。


 声を張り上げ、躊躇なく泥をかき分ける。

 指先に岩の破片が突き刺さり、鋭い痛みが走るが、それでも叫びながら手を暴れさせた。


 話を聞いていたとはいえ、ホワーグも何が起きているかは分かっていない。

 天空に神々しく輝く巨龍はどのような存在なのか、自分たちを付き纏っている可能性のある魔門はどこにあるのか。


 ホワーグだって、混乱していていいなら混乱していたい。

 だが、今はひとりでも多くの命を救わなければならない。


「……。! おい、あんたら!」


 感情のまま、魔術も使って土砂をかき分けてみたが、思った以上にどうにもならない。

 応援を求めて立ち上がったホワーグの視界に、数名の魔導士を見つけた。

 彼らは何やら台車のようなものを率いている。


「ホワーグ=ヘッジか! 話は後だ! 怪我人の治療を任せたい!」

「助けてくれ! 土砂崩れに巻き込まれた人がいるかもしれないんだ!」


 怒鳴るように言い返すと、魔導士たちの顔色が変わった。

 ホワーグの背後の土砂崩れを見て渋い顔をする。

 事態の深刻さは伝わったらしい。


 ホワーグは、ちらりと彼らが運んでいた台車に視線を走らせた。

 一抱えほどある木箱がいくつか積まれている。

 ホワーグの記憶が確かなら、あれはこの依頼用にドラクラスから運び込まれた“魔力の原石”だ。

 拠点から避難所へ運んでいたところらしい。


「分かった、今人を呼んでくる! 任せるぞ!」


 先頭の魔導士は背後の男たちに叫ぶと、弾けるように駆け出した。

 残った魔導士たちは歯噛みしながら土砂崩れを睨み、台車の運搬を再開する。


 救護を無視する男たちを怒鳴りつけたい衝動に駆られるが、彼らも辛い決断を迫られたのだ。

 彼らが運んでいる“魔力の原石”は、この依頼の、いや、この場の人間すべての生命線である。

 体力もそうだが、魔力が切れれば、治療も自己防衛も不可能だ。

 絶対にしたくない計算だが、数人の命と引き換えにしてでも守るべき資材である。

 取り扱いも慎重にならざるを得ないだけに、数人で運ぶ必要があるのだろう。


「っ」


 やり切れない感情を抑え込み、ホワーグはまた土砂の泥をかき出す。

 無策で無謀なことは分かっている。

 だが、少なくとも自分には、魔導士が応援を呼んでくるまでじっと待つことなどできはしない。


「!」


 必死に土砂を払い、崩れた岩を放り投げ、掘り続けていたホワーグは、やや離れた土の下、また一瞬何かが動いたような気がした。

 ごくりと喉を鳴らし、しかし身体を震わせ、血だらけの手で今度はその土砂をかき出し始める。


「っ―――」


 人影が見たような気がした瞬間、噴き出すように、ぴしゃりと泥が目に飛んだ。

 意識が飛びかけるほどの鋭い痛みに、目を開けていられない。


 腕で目を擦るも、全身泥だらけの姿では、一層酷くなる。

 手探りで土の下を探るも、泥以外の感触は無かった。

 たまたま空気が溜まっていただけなのかもしれない。


「ああ、酷いな」


 思わずホワーグは悪態をついた。

 身体中が痛く、目が開けない。

 怪我人に割くべき魔力だが、ホワーグは自己の治療を開始しようとした。


「ホワーグ。……何しているの?」

「!」


 耳が、よく知る声を拾った。


「くそっ、見えないっ! パインか!? 土砂崩れだ、誰かいるかもしれない! 今魔導士が応援を呼んでくれている!」

「っ……。分かったわ、私も手伝う。あなたは自分の方を気にして」


 手先が血と泥に塗れた自分は酷い有様なのだろう。

 声は呆れているように聞こえる。

 だが、ふと気になった。


「……パイン。北部の方はどうだった。何故ここに?」

「事情を伝えて一旦任せてきたの。魔導士隊がたまたま集まってて手が早かったわ、こっちの方が民間人が多いらしいの」


 姿で見せようとした自分とは違い、彼女は言葉で協力者を増やすことを選んだようだ。

 やはり自分よりもずっと聡明である。


 鋭い痛みを発する眼は未だ開かない。

 ホワーグが声を頼りにパインの位置を掴むと、彼女は自分と同じように、土砂の前にしゃがみ込んでいるようだった。


「パイン。掘り返すのは止めておけよ、ほとんど効果が無い」

「人には言うのね。考えなくても分かるでしょう、ホワーグはとにかく自分を治療して」


 彼女が今何をしているのかは見えない。

 だがホワーグは、渋々その場に座り込んだ。

 彼女の声を聞いたからか、気が和らぎ、手の痛みがさらに増していく。

 治癒魔術を使おうと力を籠めると、それ以上の強い激痛が襲ってきた。


「……ぐ、づっ、」

「って、ホワーグ。その手……」


 嗚咽がつい漏れた。

 座り込んだホワーグの前に、パインの気配を感じる。


「パイン。俺はいい、魔力は少しでも温存してくれ。自力で何とかする」

「……ホワーグ」


 彼女も治癒担当者だ。ただでさえ『名前のない荒野』の活動で疲弊しているのに、拠点を駆けずり回った後である。

 泥を被るのは自分だけでいい。


 だがそこで、パインが手を取ってくれた。

 温かい、手だった。


「これくらい、ううん、これが私の仕事。私はね、お医者さんのお医者さんなの。なーんて」

「……ああ、そうだった」


 うっすらと、視界が戻ってくる。

 ゆっくりと開いた染みる瞳の先、幼き頃、怪我ばかりして、父の病院に毎日のように連れてこられていた、やんちゃな少女の面影があった。

 勝気な彼女は、面倒をみられるばかりを嫌がり、父の仕事場で学んでいた自分を、理由を付けては包帯でぐるぐる巻きにした。


 自分は医者を目指し、彼女はそんな自分を治すと息まく。

 幼き日の夢は形を変えてしまったが、病院中をかき乱し、ふたりしてこっぴどく叱られたあの日々が、人を救おうと強く思った自分たちの、原点だったのだ。


 そして。

 “ホワーグは、パインの胸を刺した”。


「……“ああ、酷いな”」


 ふたりいたはずの場所には今、パイン=キューマひとりしかいない。

 ホワーグ=ヘッジ。そしてパイン=キューマは、しっかりと、“被らせてもらった”。


 混乱こそ、『最古の蛇』の独壇場である。


 『最古の蛇』が被った相手は、“その存在そのもの”だ。

 被った死者の意識や記憶、身体を操れるが、“操らないこともできる”。

 死の瞬間を忘れさせれば、自分が死んだことにも気づかないまま、生き続けさせられるのだ。


 ゆえに見破られない。何をしても、演技ではないのだ。“その死者”は、紛れもなく当人そのもので、判別するには眼の色か魔力の属性を見るしかない。

 注意力が散漫になった者たちを被るなど簡単だ。

 隙が出来るまで死者に身体を預け、確実に仕留められるときに操ればいい。


 そして今は絶好機。

 魔門がいよいよ本気を出したのか、『明日の影』の出現に、人間たちは混乱の只中にいた。

 過去にはこうした混乱に訪れ、百人近い人間を、ひとり残らず被らせてもらったこともある。


 今回は魔門に“召喚”されたようだが、随分と運が良い。

 ヨーテンガースだと分かったときは“そのときの顔”をしかめたが、外界から孤立した『名前のない荒野』にいる人の群れなど、『最古の蛇』にとっては格好の餌食だった。


 だが、目論見は思った以上に外れていたらしい。

 拠点のひとつを壊滅させたまでは良かったが、次の拠点での失敗。

 それどころか『最古の蛇』の正体に辿り着いたらしく、その特徴である赤い眼と属性を把握されてしまっていた。


 とはいえ、やりようはあると機を伺い、『明日の影』の出現にこれ幸いと行動を開始したのだが、気がかりなのは今の男と女―――“ひとつ前”と“今”だ。


 『最古の蛇』は、被った相手のすべてが分かる。


 異常な天候、そして巨龍の出現、怪我人の救護や大人数の混乱への対処と、『最古の蛇』の対応に割く脳のリソースなどなかったはずだ。

 だが、がむしゃらに人を救おうとした男も、男に手を差し伸べた女も、『最古の蛇』の存在を“忘れていなかった”。


 流石ヨーテンガースの旅の魔術師といったところか。

 やはり油断はできない。


 だが、結果は同じだ。

 男も、そして女も、相手が『最古の蛇』である可能性を考慮した上で、目の前の存在を見捨てることができなかったということが、よく分かる。


 騙されていたとしても、見捨てることができない。

 強者であろうが合理的な行動を取らない人間は数多くいるのだ。

 攻略法はいくらでも存在する。


 そして、男と女は、騙され、被られたのだ。


 パインを被った『最古の蛇』は、転がったお気に入りのナイフを拾い上げると、泥ごと血を舐めとって胸元にしまった。

 今の身体の心が、良心の呵責に苛まれる。


「そんな善人たちを殺めてしまうとは。ああ、僕はなんて酷い奴なんだろう。……なーんて」


―――***―――


 マリサス=アーティは、眼前で蠢く巨龍に歯噛みした。


 出現したこの『明日の影』。

 巨大すぎる図体も脅威だが、最大の問題はその属性、そして“行っていること”である。


 絵本の世界の住民である巨龍との遭遇は、その身に比すれば米粒にも満たない人間ではそれだけで絶望するだろうが、マリスが最も問題視するのは、自らの月輪属性の上位互換である、“全能”の日輪属性だ。


 龍。天空の支配者。

 『明日の影』は周囲を飛び交うマリスを、“気にしていなかった”。


 この巨龍が行っているのは、端的に言えば“環境操作”だ。

 日輪属性のやることだ、原理は不明だが、急激に気圧を下げ、通常より遥かに低い位置に大量の雲を生み出している。

 広範囲の水蒸気をも引き寄せ、局所的なスコールを生み出しているのだろう。

 通常起こり得ないが、あくまで“自然現象”を起こしている。


 だが、“それが最大の問題だった”。


 『明日の影』の正体は、気温や気圧を操り、異常気象を生み出す“環境”だ。

 マリスが空に逆らいスコールが魔法で防がれたことを認識しているのか、あるいは思い通りの天候にならないことを訝しんでいるのか、今なおその魔法の力を高めている。


 その異常気象を生み出すために、現在この拠点周囲はあらゆる環境が乱れている。

 水蒸気を生み出すために地表を熱する高温を生み出したりしたかと思えば、雲を生み出すために急激に冷やして気圧を下げてみたりと、環境を思い描くままに暴れさせているのだ。

 その結果、立つこともままならない各所で暴れ狂う上昇気流、酸素濃度の低下による空気の猛毒化、めぐるましく変化する気圧による血管の膨張と縮小など、最早この拠点は生物が生きることはできない死域と化した。


 この異常を前に、マリスは拠点周囲に大規模な“選択遮断”魔法を展開している。

 月輪属性の魔法、フリオールは、術者の選択する影響を遮断する強大な力を持つ。

 だが裏を返せば、その術者であるマリスは、何を遮断するかを感覚的にでも把握する必要があった。


 環境のすべてを遮断すればマリス自身が拠点の人間をすべて殺してしまう。

 有毒化した空気の定義は何か、現在この地点のあるべき気圧は何か、あえて雨もすべて遮断せず、水気が失われた地表にどの程度降り注げばいいか。


 マリスとて専門家ではない。

 環境の正しい状況など肌間隔でしか分からない。


 “だから今知る必要がある”。

 マリスの捉える月輪属性とは、知りさえすれば不可能を超越できる属性だ。


 通常長い年月勉学に励み習得する知識は、月輪の力で“ずる”ができる。

 起こっていることを感覚的にでも把握さえできれば、その対抗策を立てることは可能なのだ。


 しかし、その上でなお、日輪属性はその先にいる。

 知る必要すらない日輪属性は、思うまま、呼吸をするように、環境を暴れさせ続けている。


 そのたびに、マリスは再演算を強要される上、『明日の影』の眼前にいる自分の防衛も考えなければならなかった。


 周囲を飛び交うデオグラフも鬱陶しい。

 いちいち個別に対処するのは難しい。人間だろうが魔物だろうが、この拠点の範囲にいるすべての生物を、守ることになる。


「―――っ、」


 マリスは歯噛みする。

 環境変化の打ち消しに集中しているマリスは、背後から接近してきたデオグラフを見もせずに魔法で貫いた。

 ただ迫ってくるだけの魔物など、何をしていようがどうとでもできる。


 ゆえにマリスは、『明日の影』だけを睨み続けた。

 攻撃に転じる機会を探り続けているが、『明日の影』がちょっとした“環境遊び”をするだけで対応に追われる。

 何人もの命が懸かっているのだ、万にひとつの失敗も許されない。


 この魔物の対処方法は、先手を取る以外になかったのだろう。

 金色の龍が天候を操る前に、撃破するのが最善であった。

 後手に回れば、通常敵として認識するわけもない“環境”が襲い掛かり、対応を強要されることになってしまう。


 だが、普通そうなのだ。

 雲に住まう巨龍に先手を取り、撃破することなど不可能だ。


 太古。絵本の物語。

 ありとあらゆる人間に、生物に、環境による苦悩を振りまき、それでも、討つべき敵として認識すらできなかった環境の支配者。


 そう。環境とは、人間より先に在る。


 普段意識を向けないだけで、いつでも自分の傍にある。

 見てしまえば、あまりにも分かりやすく目の前にいる。

 その姿は、思い描くこともできる。


 だがそれでも、明日の影を踏むことは、叶わない。


「!」


 再演算に次ぐ再演算。

 めぐるましく変化する環境の中、マリスは下方から異変を拾った。

 だが視線も向けずに『明日の影』の隙を探る。


 異変を拾ったのは巨龍も同じか、環境を俯瞰的に捉えていた『明日の影』の意識が、僅かに、乱れた。


「レイディー!!」


 察知するが早いか、マリスは銀の矢を射出した。

 飛び交うデオグラフなど触れても軌道すら変えられぬ凶弾が、雲の中、『明日の影』の巨体に吸い込まれていく。


 直撃。

 しかし、『明日の影』は変わらず空を支配し続けていた。

 マリスはまた歯噛みする。

 希少な攻撃の機会だったのに、“二択を外した”。


 だがそれならば―――“この異変は都合がいい”。


「―――バケモンかお前」


 人に言う前に我が身を振り返れ。

 現れた“異変”は嘲るようにそう言って、“『明日の影』へ向かっていく”。


 人間の存在が許されないはずの空間に現れたのは、スライク=キース=ガイロードだった。

 飛行手段を持たぬはずの彼は、デオグラフを足場に跳び移り続け、地上から上がってきたのだろう。

 マリスはこの上空において、『明日の影』の影響をそこまで抑えていない。

 高度がどれほどかはそこまで気にしていないが、上空なだけで生物には厳しい環境だ。

 自己をまた別の魔法で守っているマリスと彼では、身に受ける被害は別格のものだ。

 あれが日輪属性の適応力というものなのだろうが、彼のそれは常軌を逸している。


 もっとも、この天空の世界自体が、あまりに非現実だ。

 悪夢でももっとマシな光景を見るだろう。

 天空を支配する巨龍に、その影を斬り割かんと魔物を足蹴に空を歩く大男。

 脳が理解を拒む驚愕が、次々と展開される。


 だが今、この場の異常性を追う暇はない。

 マリスは独自に行動するスライクへ、あえて余計な援護はせず、再び環境への対応に集中する。


 彼の体躯でも、『明日の影』に比すればあまりに矮小だ。

 それでもスライクは大剣を掲げ、獰猛な牙と岩石のような鱗に覆われた『明日の影』の顔面へ躊躇なく突撃していく。


「あん―――?」


 そこで、『明日の影』が動きを変えた。

 『明日の影』が、スライクの接近を“警戒”し、気圧を操作し暴風を巻き起こす。

 自分たちの身を守るマリスの警戒の薄い『明日の影』の周囲では環境が暴れ、スライクが足場にしていたデオグラフが羽虫のように吹き飛ばされる。


「ち―――、」

「!」


 援護せざるを得ないと判断したマリスは、しかし目を丸くする。

 同じように吹き飛ばされたスライクは、吹き飛ばされたデオグラフがもみ合うように集まる地点、いや、“空点”を足場にすると、周囲のデオグラフを掴み、『明日の影』へ向かって“投げつけた”。


「―――、」


 マリスは一瞬幻覚を見た。

 “投げたデオグラフを足場にし”、『明日の影』にその大剣を振りかざす『剣』の姿を。


 スライクのほんの僅かな挙動から、大気を斬り割くような殺気から、投げられたデオグラフ自体が攻撃ではないと感じ取れた気がした。


 地上で生まれたはずの人間が、空に自分の領域を生み出す様は、あまりに荒々しく、馬鹿げていた。

 錯覚したのも束の間、暴風の中投げられたデオグラフは、滅茶苦茶に乱れ、見当外れの方向へ飛んでいく。

 彼が今足場にしているデオグラフの“塊”も、投擲の反動で大きく乱れて四散していく。


 頭で考えずとも、万にひとつも成功しないことは明らかだった。

 だが、幻覚を見たのは『明日の影』も同じか、『明日の影』は暴風を巻き起こしながらも、スライクの動きを最大限に警戒し始める。


 自身を敵とすら認識させなかった『明日の影』からすれば、初めての経験なのかもしれない。

 突如として現れた男の一挙手一投足は、身を守るためでは無く、“殺すため”のものだ。

 異常種だろうが、生物として、不条理な殺意を前には、どうしたって意識を割かれる。


 “本当に都合がいい”。


「フリオール!!」


 スライクを意識した『明日の影』の隙を縫い、マリスは膨大な魔法を展開した。

 ようやく“環境”相手に先手を取れたマリスは、急激に変化していた気温や気圧を安定させる。


 こうなれば最早どうとでもなる。

 天空の支配者は、今やマリサス=アーティとなった。

 銀に輝くこの天空を、すべて自分たちの都合のいい夢の空間に染め上げることすらできるのだ。


「はっ!!」


 夢の世界、夢の住人が“疾走した”。

 デオグラフを足場にしていたスライクは、今度は“空中すべてを足場にする”。


 ここは空も歩ける夢の世界。

 銀に輝く魔法の光と共に、空を駆けることもできる。


 即座に察知したスライクは、マリスの魔法の効果を気にもせず、大剣を掲げ、開かれた瞬間の討伐への道を突き進んだ。


 マリスはスライクの向かう『明日の影』を見据え、その姿に僅かな狼狽を感じた。

 “環境”にここまで抗う人間など、『明日の影』の理外の存在だろう。


 やはり『明日の影』は“知恵持ち”の魔物だ。

 その行動には意図がある。


 イオリの行動を見ていたのかは知らないが、先手を打って姿を現したのも拠点から不穏なものを感じたからかもしれない。

 すべては想像だが、少なくとも、『明日の影』もまた、環境を操らんとする悪しき存在でしかないのだ。


 そして、“環境に抗うマリサス=アーティへの警戒が薄かった”のも『明日の影』の判断だ。

 先ほどマリスは魔法を放った。

 しかし『明日の影』にはまるで通用していない。


 だがそれは、マリスの攻撃の威力が弱かったからではない。

 雲に住まうことから、“無機物型”に近しい存在だと当たりを付けて攻撃したマリスが、“二択を外した”だけだ。

 無機物型というのは、空気や液体などの身体を持ち、物理的な攻撃に耐性のある種が比較的多い魔物のことである。


 この魔物の正体は、そのまま見た目を素直に信じるだけでよかった。

 『明日の影』は、“幻想獣型”の魔物だ。

 自然淘汰の中に存在せず、生まれた瞬間から変わることなく完成した、数多の生物が夢焦がれた究極体。


 『明日の影』の正体は完全に見破った。


 対処方法も見えている。いや、“確定した”。

 共通点の少ない幻想獣型の対処方法は多岐に渡るが、『明日の影』は魔術攻撃に極端に強い耐性を持つ異常種なのだろう。


 なにしろ、“マリサス=アーティの攻撃”に動じなかったのだ。

 日輪属性というのもあるだろうが、以前遭遇した『地底の王様』以上に手ごたえが無い。


 環境を操る巨竜。

 絵本の住民。

 だが、生物である以上、物語である以上、必ず終わりは存在する。


 “ゆえに答えが出る”。


 マリスの魔術攻撃が通用しない以上、“物理攻撃が通用する”。

 でなければ、“討伐不可能”になるからだ。


 『数千年にひとりの天才』にしか許されぬロジックの先、世界最高峰の物理攻撃者がその剣を煌めかせる。

 彼がいなければ、物理的な性質を持つ魔法に切り替え、幾度となく放つことになっていたが、最速の決着は今目の前にあった。


 今度は幻覚ではない。

 確信と共に、マリスは金色に輝く巨龍と大男の激突に、一瞬目を奪われた。


 そこで。


「―――“マリサス=アーティには、認識させない”」


 中性的な、声が聞こえた。


「―――、」


 油断をしていたわけではない。

 神話クラスの存在を、自分のロジックに落とし込んだその瞬間。

 難敵を前に、天空の支配権を奪ってみせたその瞬間。

 神話のように、龍に挑む勇者の姿を見たその瞬間。


 ほんの僅かな、気の乱れ。


 意識の外から、漆黒の騎士が―――『剣』が、マリスの頭上に出現した。


「っ―――」


 その反射的な行動は、“失敗だった”。

 突如として出現した敵から反射的に離脱したマリスの周囲は、一瞬で暴風の世界に変貌する。

 余裕のない対応は過剰に意識が割かれ、あっという間に、環境の支配権を『明日の影』に奪い返された。


 強制的に後手に回されたマリスは、再び環境変化の対応に追われる。

 マリスが抑え込んでいた環境変化は再び暴れ、夢の世界が吹き飛ばされた。

 スライクも、今自分を襲った『剣』も、空中で吹き飛ばされ、姿が見えなくなっていた。


 大きく乱れた環境に、しかしマリスは最優先で地上の安全に注力する。

 下手に抑え込んでいただけに、今まで以上の異常が暴れ、打ち消すにも“知る必要のあること”が爆増した。


 いくらかの有害な影響が地上に漏れてしまったかもしれない。

 あのとき、たとえ我が身が斬り割かれたとしても、『明日の影』から奪った環境変化の権利は、絶対に手放してはならなかった。


 唇を強く噛み、マリスは空の“どこか”を睨んだ。


「『剣』のバルダ=ウェズ……!!」


 『光の創め』が出現する可能性を考慮していなかったわけではない。

 だが今、あの瞬間だけは横槍を許してはならなかった。


「……?」


 再演算に最適な魔法の展開。

 吹き飛ばされたスライクも急いで探さなければ命に関わる。


 めぐるましく脳働かせ、魔法でスライクを探りながらも、マリスは、また天空の支配者となった『明日の影』を見上げた。


 今襲ってきたバルダ=ウェズは、マリスの隙を縫い、あわよくば撃破、最低でも天空の支配権を手放させるのが狙いだったのだと考えられるが、出現したのは、マリスの上空からだ。


 ならばそもそも、“どこにいたのか”。


「……!」


 マリスは、今までよりもずっとこちらに意識を向けている『明日の影』の、“さらにその上”。

 巨龍の頭上、暗黒の雲に紛れながらも、それ以上にどす黒い煙が、不気味に蠢いているのが見えた。


「ま、“魔門”……!!」

「―――レイリス!!」


 マリスの背後で男が叫んだ。

 その男自体は察知していたが、彼が魔術を放った先、マリスから幾分離れた場所の、察知し切れていなかった“バルダ=ウェズ”に直撃する。

 攻撃を受けるや否や、バルダ=ウェズはまた空の世界で姿をくらませた。


「マリサス=アーティ、無事か!?」

「マルドさん! さっき、スライクさんが、」

「そっちは気にしないでいい! 君は『明日の影』に集中してくれ!!」


 現れたマルド=サダル=ソーグは、空に吠えた。

 マリスと同じ月輪属性の彼だが、暴風の中制御が上手くいっていないのか、苦悶の表情を浮かべている。


 奴は未だに空にいて、マリスを狙っていたらしい。

 改めて索敵すると、自分の銀の世界にいるというのに、バルダ=ウェズの存在の検知は困難を極めた。

 あの魔族は土曜属性だ。

 土曜属性は魔術的な効果を受けにくいことが特徴だが、マリスの魔法の効果も鈍くすることができるのか、ほんの小さな違和感程度にしか認識できない。

 ただでさえ膨大な処理に追われているのだ、意識を少しでも離すと一瞬で見失う。


 マルドは虚空に魔術を放とうと構え、しかし動きを止めた。

 代わりに暴風に流されているのか襲撃してきているのか分からないデオグラフを撃ち、また四方八方を索敵する。

 彼も彼で、バルダ=ウェズが今どこにいるか察知できていないようだった。


「く、そっ」

「マルドさん、ここは自分ひとりで問題ないっす。危ないっすよ」


 徐々にこの状況での索敵にも慣れてきた。

 マリスの魔法の影響を受ける存在たちは、ぼんやりとだが察知できる。

 誰が誰かを区別するほど気は回せないが、離れた場所にふたつ、デオグラフの群れを跳び移っている存在を感じられる。

 スライクとバルダ=ウェズだろう。

 ここから離れて地上へ向かっているように感じるが、果たしてどうか。それ以上は探れない。


 だが、多少無理をすれば、先ほどのような奇襲は対応できる。

 むしろ飛べるとはいえ、この場に留まるマルドの方が危険だと感じた。


 しかしマルドは奥歯を噛みしめ、マリスの周囲を索敵する。


「俺の安全は1ミリも考えるな。バルダ=ウェズへの警戒もデオグラフの対処も俺がする。何が起きているかは分かっているんだ、『明日の影』が出現した以上、君の敵は“目の前”じゃない」


 言われたことは理解できた。

 確かにマリスも気にしていたが、目の前の変化に追われて意識が希薄になっていたのは否めない。


 仮に『明日の影』を討伐できたとしても、その後。

 この周辺の異常な環境はすぐには解消しない。

 『明日の影』が好き勝手に弄繰り回した環境は、依然として暴れ狂い、生物のいられる環境ではなくなるだろう。


 自分たちは大人数で移動している。

 目の前のことを決着させても、全員が安全圏に行くまでマリスは魔法を使い続けなければならないのだ。

 戦いが長引けば長引くほど、環境の異変の範囲は膨大となる。

 最悪『名前のない荒野』から出るまで、マリスは寝る間も無く対処し続けなければならないかもしれない。


 バルダ=ウェズが出ようが魔門が見えようが何が起ころうが、“他の人間が出来ること”をするべきではない。

 マリスはたとえほんの少しの労力でも払うことを控え、『明日の影』に、いや、“環境”と戦い続けるべきだとマルドは言っているのだ。


「……辛そうっすけど、大丈夫っすか?」

「おい」

「話すくらいは別に何とも。助けない、でいいんすよね」

「……は。理解が早くて助かるね。月輪属性としても、……“人間としても”、あり得ない完成度だ」


 中傷のような言葉が出てきた。むっとはしたが、彼も余裕が無いのだろう。

 やはりマルドは環境のめぐるましい変化に必死にしがみついている状態らしい。

 自意識が高いわけでもないが、確かにここまで滅茶苦茶な環境に対応できるのは自分くらいであろう。

 スライクもだが、むしろよくこの場にいて命があるものだとさえ思う。


 地上には、民間人をはじめとし、対抗することすらできない者も多い。


 『明日の影』はすでに、マリサス=アーティを環境を防ぐばかりの人間ではなく、自身同様に環境に影響を及ぼせる外敵と認識してしまった。

 先程よりも乱雑な変化に、考えることがまた増える。

 今まで以上に先手を取られ続け、マリスにまるで手番が回ってこない。


 少しでも判断を誤れば、マリスは無事でも地上の誰かに被害が出てしまうだろう。

 戦いが長引けば長引くほどその確率は増し、皆の命に関わる。


 それだけに、やはり先ほどのバルダ=ウェズの妨害が、口惜しい。


「っ」


 隣には、歯を噛み砕くほど食いしばり、震える男がいた。

 マルドの顔はマリス以上に悔しさに染まっていた。


「さっきは悪かった。読めていたはずだった、『光の創め』の出現は。あのとき俺が間に合ってさえいれば、済んだ話だった。それが最優先事項だった……」


 先ほどバルダ=ウェズの襲撃を受け、天空の支配権を奪われたことを言っているのだろうか。

 マルドもこの場所へ向かいながら、バルダ=ウェズの出現を見たのだろう。


「あんなの、」

「あの程度の奇襲、取り零していたら“届かない”」

「……?」


 マルドの言葉は正確には分からない。

 だが、突如として天空に出現したバルダ=ウェズの奇襲を許したことでさえ、彼の中では“ミス”なのだろうか。


「具合、やっぱり悪そうっすけど」

「何度も言うけど、俺に何かしなくていい。俺が出来ることはもうほとんど残っていない」

「?」


 マリスは『明日の影』の対処を続けながら、周囲を警戒するマルドに視線を送った。


「俺が出来ることは、“盤面に駒を揃えるまで”だ。『最古の蛇』、『明日の影』、『剣』のバルダ=ウェズ。そして、“魔門”。これでひとまず出揃った。奇襲を成功させないで標的が揃いさえすればいい。あとは俺がどうこうできる世界じゃないからね。―――それだけに、さっきのミスは許せない」


 マルドも頭上の『明日の影』の、さらにその先を睨む。

 彼もあの場所に、“魔門”と思しき存在を感じているのだろう。


「俺も可能な限りのことはするけど、今や捨て駒だ。“死んでも動揺さえしなくていい”。……っ」


 マルドは胸を抑えた。

 彼の魔法が乱れたのを感じる。異常環境の生み出した“何か”が彼を蝕んだだろう。


 マリスのフリオールよりも完成度の低さを感じる。

 そもそもマリスが当たり前のように使えるだけで、フリオールは月輪属性の中でも難易度は極めて高い大魔法だ。

 完璧に使用できる人間は、月輪属性の希少さもあり、世界中でマリサス=アーティだけであろう。


 鬱陶しかったデオグラフを対処し、その上で、どこにいるかも分からないバルダ=ウェズの動きを読める彼がこの場にいるのはマリスにとっては大きいが、彼自身の代償も大きい。


 マリスの補助無くこの場に存在できるのがマルド=サダル=ソーグだけというのはあるが、ここまで危ない橋を渡るなら、リスクは上がるがこの場をマリスに任せ、地上に降りるべきだろう。

 彼の知力や注意力は、地上の混戦でも活かせる。


「……言ったろ。俺の仕事はほとんど終わっているって」


 マリスの思考を読んだように、マルドは呟いた。

 よく見ることがある、自らを嘲るような笑いだった。


「魔導士隊のサポートも多少出来るけど、他にいるなら任せるよ。……君らのところにいるだろ」


 マルドは眼下に視線を向け、どこにいるかも分からない誰かを見ているようだった。


「駒が出揃うまでは俺の方が得意みたいだけど、揃ったあとは“彼女”の方が向いてそうだ」


―――***―――


 『明日の影』は、徹底的に無視だ。


 ホンジョウ=イオリは召喚獣を操りながら拠点の上空を飛び回っていた。

 突如として戦場と化した第3の拠点。いや、推測が確かなら最終拠点になるだろう。


 さほど大きな規模の拠点ではないが、岩山に隣接するように設置され、豪雨と自分たちを守ってくれるマリスの魔法の影響で、視野は最悪。

 目に強い負担がかかり、召喚獣で上空から見下ろしても状況が掴み辛い。

 ほんの少し離れた場所に移動するだけでも、至る所から襲撃してくる飛行種の魔物のせいで思うように進めなかった。


 イオリが行っているのは、アラスール=デミオンと同行し、各所の魔導士隊や旅の魔術師への指示と、拠点の人々が対応し辛い位置から襲撃してくる魔物の討伐だった。


 いかに傑物たちといえど、急な異常事態に大混乱で、民間人を守りながらとなると対応は後手後手になる。

 アラスールは状況説明と、理解が遅れた者には“思考停止を強要し”、指示を飛ばしていた。


 こうした緊急事態では、冷徹に、徹底的に、合理的な行動を取らせることが肝要となる。

 普段ならきちんと段取りを踏んで説明していただろうが、生憎と、自分たちにもそれほど余裕がない。


「西の避難所への通達はひと段落かしらね。襲撃も薄目だし大丈夫だと思うけど、彼ら、ちゃんと働くかしら?」

「魔導士隊の方は問題ないだろう。旅の魔術師は半々かな、こういう指示に慣れていない」

「そーね、でも羨ましい。私も何度命令無視をしたくなったことか。このままイオリちゃんと空のデートをしてたいわ、さっき凄いのも見れちゃったし」


 同行するアラスールは、普段と変わらぬ口調で愚痴った。

 これでいて、彼女の指示は的確だ。

 日常と戦場の境界線が希薄な彼女は、この異常にも適応し始めている。

 論理も感情も等しく保つのが、アラスール=デミオンのスタイルなのだろう。


 どうにも羨ましくなる。

 イオリは、緊急時は特に、可能な限り感情を排除した方が集中力は高まるタイプだ。

 それでも、そういう自分が好きとは言っていない。

 結果を出すためにやらざるを得ないだけだ。


 そして悲しいことに、感情を殺して状況把握と指示に努めた結果、ある程度正確な戦況が見えてきた。


 拠点の北部からは飛行種の魔物のデオグラフが襲来し、南部からは機動力に優れるファリオベラが襲撃してきている。

 突然の豪雨に各所で土砂崩れが起きているも、ホワーグとパインの初動が早かったことも助かったのだろう、西部の岩山で事前に見つけていた洞穴に、大半の依頼参加者は避難できているようだ。


 魔物の群れは最初、北と南から拠点を挟むように襲ってきたが、敵もこの暴れ狂う天候に混乱が生じたらしく、群れから離れた魔物が、至る所で無秩序に暴れている。

 たまに視界に入る拠点は見るも無残な惨状となっていた。


 この事態に強い違和感を覚えていたイオリだったが、つい先ほど、召喚獣での移動中に視界に入ったもので、謎が解けた気がした。


 『明日の影』を討とうとしていたらしいスライク=キース=ガイロードが、上空から、デオウラフを足場に落下してきたのだ。

 距離は離れ、視認性の悪いせいですぐに見失ってしまったが、その信じられないことをする男を見て、イオリは爪を噛んだ。


 スライク=キース=ガイロードという男は、超常的な力を持つ。

 だが、イオリの理解では、己の力に支配された愚者ではない。


 身ひとつで魔物を伝い、上空の巨龍を討とうとしたのも、イオリからすれば馬鹿げているとしか思えないが、少なくとも彼の中では『明日の影』を撃破する算段があり、そして算段がある以上、彼には達成する力がある。


 そんなスライクが、今なお天空を支配する『明日の影』から離れ、降りてきていたのだ。


 彼には『明日の影』の討伐を依頼した。だが、彼は空から降りていた。

 旅の魔術師が自分たちの指示に素直に従うか。イオリの考えは半々である。


 しかしこの場合、想像を悪い方に倒すと、スライクは、“『明日の影』を無視するほどの敵”を発見した可能性がある。


 となると、魔門が召喚する最悪の仮想敵。

 “魔族”がこの場にいることすら考えなければならない。


 イオリも魔族の出現は警戒していた。

 見知らぬ魔族の可能性もあるが、確率が高そうなのはドラクラスの問題に絡む“魔王の弟”、あるいは、『光の創め』だ。


 直感的に辿り着いていた仮説があり、それが補強されたような気がする。


 襲撃してきたデオグラフにファリオベラ。

 この“知恵持ち”の魔物たちの行動が、ずっと理解できなかったのだ。


 たまたま別の群れが同時に襲撃してきました、なんてことはほとんど起こらない。

 確かに凶暴な魔物たちであり、当然のように人を襲ってくるが、別種の群れが、大量に、魔物対策が施された拠点になだれ込んでくるなど考えられないのだ。

 ただでさえこの悪天候だ。その上天空には人間は勿論魔物ですら絶対に近づきたくない『明日の影』が蠢いている。

 だがこの群れは、明確に意思を持って、この拠点を攻めてきているのだ。


 では何故そうなるのか。

 そういう行動をする魔物を、イオリは最近見ていた。


 周囲を飛び交うデオグラフを蹴散らしながら、その姿を注視する。

 視野が悪くほとんど気づかない。

 しかしデオグラフたちの身体に、ほんの少し、“黒い煙”が付着しているのが見えた。


「アラスール。―――『剣』のバルダ=ウェズが出現したかもしれない」

「ここで来たか、ほんっとに余計なことしやがるわね」


 この場は最早地獄と化した。


 デオグラフとファリオベラの群れが暴れ、天空には『明日の影』、そして恐らく魔門もそこだ。

 その上で、『剣』のバルダ=ウェズがどこかにいる可能性がある。

 もちろん、『最古の蛇』もこの混乱に乗じて現れているだろう。


 だが、“いると分かればやるべきことは見える”。


 まず、対抗策を考えなくていいのは、『明日の影』だ。

 恐らく想像もできないほど酷い“環境操作”をしているだろうが、『数千年にひとりの天才』マリサス=アーティが対処している。

 状況が見通せるまでは最優先で撃破してマリスを解放しようと目論んだが、彼女と『明日の影』は、恐らく“戦闘をしていない”。

 金色の龍は環境を暴れさせ、マリスはそれを魔法で対処しているのだろう。

 環境支配権の奪い合いなど、人間が手を出せる領域ではない。


 だが、“それだけだ”。『明日の影』はその巨体を暴れさせてこちらを襲ってきているわけではない。

 彼女の身を案じる感情を殺せば、マリスが対応している時点で無視すべき相手である。

 手助けできず、彼女が失敗すれば全員死ぬ。ならば事態が終息を見せるまで、“放っておく”。


 精々、マリスの失敗への恐怖と、頭上に常に巨大な生物が獰猛な顔を覗かせており、いつ空からその巨体で襲ってくるか分からぬ重圧を感じ続けるだけだ。


 そして『剣』のバルダ=ウェズ。

 同じく対処の優先順位は極めて高いが、やはり『明日の影』同様の状態である。


 以前遭遇したとき、バルダ=ウェズは周囲の魔物の力を上げるような“何か”をしていた。

 今のデオグラフたちのように、その黒い煙に包まれると、戦闘力が大幅に増す。

 自分たちを追従させたときのように、魔物たちを操ることもできるのだろう、この魔物の襲撃はバルダ=ウェズの仕業と考えた方がいいかもしれない。

 つまりは奴を討伐、最低でも行動不能にできれば、魔物の群れの勢いは殺せることになる。


 だが相手は魔族。

 早期撃破は不可能な上、そもそも魔族の出現というだけであらゆる問題が発生する。

 対抗できる者はごく少数で、しかし対抗するには人数がかかり、成功の保証もない。

 そして対処を遅らせることも絶対にできないのだ。

 魔族は万全の備えをしていても瞬殺してくるような化け物だ、この乱戦で自由に動かれればあっという間に全滅する。

 魔導士たちと慎重な作戦を練り、正規の手順で対抗するのは現在のリソースでなくとも不可能である。

 “裏技”の出番だ。

 推測通りスライク=キース=ガイロードが対応してくれるのを祈り、やはり強いプレッシャーを感じながら、“放っておく”ことになる。


 『最古の蛇』への対処は、“本当に感情を殺す必要があった”。

 被害を出さないことは不可能だろう。


 赤い目、そして月輪属性と、確認方法は全員に共有しているが、この状況でいちいち相手の様子を細かく確認することはできない。

 イオリが『最古の蛇』なら、この混乱は決して見逃さないだろう。

 すでに何人かは被害に遭ってしまったかもしれない。

 だが、例えすべてを読み切っていたとしても、出来ることと出来ないことがあるのだ。


 それでも、あくまで危険な魔物が1匹紛れ込んでいるだけではある。

 『最古の蛇』も隙を伺いながらであろうし、被害を出すペースはさほど早くない。

 それまでに何人が被害に遭うかは知らないが、いつかどこかで誰かが察知するまでは最悪放置でもいい。


 ゆえにイオリが最も問題視しているのは、“魔物の群れ”だった。


 魔導士隊や旅の魔術師たちが対処に当たっているとはいえ、“バルダ=ウェズの影響”を受けた魔物たちだ。

 それを差し引いても、そもそも戦闘は、“数”が絶対正義である。

 例えば100点が1体より、30点が2体いた方が対処は困難になる。特に民間人を守りながら戦う今、どうやっても討ち漏らしが出てしまうだろう。


 加えて、こちらの人員は動きが鈍い。

 虚を突かれたこと以上に、『名前のない荒野』での移動によって、本人が自覚している以上に肉体的にも精神的にも疲弊しているだろう。

 有象無象の魔物の群れと侮ると、いや、侮らずとも対処は困難を極める。多くの死者が出るかもしれない。


 特に今、必死に対処方法を考えているのは、馬のような姿の魔物、ファリオベラである。


「イオリちゃん、“デオグラフ”はどうしようかしらね?」


 周辺を飛ぶデオグラフを少しでも減らそうと、アラスールは普段と変わらぬ様子のまま魔術を放った。

 流石に最高峰の魔導士、何気なく手を伸ばしただけと思ったのに、こちらへ向かってきたデオグラフが必殺の一撃で貫かれる。

 感情を殺していたつもりだが、彼女とほど近い距離にいることが怖くなってきた。


「みんな身体が重い。疲弊と悪天候で視力も落ちている。上空から突撃してくる飛行種なんて、ほとんど見えやしないだろうね」


 同じ上空にいる自分たちですらデオグラフの姿は滲んで見える。

 魔力の気配で探る比重が多かった。


 天空からは『明日の影』の重圧、そして視界の悪い中、突如として襲撃してくるデオグラフ。

 酷い職場環境に、イオリも余裕は無い。


「本丸の北部にはサクラを向かわせた」


 余裕が無いから短く言うと、アラスールが眉をひそめたのが分かった。

 そう思うのは分かるが、今は感情を殺している。


「それだけ? イオリちゃん、私の気のせいだったらいいんだけど、」

「気のせいじゃないさ。サクラは今、“明確に調子が悪い”。全体でも一番なんじゃないかな」


 サクの様子はイオリも見ていた。

 彼女はアイルークの魔門破壊のことを未だに気にしているようで、今回は過剰に気負っていたようだ。

 アラスールの目から見ても分かるほど、明らかに絶不調である。

 加えてあのスライク=キース=ガイロードのバディだったのだ。

 真面目な彼女は彼の動きを常に警戒し続け、精神的にも肉体的にも疲弊し切っている。


 アラスールは舌打ちした。


「応援に向かえる人をどうにかして捻出するしかないわね、群れから離れている奴らもいるし、他も手薄に出来ないけど、なんとか、」

「アラスール。サクラのことは“気にしなくていい”。今僕らが最優先で考えるべきは、群れから離れたデオグラフと、ファリオベラの対処だ」


 感情は殺している。


「アラスールは魔導士隊の指揮に集中してもらいたい。僕らの方は、僕が考える」

「……あら。ますますデオグラフの群れを手厚くカバーしたくなるけど。あんな様子の旅の魔術師ひとり向かっただけの場所を放置できないわ、あの群れの対処を間違えたら、致命的よ?」

「みんな多かれ少なかれ調子は悪いさ。―――“だからこそサクラに任せたんだ”」


 今は余裕が無い。

 『明日の影』をマリスひとりに任せて放置しているように、どうにかなっている場所に手を回すことはできないのだ。


 デオグラフの群れがいる北部は、危険な場所だ。

 彼女たちへの感情を殺さなければ、今すぐにでも向かいたくなる。

 だがやはり、“どうにかなる”場所を回っている暇はないのだ。


「僕が捉えるミツルギ=サクラの長所は速力だけじゃない。“どんなコンディションでも下振れしないこと”だ。苦悩していようが疲弊していようが、それでも結果の最低保証をしてくれる。この依頼に最も向いている“異常者”だ」


 イオリの立場からすると、成果を“確定”してくれる駒の存在がどれだけ重要か。

 人間は状況や状態によって成果が変わる。正確に計算できないのだ。ゆえに保険を打たざるを得なくなり、あとから見れば非効率な行動を取る羽目になってしまう。

 ミツルギ=サクラはその前提を崩壊させてくれる。

 彼女の能力でできると思えることならば、彼女の状態がどうであれ完遂してくれるだろう。

 人は余裕が無いときこそ真価を問われる。


 感情を殺したイオリが考える人の価値というものは、そういうものだ。


「それ、本人に言ってあげればよかったのに」


 言わなかっただろうか。

 イオリも余裕が無い。

 言いそびれていたら、酷いことを言うが、結局結果を出してくれるのだから、あとで言えばいい相手だ。


「“それより問題はエリサスだ”」


 機械的に考えるイオリは、問題視している人間の名を上げた。

 エリーの調子も明らかに悪い。

 指定Aという重圧に、尊敬する魔導士隊との緊張感のある生活。

 サクに勝らぬとも劣らぬほどの消耗具合だ。


 そして問題なのは、エリーはサクと“真逆”であること。

 彼女はとくに精神状態と結果が密接に連なる。

 駄目なときはとことん駄目。下振れが大きいタイプなのだ。


 殺したはずの感情が蠢く。

 魔門の場所に当たりを付けてから最優先で探しているのだが見当たらない。


「けど、依頼参加者への指示が最優先。民間人の避難誘導と、動ける人間を増やすことが急務だね」

「そう、ね。ま、そっちの方は私が考えるわ」


 顔に出ていただろうか。

 エリーを探しに行きたい衝動をぐっと堪える。

 これだけ探していないとなると、サクに任せて放置した北部にいるのだろうか。

 あの調子では、飛行種の群れの相手は危険だ。


 だが、相手が数で来ているなら、こちらも数を揃えることを優先せざるを得ない。


 感情を殺し、考える。


 魔導士隊に要求することは多い。

 民間人保護とファリオベラの対処。魔物が入り混じる中、拠点の重要資材の避難も必要となる。

 目の前に魔物が現れても、旅の魔術師に指示を出して戦闘を避け、自分にしかできない仕事を遂行してもらう冷静さも必要だ。

 混戦だからこそ、目先に囚われず各所の“頭”になってもらわねばならない。

 魔導士も水準が高いとはいえピンキリだが、アラスールの指揮があれば抜かりはないだろう。


 一方イオリはそうした細かな戦局のフォローと、そして特に自分たち七曜の魔術師のことを考えなければならない。

 アラスールを最速で移動させることが最優先なだけに、やはりカイラ=キッド=ウルグスがいないのは痛かった。

 魔物の群れもそうだが出現した難敵が多く、その上奇襲を受けたとなると切れるカードはさほど多くないのだ。

 各所に最低限の対処を施し、まずは場を落ち着かせなければ何も始まらない。


 つまり考えるべきは、“何に誰をぶつけるか”だ。


 『明日の影』はマリスが、デオグラフの群れの本丸はサクが担当している。

 それよりは状況がつかめないとはいえ、『剣』のバルダ=ウェズはスライクが対応してくれているだろう。そうなっていなければそもそも自分たちは死んでいる。


 残る明確な課題はファリオベラの群れ、『最古の蛇』、そして“魔門”だ。

 群れから離れた魔物や民間人の護衛なども含めるとなると、山積みの課題を前に、少ないカードの切り方を誤るわけにはいかない。


 誤解が生じる酷い思考であるが、冷徹に、考え続ける。


 最も効率のいい、彼女たちの“使い方”を。

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